風の中に立つ侍

風のあやか屋

第一話 風の中に立つ侍

風の中に立つ侍 ― あやか ―


風が吹いていた。

春の終わり、湿り気を帯びた風が、屋敷の縁側をそっと撫でていく。


あやかは一歩前に出て、袖を押さえた。

黒地の羽織の裾がふわりと浮き、桜の柄が空に舞うように揺れる。


彼女は静かに目を細めた。


縁側の先には、苔むした庭と古びた石灯籠。

そして、その向こうにはどこまでも続く空。

雲は薄く、空はどこか遠くに行きたがっていた。


「風が変わったな」


ぽつりと、あやかは呟いた。

誰に言うでもなく、ただ、その場に漂う気配に向けて。


腰には刀など差していない。

帯は結ばれ、袴は深紅。だがその姿は、戦いを求めてはいない。


あやかは、もう戦わぬことを選んでいた。


それでも、風が吹くたび、背筋が自然と伸びる。

羽織の袖がずれ、肩がわずかにのぞいても、彼女は気にする様子もなく――

ただ、風を受けるその身の内に、静かな気配を蓄えていく。


ふと、庭の端に小さな影が現れた。

子猫だった。いつからいたのか、彼女の方をじっと見つめている。


「……来たのかい」


微笑みもせず、だが柔らかな声でそう言うと、あやかはそのまま座り込んだ。

草履を脱ぎ、足袋のまま、板間の冷たさに足を預ける。


猫は近づくでもなく、ただ少し首をかしげた。

風がまた吹いた。


今度の風は、少しだけ冷たかった。

季節が進もうとしていた。世界も、あやかも、何かの端境に立っている。


静かに、けれど確かに、何かが動き始めている。

そのことを、あやかはもう知っていた。




第一話・了

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