第十五話 名もなく現れ、名もなく去る


「最近、この村に“名も名乗らぬ女”がいるそうですよ」


そう言ったのは、村の若い男だった。


「刀を差してるくせに、口数も少なく、ふらりと現れては何も言わずにいなくなる。……気味が悪いって話もあります」


隣で茶を啜っていた老人が、口をつぐんだ。


その話を聞いていたあやかは、何も言わず、ただ一口、湯を飲んだ。



その日の夕方、村の端にある納屋から煙が上がった。


藁束に火がつき、風に煽られて炎が一気に広がる。


人々が駆けつけるより早く、

あやかは井戸の水を手桶に汲み、濡らした布で火の周囲を封じた。


燃え広がる前に、火は鎮まった。


だが、誰も彼女に礼は言わなかった。

「あの者が火を呼んだのでは」と呟く者すらいた。


あやかは言葉を返さず、そのまま踵を返した。



翌朝、火元の家の娘があやかのもとを訪ねてきた。


深く頭を下げ、小さな声で言った。


「……名前を、教えてください。せめて、名を」


あやかは縁側に座ったまま、振り返らなかった。


「名など、風の中にまぎれればいいさ。

 火のように、すぐ消えてくれてかまわない」


娘は何も言えず、ただその背中を見つめていた。



猫が現れた。

柱の陰から、するりとあやかの膝へ近づく。


あやかは腰袋を開け、干し柿をひとつ取り出す。


「……少し渋いな、今日のは」


それでも、口に運ぶ。


風が吹く。

桜柄の羽織が、そっと揺れた。


名を語らずとも、

あやかの行いだけが、

確かにその村に、ひとつの風を残していた。



第十五・了

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