第15話 未来への贈り物
どんな顔をして、リチャードに会えばいいのだろう。
考えて考えても答えは出なかった。けれど、このまま会わないというわけにもいかないだろう。シャルロッテは、決められた時間にカールトン家の屋敷を訪れた。
書斎に通されてカウチに座れば、書棚がよく見渡せる。
シャルロッテは立ち上がって、本棚の前に立った。
本はどれも、順番に美しく並べられている。シャルロッテはいつも棚にぎゅうぎゅうに詰め込んでしまうが、ここはそうではない。ちゃんと傷まないようにゆとりを持って入れられている。
書棚は窓から差し込む日が当たらないように、きちんと場所を計算されている。カーテンは分厚い上質なものだ。
ここの本達は、ちゃんと持ち主に大切にされている。
「半分は祖父の本なんです」
いつの間にか、すぐそばにリチャードが立っていた。
「元々この屋敷は祖父が別邸として使っていたものでして。僕の集めた本はこちらになります」
言われてみれば、棚の左側は難しそうな分厚い本が収められていて、右側はシャルロッテもよく知っているようなものが多かった。
「物語は、僕の憧れそのものかもしれないです」
リチャードの手が、本の背表紙に触れる。長い指はそっと、金箔のタイトルをなぞっていく。そこには、まるで祈りを捧げるような、そんな静謐さが満ちていた。
この字も、彼には一体どんな風に見えているのだろう。シャルロッテには想像もつかない。
「でもろくに読めもしないのに、ばかみたいですよね」
乾いた笑いは、書斎の絨毯に吸い込まれるようにして消えていく。
互いに見つめ合うわけではない。けれど、二人の視線は一冊の本のところで交わった。
そうだ、読みたいと思って物語を求めることの何がいけないというのだろう。
それは、誰しもにある、当たり前の願いのはずだ。
「読めない本を集めるのは、何もおかしいことじゃないです」
シャルロッテがそう言うと、リチャードは不思議そうに二回瞬きをした。
「ミス・ウェルナー?」
「
そうだ。何も読めない本を集めるのはリチャードに限ったことではない。
「はい」
「いつか読める時の為に本を買い置きしておくことです。本が好きな人にはよくあることだと聞いたことがあります」
シャルロッテの部屋にも何冊もある。
欲しかった本の発売日が重なって、いつ読めるかも分からないのに買ってしまったこと。
その実手に入れたら満足してしまって、本棚に置いたまま、また新しい本を買ってしまったこと。
「だから、これもきっと、そうではないかと」
読んだことのない本は、可能性の塊だ。その時がくれば、自分に新しい世界を見せてくれる。
「積読は未来への贈り物です」
「なるほど……」
リチャードはもう一度本棚に向き直る。
「そうですね。それなら、悪くない」
そこにはもう、先ほどまでの憂いは見当たらなかった。
どのぐらいの間、そうしていただろう。
「はっ!」
我に返れば、まじまじと男を見つめてしまっていたという事実が突き刺さってくる。しかも相手は目の覚めるような美形だ。シャルロッテはいたたまれなくなって目を逸らした。
「どうかされましたか?」
「な、なんでもないです。あ、こここ、この本とか、面白そうだなと思いまして」
本棚の適当な本を指差した。正直自分が何を差したのかも見えていなかった。
「ああ、これですか」
リチャードはにこりと微笑んで、分厚い背表紙に触れる。そのまますっとそれを取り出して、シャルロッテに手渡してくれた。
「もしよろしければお貸ししますよ」
ずしりとした重みが手にのしかかる。シャルロッテは慌てて左手も添えた。
表紙には『経済学批判大全』と書かれていた。
しまった、これはきっとおじい様の蔵書だ。おそらく本物の経営に関するような本だろう。
「楽しんでいただけるといいのですが」
「そ、そうですね」
ぺらりとめくって見たけれど、ちんぷんかんぷんだった。思わず眉間に皺が寄る。これは本当にシャルロッテが慣れ親しんだこの国の言語だろうか。まったくもって内容が入ってこない。
「……違うものにされますか?」
リチャードがそう助け船を出してくれなかったら、シャルロッテは今もしかめっ面をしていたかもしれない。
「そう、します」
書棚に本を戻しながら、シャルロッテとリチャードは二人で顔を見合わせて、くすりと笑い合った。
「本当に、よろしいんですか」
シャルロッテがカールトン家での仕事を続けたいと言うと、リチャードはそう聞き返してきた。
「僕としてはあなたに来ていただけると大変助かるのですが」
彼はいつもより浅めにソファに腰掛けて、腕を組んでいる。まるでシャルロッテの真意を測りかねているみたいに。
「無理をしていませんか? 兄さんがしたことを思えば、断られたとしても致し方ないと思っていました」
リチャードの後ろには今日も影のようにエドガーが控えている。彼も大きく頷いた。
「普段はエドガーに代読や代筆を頼んでいるのですが、彼は彼でやってもらいたい仕事もありますし」
家令の本来の仕事は屋敷の運営や使用人の管理だから、当然だ。
「はい」
膝の上に置いた手を、シャルロッテはきゅっと握った。
あの本棚の前に立った時、シャルロッテの心は決まった気がした。
結局のところ、自分にできることなどたかが知れている。
それでも。
「わたしでよければ」
シャルロッテは背筋を伸ばして言った。
これは、憐みでも施しでもない。ただ純粋に、リチャードの役に立ちたいと思った。
リチャードは少しの間顎に手をやって考え込んでいた。そして、ほんの僅かに家令に目で合図をする。
すると、エドガーはひとつ頷いて一度書斎を後にした。
もう一度家令が帰ってきた時、メイドとワゴンを伴っていた。
「これはもう一つ、僕からのお願いなのですが」
ローテーブルの上に揃いのソーサとカップ並べられて、紅茶が注がれる。ふわりとあたたかな湯気があがって、華やかな香りが立つ。
いわゆる典型的なお茶のセットである。
「僕はお菓子が好きなんですが、一人で沢山食べるとこちらのエドガーにひどく怒られるんですよね」
「坊ちゃんは昔から甘いものがお好きですからね」
「一応、市場調査のつもりなんだけどね」
確かに、リチャードは甘いものが好きだと思う。ここに来るとシャルロッテは仕事をしている時間よりお菓子を食べている時間の方が長い気がするぐらいだ。
そして最後に、レースに似た模様のあしらわれた白い皿が置かれた。
「これは」
シャルロッテの前に置かれたのは、
「チーズケーキがお好きだと、以前お聞きしたので」
彼はにこりと微笑んだ。
この人は、今日このケーキを一体どんな思いで用意していたのだろう。シャルロッテがここに来ない可能性だってあったのに。
「あなたがよければ、これからもお茶にも付き合ってくれると嬉しい」
リチャードは決してシャルロッテに何かを強いることはない。
それは提案やお願いといった言葉で、いつもとてもやわらかに表現される。
そこに潜むやさしさに、自分が甘えていることは分かっている。
「お願いされてしまったら、仕方がないですね」
けれど、今はお茶の時間だから、少しぐらい甘えていても許されるのかもしれない。
シャルロッテは添えられていたフォークを手に取った。そっと、ケーキをすくって口に入れれば、濃厚なチーズの風味と控えめな甘さが広がる。
「おいしいです」
きゅっと頬を押さえたら、リチャードは緑の目を細めた。
「それはよかった」
甘い物が好きだと言ったくせに、彼はシャルロッテがケーキを食べている間、少しも手を付けなかった。
ただとても満たされたような顔をしていたから、それでもよかったのかもしれない。
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