第十七話 誰も見ていない時に




その村では、井戸の水が濁った。


ある朝を境に、汲み上げた水が白く濁り、

次第に底から異臭が立つようになった。


「呪いじゃないか」

「きっと、何かが落ちたんだ」

「井戸はもう、使わないほうがいい」


村人たちは口々に言い、

井戸から少し離れた沢の水を使い始めた。


不便だった。

重たい桶を担ぎ、細い坂を何往復もする。

だが、誰ももう、井戸に近づこうとはしなかった。



ひとりを除いては。



あやかは、毎日その井戸のそばに立った。


水を汲むわけでもなく、

覗き込むわけでもなく、

ただ、座って風を受けていた。


夜、誰も見ていない時。

あやかは桶を持って井戸の中を浚い、

溜まった泥と朽葉を引き上げた。


底に沈んでいたのは、崩れた木の蓋だった。

それが水脈をふさぎ、腐葉を呼んでいた。


あやかは、静かに水を流す道を作り直し、

風の通りを読むように蓋の位置を整えた。


誰にも見られないまま、

その手は夜の中に消えていった。



翌朝。

村の子どもが、そっと井戸に近づき、

縄を引いた。


手桶に揺れる水は、

透き通っていた。


「……井戸、治ってる」


誰がそうしたのか、誰も知らなかった。

けれどその日から、誰も“呪い”とは言わなくなった。



村を出るあやかの背を、ひとりの少女が見ていた。


「ねえ。

 井戸が、朝にちょっと笑った気がしたよ」


あやかは振り返らなかった。

腰袋から干し柿を取り出し、ひと口かじった。


「……たまには、そういうこともあるさ」


風が吹いた。


羽織が揺れ、

その背が、澄んだ空へと溶けていった。



第十七話・了



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