第28話 愛しさの檻

 どうしてあんなことをしてしまったのだろう。

 後悔と自己嫌悪が絶え間なく込み上げてくる。


 誰もが、シャルロッテを意のままにしようとした。

 キンドリー侯爵もエヴァンも兄も。だから、自分だけは絶対に同じことはしないと決めていたのに。


 それがどうだ。


 結局一番ひどいことをしたのはリチャードだ。

 ブラウスから覗いたシャルロッテの白い首筋が、脳裏に焼き付いたように忘れられない。


「どうした、早く次を打て」

 わざとらしい咳払いの後に、しゃがれた声が続く。


「あ、はい」


 皮肉なものだ。シャルロッテの為に会うようになったのに、彼女がいなくなったあともなぜだかこの侯爵と会っている。


「間抜けを通り越して腑抜けだな」


 リチャードはテーブルに目を落とした。いつもと同じ白と黒に塗られた盤面。掴んだ黒い石は手のひらに冷たく触れる。それを決めた場所に打った。これでリチャードの勝ちだ。


「いかがでしょう」


「しかし腑抜けのうぬにも勝てぬとはな。我ながら無様と言わざるを得ない」


 侯爵は狡猾な目を細めて、苦々し気に溜息を吐いた。


 顎をしゃくって従者に命じ、彼は盤を下げさせた。リチャードはただこの老獪な侯爵と差し向かいに座るだけとなる。


「何かあったのかな、カールトンの小倅」


 シャルロッテとのことは、誰にも話していない。

 兄から届いた手紙は、見る気も起きなかった。


 この人ならいいかと思った。ほどよく遠くて、ほどよく無関係だ。どうせ何を話そうとこの人は笑い飛ばすか一蹴するかだろう。もっと近しい人には、何も話そうとは思えなかったから。


 ただそのままを口にするのはさすがに気が引けた。


「僕は……小鳥を飼っていたんです」

 だからやんわりと曖昧にした。


「ほう」


 シャルロッテ。

 小さな金糸雀。歌うように本を読む、可憐な小鳥。


「とても愛らしい小鳥で、まあ僕なりに大切にしていて。美味しい餌も暖かい寝床も用意していたつもりでした」


 シャルロッテはリチャードとは正反対だ。


 そつなく誤魔化すことに長けた自分とは違って、感情が素直に顔に出る。言葉はある程度選んでいるようだが、リチャードは彼女が率直な物言いをしてくれる時の方が好きだった。


 何かを口にする時の、真っ直ぐなシャルロッテの目が好きだ。


 黒曜石のような瞳が、確かな光を宿す。目元がきりりとして、なんとしても言わねばと華奢な肩に力が入る。


 それはどこか警戒する小鳥のようで微笑ましくもあったけれど。

 そうやって一生懸命に生きる様が、この心を惹き付けてやまなかった。


「ただ、このまま僕が飼い続けていいのか、分からなくなってしまって」

「うぬは大ばか者じゃな」


 切り捨てるように侯爵は言った。あまりにも想像した通りで、リチャードはふっと笑った。


 けれど自分にも思うところがある。


「小鳥は小鳥と番になる方が幸せかもしれないじゃないですか。僕には、小鳥の言葉が分かりませんし」


 シャルロッテに対して、心から自由に、思うがままに生きて欲しいと思う。

 けれど、それと同じぐらい多くのことを望んでしまう自分がいた。


 そばにいてほしい。こちらを向いて欲しい。声を聞かせて欲しい。笑って欲しい。


 最初はささやかだった望みは徐々に大きくなっていった。


 挙句の果てが、これだ。

 僕を、愛して欲しい。


「して、うぬはどうしたのだ」

「小鳥を、放しました」


 前々から仕事で縁があった伯爵夫人から、娘の家庭教師カヴァネスに「いい者はいないか」と聞かれていた。リチャードはあれから、シャルロッテを推薦する紹介状をエドガーに書かせた。家令は毎日何か言いたげにこちらを見るが、リチャードは知らぬ存ぜぬを押し通している。


 伯爵夫人はいい人だ。今頃彼女はちゃんとした職を得ていることだろう。


「だからそんなに腑抜けておるのだな」

「……そういうことです」


 リチャードは庭に顔を向けた。


 季節は少しずつ巡る。冬の寒さは少しずつ和らいでもうすぐ春が来る。この庭にも花が咲くのだろう。


 けれど、毎日はこんなにも色のないものだっただろうか。

 腑抜けというのは言い得て妙だ。まるで本当に自分の一部がごっそりと、失われてしまったかのようだった。


「ひとついいことを教えてやろう、カールトンの小伜」

「なんでしょうか」


「好いた女の前で格好つけるというのは、不可能じゃ。所詮惚れてるんだ。圧倒的にこちらの方が弱いから、どだい無理な話なのじゃよ。諦めてぶつかるほかない」


 侯爵の声は、思いの外やわらかに響いた。いつものような嫌味な棘はなくて、すとん、とリチャードの胸に落ちてくる。


「けれど惚れた女の前でこそ格好つけたいものでは無いですか? 僕は別に好きでもない女性にかっこいいと思われたいとは思いませんけど」


 今度は侯爵が笑う番だった。

「だから難しいのじゃよ」


 侯爵は鷹揚に手を打ってもう一度従者を呼び寄せる。恭しく礼をするその者の手の上のトレイには、一冊の本がある。


 差し出すようにその本がテーブルの真ん中に置かれる。装丁の美しい本だった。

 金箔の押されたタイトル。描かれていたのは、王と金糸雀の絵だった。


「これは……」

「わしも最近小鳥の話を読んでな。なかなかに面白かったぞ」


 リチャードはそっと表紙を撫でた。確かめるようにタイトルを指でなぞる。


「王様と呪いで金糸雀に姿を変えられた女の話でしょう?」


 リチャードはこれとよく似た話を聞いたことがある。あの雨のように光り輝く声で読み上げられる文章に耳をすませた日々を思い出す。


「ああ、そうじゃ。愛というのはこういうものかのうと、思ったりもした」


 まさか、このずる賢い侯爵の口から“愛”が語られるとは。リチャードは目を瞠らずにはいられなかった。


「最後に王様が金糸雀にキスをして呪いが解けるんですよね。そうして彼女は人間に戻る」

 リチャードがそう言うと、侯爵は僅かに首を傾げた。


「それは……わしの読んだ結末と些か異なるが」

 どういうことだろう。


「じゃあ、金糸雀が一人で岩を砕いたら呪いが解ける、とか?」

「そんなつまらぬ話、誰が読むのだ」

「ですよね」


「全てを語ってしまうことほど無粋なこともなかろう」

 もう一度、ずいっと本が侯爵の手で差し出される。


「こういうのは己で読まねば意味がないものだ」


 分かっている。自分で読むのが一番なのだと分かってはいる。けれどそれができないから苦労しているのだ。


「よく覚えておけ、小倅。小鳥にも飼い主を選ぶ権利はあるんじゃ」


 侯爵の言葉はまさしく正論だった。


 リチャードは本をぺらりとめくった。この向こうに、リチャードの知らない世界がある。自分がまだ知らない物語の結末が、静かにけれど確かに息づいている。


 けれど、いつものように紙面がぐにゃりと歪んだようになる。眩暈がしたような気がして、慌ててその本を閉じた。


「そうですね」


 そう、シャルロッテは誰だって、選ぶことができる。


 愛は束縛と同義だろう。分かっている。

 強い感情を向けることは必ずしも人を幸せにはしない。ちゃんと理解しているのに、リチャードはこの感情を消し去ることができなかった。


 だから、手放したのだ。

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