第六話 羽織の埃を払う時


春の風が止んだ朝、あやかは羽織を脱いだ。


黒地に桜の柄が散るそれは、何日も風を受け、陽に晒され、

そして村の土と、煙と、焦げた葉の匂いを宿していた。


屋敷の奥、日差しの差す一間。

畳に胡坐をかき、あやかは黙々と、袴の紐を解く。


脇に置いた桶の水に、手ぬぐいを浸す。


「……少しは、落ちるかね」


そう言って、羽織の袖を広げる。

濡らした布で桜の柄をなぞると、わずかに黒い染みが浮いて消えた。


その作業に、言葉はない。

ただ、布が布を擦る音だけが、部屋の中に広がる。



外では、鳥の声。

縁側には湯が湯気を立てていた。

干し柿を包んだ布が、風でかすかに膨らむ。


一通りの手入れを終えたあやかは、羽織を干しに立ち上がる。

桜柄が陽に透けて、まるで空に咲いているようだった。


手ぬぐいを絞っていると、部屋の隅に白い猫が座っていた。


「来たのかい。見届けにでも」


猫は何も言わない。

ただ、あやかの動作を目で追っていた。



羽織が風にそよぐのを眺めながら、あやかは腰を下ろす。

湯呑に口をつけ、干し柿をひとつ取り出す。


「……甘いな」


独り言のようにそう言って、少しだけ笑った。


戦いはなかった。

刀も抜かなかった。

だが今日もまた、ひとつの“準備”が整えられた。


羽織が乾いたなら、また風の中へ歩き出せばいい。



第六話・了

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