第十話 まだ名乗らぬままで
村に入る手前の坂で、あやかは声をかけられた。
「あなたが……侍?」
振り返ると、背負い袋を抱えた旅の娘が立っていた。
目はまっすぐ、だがどこか無防備。
年の頃は十五か、十六か。
「いや、ただの流れ者さ」
あやかはそう返し、歩を進める。
娘は小さく首をかしげた。
「……いつか、剣を教わりたいと思ってた」
「名も知らぬ者にかい?」
「うん。名より、姿が先にあったから」
それきり、娘は何も言わずに坂を降りていった。
⸻
村では噂があった。
「神社の灯が、夜ごと消える」
誰も灯を消す姿は見ていない。
風のない夜にも、火がふっと消えるという。
村人たちは、誰ともなく「祟り」や「気配」を口にしていた。
あやかは、社へ向かった。
⸻
神社の灯籠に触れると、石がわずかに傾いでいた。
風の通り道。
灯が揺れる角度。
周囲の枝葉。
「……これは、灯が自分で消えているだけさ」
風が通る夜には、揺れた灯が油をずらし、芯を焦がす。
それを繰り返した灯籠が、今も揺れて消えるだけのことだった。
あやかは灯籠の下に石を置き、わずかな角度を直した。
火を灯す。
風が吹く。
だが、今度は火は揺れても、消えなかった。
「……これでよし」
⸻
その夜、村の灯は消えなかった。
次の日の朝、旅の娘が村を去る前に、もう一度だけ声をかけてきた。
「火、消えなかったね」
「火も風も、ただそこにあるだけだ。人が読めば、それで十分さ」
娘は頷いた。
「やっぱり、あなたに会えてよかった。
……名前は知らなくても、背中は忘れないから」
そう言って、山道を下りていく。
あやかはそれを見送ったあと、屋敷の縁側で湯を飲んだ。
包みを開け、干し柿をひとつ口にする。
「……また、味が変わった気がするな」
風が吹く。
猫が柱の陰から顔を出す。
あやかは名乗らない。
けれど、その背は風の中に、今日も静かに立っていた。
⸻
第十話・了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます