第十九話 風の中の侍を見た


春の山を越えた先に、小さな村があった。


その村に、一人の旅の僧が立ち寄った。


湯を所望して腰を下ろすと、茶屋の女がぽつりと漏らす。


「……最近、村に風が通るようになりましてね」


「風、ですか?」


「はい。なんというか、変なんですよ。朝には道がきれいに掃かれていて、

 火のつけっぱなしがいつの間にか消えていて……」


「どなたかが?」


「いえ、誰も見てないんです。不思議ですねえ」



その夜、僧は宿の縁側に出て、湯をすする。


風が、静かに吹き抜ける。


そのときだった――

遠くの茶屋の軒先。

ぼんやりとした灯りの向こうに、羽織がふわりと揺れる影を見た。


黒地に、かすかに桜の模様。

腰に、細く差された刀の影。

風に立つ、凛とした立ち姿。


あれは――


僧が思うより早く、影は風の中に溶けていった。



翌朝。


僧はもう一度、昨夜の場所を訪れた。


そこには誰もおらず、

ただ、縁の柱の下に、草履の跡がきちんと揃えて残されていた。


脇には、まだ温もりの残る湯呑が一つ。

口をつけたように、水面がわずかに揺れている。


僧はそれを見て、合掌した。


「……なるほど。あれが、侍か」


風が吹いた。

縁の桟がきいと小さく鳴った。


第十九話・了


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