第十一話 昔、ある屋敷で


山道の途中、風に乗ってふと、古い木の匂いがした。


あやかは足を止め、草履のまま斜面を登る。

そこにあったのは、半ば崩れかけた古い屋敷。

瓦は落ち、庭の草は伸び放題。

だが、柱の一本にだけ、風が絡まっていた。


「……まだ残っているのかい」


あやかは草をかき分け、縁側に腰を下ろした。

何年ぶりかも覚えていない。

かつて、老夫婦が住んでいた屋敷。

短い間だったが、泊めてもらい、味噌汁を分けてもらった。


今は、もう誰もいない。



奥の間。

埃をかぶった箪笥を開ける。

何も入っていないと思っていた引き出しの奥に、ひとつの紙束があった。


それは、あやかがかつて――

名を持っていた頃に、残した手紙だった。


中を見ても、名は書かれていない。

けれど、筆跡は確かに、自分のものだった。


「風の吹く方へ。

 あなたがそれを信じて歩けるなら、わたしもきっと――」


そこまで読んで、あやかは紙を閉じた。



庭に出る。

風が少し強くなっていた。


焚き火を起こし、手紙をくべる。

火がぱちりと音を立てて燃えた。


もう戻らぬ名。

語らぬ想い。

それでも、確かにここに“あった”という記憶。


あやかは腰袋から包みを取り出し、干し柿をひとつ、縁に置いた。


「……お礼が遅くなったね」


風が、屋敷の隅を抜けていく。

まるで、誰かがうなずいたかのように。



帰り道、あやかの後を、白い猫がついてきていた。


「……ついて来るつもりかい」

猫は答えず、ただ静かに歩を合わせる。


山道に落ち葉が舞う。

羽織の裾が揺れる。


過去の名は、火にくべた。

だが、風はまだ、どこかへ続いている。



第十一話・了

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