第二話 消えた気配


朝。

縁側に差し込む光は、昨日よりもわずかに白かった。

春の終わりは、こうして気づかぬうちに次の季節を呼び込んでくる。


あやかは、静かに湯を飲んでいた。

袴の裾が風に揺れるたび、草木の音がわずかに響く。

だが――そこに、ひとつ足りない音があった。


猫の、足音がない。


昨日の子猫。

石灯籠の陰からこちらを見つめていたあの瞳。

今日もどこかにいるだろうと思っていた。


「……来ぬか」


ぽつりとつぶやき、湯呑を縁側に置く。

草履に足を通し、庭へと降りる。


朝露が残る苔の上をそっと歩く。

竹の影、灯籠の裏、座敷の下――どこにも、あの小さな気配はなかった。


代わりに感じたのは、風の気配の“重さ”だった。

昨日は撫でるようだった風が、今朝は頬を引き締めるようだった。


「まるで……」


あやかは庭の中央で足を止めた。


「まるで、あれは風の化身だったかのようだな」


その言葉に、返事をする者はいない。

空には淡い雲がひとすじ流れていた。


振り返って部屋へ戻る途中、

ふと、廊下の奥――いつも誰も通らぬ部屋の障子が、わずかに揺れていた。

風の仕業か、あるいは。


あやかは静かに歩を進め、部屋の前で立ち止まる。

手をかけることなく、ただその気配を読む。


――そこに、ある。


部屋の片隅に置かれた木の箱。

その中に眠る、一本の刀。

今のあやかが、帯びることなくしまっている唯一の“証”。


目を細める。


風が、また吹いた。


その風に押されるように、

あやかは、ゆっくりと膝をついて木箱の前に座った。


「……久しぶりに、手入れが必要かもしれぬな」


箱の蓋を、音を立てずに開ける。

鞘の上に薄く積もった埃を、そっと指先で払う。


あやかの目が、その刀に映る。


剣を抜く日は、まだ来ていない。

だが、風が変わった。

それだけは、確かだった。



第二話・了

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