第六章:君が見せた未来

 ホームルームの終わり際、担任の先生の声が教室に沈むように響いた。


「進路希望調査票、今日中に配ります。来週までに提出してくださいね」


 その言葉とともに、数枚の紙が机の上に回ってくる。

 葵の前に回ってきたのは、白いコピー用紙一枚。

 ――進路希望調査票。


 たった一枚の紙なのに、手に取った瞬間、胸の奥がぐっと重くなった。


「……おぉ、ついに来たねー」


 斜め前の席から、陽菜が半分冗談っぽく言った。

 

「どこ書く? てか第一志望って決まってる人、もうこのクラスに何人いるんだろ」

「さあ……でも塾行ってる子多いよね」

「私も何書けばいいかわかんないっていうか……まあでも、どうせまだ一回目だしね?」


 陽菜はそう言って笑っていたけれど、その笑顔の端には少し不安が混じっていた。


「葵は? よく音楽室でピアノ弾いてるけど。音楽系に進むの?」

「ううん。そういう感じじゃなくて……」


口にしながら、自分でもはっきりしていないことが、言葉を曖昧にしていた。


「なんとなく、人のためになることっていうか。音が、誰かにとって意味になるような……そういう方向に行けたらって」


「なにそれ、めっちゃ素敵じゃん。それ書けばよくない?」


「いや、もっとちゃんと具体的に目指すものを言えたら苦労しないんだけどね」


 ふたりで少し笑って、そのあとは小さな沈黙が落ちた。


 紙の上の「第一希望」の空白の欄はやけに白いままで、私はただ漠然とそれを見つめていた。

 結局、何も書かないまま紙を折って、ノートの隙間に差し込む。

 封をするみたいに、そっと。


 ◇


 放課後の音楽室には、冬の終わりの光がまだらに差し込んでいた。カーテンがゆるく揺れていて、窓際の椅子には薄く埃が積もっている。


 私はピアノの前に座り、ゆっくりと鍵盤に指を置いた。音は出さず、ただその冷たさに触れる。

 それだけで、考えすぎた頭がほんの少し静かになっていく気がした。


 そのとき、ドアが静かに開く音がして、私は振り返る。


「……やっぱり、ここにいたんだな」


 ――成瀬くんだった。

 制服の肩に夕方の光がうっすらとかかって、影が床に長く伸びている。


「来ると思ったよ」


「なんで?」


「進路調査票、配られた日だったから」


 彼はふっと笑って、こちらへ歩いてくる。


「葵ってさ、悩んでるとき、だいたいここにいるよね。ピアノの前で考えごとしてる感じ」


「……バレてたんだ」


 私は鍵盤から目を逸らして、そっと指で白鍵をなぞる。


「音の中にいると、考えがほぐれるの。急がなくていい感じになるっていうか」


 彼はそのまま、隣に腰を下ろした。

 ベンチがぎし、と小さく軋んで、肩と肩が軽く触れる。


 沈黙。――けれどそれは気まずくない。

 カーテンの影が私たちにかかって、柔らかく揺れている。


「……俺さ、まだ将来決まってないんだ」


 成瀬くんがぽつりとこぼした。


「興味があることはある。でも、それが本当に向いてるかはわからないし……ずっと続けられるのかも、自信ない」


 その言葉に、私は目を伏せたまま、小さく頷いた。


「でもね、葵に出会って、少しだけ変わったと思う」


「変わった?」


「前はさ、人の痛みに近づくのが怖かった。ふれたら、自分まで崩れる気がして」


「うん……」


「でも葵は、無理に近づきすぎないけど、ちゃんとそばにいてくれた。言葉がなくても、焦らなくてよかった」


 彼は小さく笑ったけど、その目は真剣な色を帯びていた。

 私はそっと鍵盤に手を戻す。


「私も。前に言われた言葉、覚えてるよ。ピアノを弾いたとき、成瀬くんが“痛みがやわらいだ”って言ってくれたこと」


「うん、言ったかも。俺もちょっと覚えてる」


「嬉しかったの。ただの感想じゃなくて……自分の音が誰かにふれたんだって、初めて思えた瞬間だった」


 そのとき、彼の右手がそっと私の手の上に重なった。


 少しだけ震える指先。

 けれど、もうそこに手袋はなかった。


「まだ道の途中だけど……もし、誰かの痛みに向き合える未来があるなら、そこへ行きたいって思ってる。葵に出会って、そう思えるようになった」


 私はそっと手を握り返す。指先から、じんわりと伝わるものがあった。


「私も、そんなふうに思ってくれた成瀬くんのこと、これから先もきっと思い出す。ピアノを弾くたびに、何度でも」


 ふたりの手が重なったまま、しばらく音も言葉もなかった。

 だけど、それでよかった。

 

 窓の外では、春の光がやわらかくにじんでいた。

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