第19話 枯れない花

 ――なんでこいつがここにいるんだ。

 と切れ長の緑の目には書いてあった。


「兄さん、彼女は僕のお客様ですからね。失礼のないようにしてください」

 しかしながら、リチャードはしっかり釘を刺すのを忘れなかった。


「お前に言われなくても分かってるよ」

 パトリックはシャルロッテに向き直ると、すっと頭を下げた。


「先日はすまなかった」

「あ、いえ」


 けれど、もう一度彼が顔を上げた時、その顔には「どうだ、見てみろ」と書いてあった。なるほど、この兄はひどく分かりやすい。リチャードとは正反対だ。


「では、兄さん。約束のものを」

「ああ」


 パトリックはどかりとソファに腰掛けて悠然と長い足を組んだ。そこはいつもはリチャードが座っているところだが、これではまるで彼こそがこの家の主かのようである。


 では、リチャードはどこに座るかというと、シャルロッテの隣である。勿論ぴたりと引っ付くようなことはなくて、きちんと距離を空けてだけれど。


 ちらりと横を見ると、静かな光を湛えた緑の瞳と目があった。シャルロッテはさっと目を逸らして、ストールピンを見つめた。


 ビジューのあしらわれたものや、真珠を並べたもの。どれも美しくて、これだけでもブローチとして使えるほどだ。


 中でもシャルロッテの心を捉えたのは、


「きれい」


 ピンの上で、真鍮製の薔薇の花が咲き誇っている。細工が精緻でとてもきれいだった。


 枯れることのない金の花。これはどんなストールにでもきらりと輝きを添えてくれるだろう。


「着けてみますか?」

 リチャードはなんてことないことのように、そう口にした。シャルロッテは慌てて首を横に振る。


「そんな、とんでもないです」

 けれど、リチャードは表情をちっとも変えない。


「兄さん、もう一つ、お願いしておいたものはありますか?」

「あるさ」


 そうして、彼が取り出したのはストールだった。


 全体は落ち着いたペールピンクだが、不思議な光沢がある。思わず触れてみたくなるような、つややかな生地だ。


「片面はシルクで、もう片面はウールです。今頃から春先まで、長く使えるものを選んでみました」


 なるほど、この光沢はシルクなのか。これなら、暗くなりがちな冬の衣装にも華やかさを添えてくれるだろう。


「せっかくなので、これと一緒にご試着されてはいかがでしょう」


「あ、でも、カールトンさん」


「どうされましたか?」「なんだ」


 向かいの男と隣の男が同時に返事をした。二対の緑の瞳に、対照的な色が宿る。一人は窺うように、もう一人は糾弾するように。


 しまった、この二人は二人とも、カールトンだ。シャルロッテは兄弟を交互に見つめて狼狽えた。


「えっと」

 仕方なくシャルロッテは、“隣に座る方のカールトン”の服の袖を訴えるように引っ張った。


「お前は、弟の名前も覚えていないのか」

 一部始終を見ていた向かいの男が、世界の終りのような目をして言い放つ。


「そんな言い方はないでしょう、兄さん」

「だったら、名前一つ満足に呼べないなんて他にどんな理由があるんだ。俺には思いつかないんだが」


 切れ長の緑の目が挑発するように、こちらを見た。「やれるもんならやってみろ」と緑の目が無言で語る。


 持ち前の気性の強さがやんわりと頭をもたげてくる。シャルロッテは売られた喧嘩は、もれなく買う主義である。こちとら代筆もやっているのだ。リチャードの名前なんて飽きるほど綴っている。覚えていないわけがないだろう。


「リチャード、さん」

 掴んでしまった服の袖に触れたまま、シャルロッテは言った。


 緑の目がまん丸になって、やがて噛みしめるように、呼ばれた彼は表情をやわらかにする。


「はい、なんでしょう」


 リチャードは、シャルロッテを見つめてにこりと微笑んだ。直視するのは眩しすぎるぐらいで、シャルロッテはそっと目をカウチに落とした。


「こういうのは、もっと美人できれいな方が試着されるべきで」


 シャルロッテはずっと、こういう明るい色を避けてきた。例えば、妹なら似合うだろうが自分には無理だろう。掴んだままのリチャードの服の袖を、シャルロッテはきゅっと握った。


「そんなことはありませんよ」


「別に買う人間の全員が絶世の美女のわけではないしな。だから、試着するのがいたって普通の凡人でも何の問題はない」

 穏やかな低い声の後にちくりと棘のあるものが続く。


「兄さん。次言ったら追い出しますよ」

「俺は本当のことを言っただけだ、ディック」


 パトリックは尊大にソファに頬杖をついている。言い方はどうかと思うが、彼の言うことは正論でもある。


「そういうことでしたら」

 シャルロッテが応えると、リチャードの目がさざ波のように揺れた。けれど、それはほんの一瞬のことで、彼は控えていたメイドに命じる。


 シャルロッテがカウチから立ち上がると、メイドが一礼して肩にストールを掛けてくれる。また二対の緑の目が、自分を見つめている。見た目そのままになめらかな布地が、するりと首筋を撫でていく。


 ふわりと羽根のように軽くて、それでいてあたたかい。やはりとても質のいいものだ。


「お前、本気で売りつける時はストールなんて五本でも十本でも巻いてやるくせに」


「えっ」


 シャルロッテは弾かれたようにパトリックの方を向いてしまった。パトリックは命じるように顎をしゃくってみせるが、リチャードはすんとしている。


「今日は商談じゃありませんから」


 なるほど、リチャードは普段はそうなのか。確かに、リチャードに手ずからストールを巻かれてそれを買わずにいられる女など、この世界にいないだろう。


 羨ましいような、それでいてちょっと恐ろしいような。


 こほん、と一つわざとらしい咳払いが聞こえた。

「パトリック様、お二人にはお二人のテンポというものがございます」


 シャルロッテは思わずびくりと肩を震わせた。いつの間にいたのだろう。壁と同化するようにエドガーが立っていた。


「テンポ……?」

 一体この二人は何の話をしているのだろう。


「けどな、エドガー。このままだと永遠に辿り着けなくないか」

「それを見守るのも、我々の仕事です」


 どこに辿り着くというのだろう、とシャルロッテが首を傾げたところで、メイドはストールを巻き終わった。


「兄さん、エドガー。もうそれぐらいにしてください」


 リチャードはメイドの手からピンを取り上げて、シャルロッテの前に立った。

 長身が屈んで、シャルロッテを覗き込むようにする。


「あ、あの、わたし自分で」

 シャルロッテが身じろぎすると、そっと肩に手を添えられた。


「ミス・ウェルナー、動かないで」


 投げかけられたのは揶揄うような声だった。

「にしてもお前もいつまでそう言ってるんだ。名前ぐらい普通に呼べばいいじゃないか」


 むっとしたリチャードが振り向きざまにパトリックを睨みつける。パトリックは呆れたように両の手を上に向けた。


「だいたいいい歳の女に向けて、わざわざ未婚であることを強調するような呼び方をするのもどうかと俺は思うけどな」


 今度はシャルロッテがむっとする番だった。


「お前もそう思わないか? なあ、シャルロッテ」

 パトリックはこともなげにシャルロッテを呼び捨ててみせる。


「わたしは、べつに」

 思うところが何もない訳ではないが、いい歳であることは何も否定ができない事実である。シャルロッテは俯いて、体の前で自分の手を弄んだ。


「まったく兄さんは」


 頭の上から盛大な溜息が降ってくる。やれやれとばかりにリチャードは頭を振った。振り切るように、リチャードは一つ大きく息を吸った。


「危ないので、少しじっとしていてください」


 尖ったピンの先がきらりと光って、頬に吐息がかかる。どくん、と心臓が跳ねて、シャルロッテは微動だにできなくなった。かっと体温が上がって、顔に血がのぼっていくのが分かる。


 けれど、リチャードはいたって真剣だ。


 かすかに、男の手が首筋を掠める。自分の心臓の音だけがやけにうるさくて、シャルロッテはしばし息の仕方を忘れた。


 このままずっとこうしていられればと思ったのに、リチャードは見事ピンを留め終えてしまう。


 まるでこの心まで、今に留め置かれた気がした。


「できました」

 腰に手を当てて、彼は大きく頷いた。


 果たして似合っているのだろうか、自分ではよく分からない。


 髪に手が伸びてくる。長い指はストールが一房巻き込んだ髪を丁寧に整えて、するりと梳いていった。


 ふん、と鼻を鳴らしてからパトリックが言う。


「お前の見立ては、いつも確かだな」

 不機嫌そうな緑の目は、少しだけ悔しそうにそっぽを向く。次にエドガーが「本当に」と静かに言った。


 メイドがシャルロッテの前に、鏡を持ってやってきた。


 鏡の中の自分の顔は飽きるほど見た地味なものだが、いくらか華やいで見えた。


 明るい色がずっと苦手だった。それは自分の為に用意されたものではないと、シャルロッテはずっと思っていた。

 けれど、この色はそうではない。そっとシャルロッテに寄り添うように、彩ってくれるのだ。


 駄目押しのようにリチャードが言う。


「よくお似合いですよ……シャルロッテ」


 問いかけるように見上げれば、彼は満足げに微笑んだ。それは満開の花からひとつ花びらが零れるような、そんなあたたかな笑みだった。

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