第8話 兄からの手紙
ああ、よくない。
これは、本当によくない。
シャルロッテは思わず顔をしかめた。
「どうかしましたか、ミス・ウェルナー」
「カールトンさん」
シャルロッテは、今日も斜め向かいに座る端整な男を見つめた。
「こういうのは、いけないと思うんです」
シャルロッテの言葉に、リチャードは形のいい眉を下げた。華やかな顔立ちが、途端に憂いを帯びたものになる。
「すみません、スコーンはおきらいでしたか」
そう、シャルロッテと彼の間のローテーブルには、スコーンが置かれている。先ほどメイドが紅茶と一緒に持ってきた。今まさに焼き立てといった感じだ。
「エドガー、今うちに何か、他に良さそうなお菓子はあったかな?」
「リチャード様、申し訳ございませんでした。私がウェルナー様のお好みをお伺いしなかったばかりに」
「いや、お前は何も悪くないよ。次からはスコーン以外のものにしよう」
「承知仕りました」
なんだ、これは。
主が主なら、家令も家令だ。
そう口から出そうになったのを、シャルロッテはすんでのところで飲み込んだ。
「あの」
代わりに、勝手に新しいお菓子を用意しようとしている二人の間に口を挟む。
「そういうことを言っているのではありません」
シャルロッテは断固たる声で言った。このままだと話があらぬ方向へとずんずんと進んでいきそうだ。
「つまり、あなたはスコーンはお好きだと」
「それは、そうです」
この世界に焼き立てのスコーンがきらいな人間など、そうそういないだろう。ふわりと上がる豊潤なバターの香りの誘惑から逃れる方法が存在するというのなら、教えてほしいぐらいだ。
「でしたら」
どうぞとばかりに手のひらを向けられて、シャルロッテはまた眉を
「お話は食べながら伺いますので。冷めてしまう前に」
ここで彼お得意の「ね?」がきた。何を隠そう、シャルロッテはリチャードのこれに弱い。
絶対分かっててやってるんだわ、これ。
とは思うのだが、あんなきれいな目で見つめられたら致し方ないというものだ。
シャルロッテは、渋々スコーンに手を伸ばした。ぱかりと割って、添えられていたラズベリーのコンフィチュールとクロテッドクリームを両方ともたっぷりと塗った。
ちなみに、リチャードの屋敷に来るのは今日で四回目になる。仕事の内容は事前に聞かされていた通りだった。シャルロッテは彼に言われるがまま、新聞を読み上げたり手紙を代筆したりする。その間、リチャードは執務椅子にゆったりと腰掛けている。
それだけで十分なのだが、どうしてだが毎回しばらく時間が経つと、お茶が用意されるのだ。
わたしは仕事をしに来ているだけで、おやつを食べに来ているわけではないのだけれど。
しかしながら、おいしいものを食べていると思わず顔が緩んでしまう。シャルロッテは、ぱくりとまたスコーンを頬張った。
はっと顔を上げれば、満足気な表情を浮かべた男と目が合った。あんなことを言っておきながら、彼はちっとも食べていない。
「なんですか」
無性に恥ずかしくなって答えた自分の声には、棘があった。けれど、リチャードは全く動じない。
「いえ、本当にお嫌いではないのだなと安心しただけです」
リチャードはそう言って、緑の目を細めた。
やはり自分はすぐに思っていることが顔に出てしまう。シャルロッテは、スコーンを齧り続けることしかできなかった。
これがおとぎ話なら、リチャードは悪い魔女でシャルロッテはさながら森に迷い込んだ子供だ。たっぷりお菓子を食べさせて、魔女は子供を太らせてから大きな鍋に入れてしまうのだ。
だとすれば、リチャードは一体何を考えているのだろう。優雅な手つきで紅茶を飲んでいるその顔からは、複雑な心情は読み取れなかった。
とても頭のいい人なのだと思う。
手紙の文面を考える時も、リチャードは淀みなく言葉を紡ぐ。シャルロッテはそれを淡々と書き起こすだけだ。これだけ具体的に浮かんでいるのならばもう、自分で書いた方が早いのでは、と思うのだけれど。
昔何かの本で、自分で出来ることを人にやってもらうことこそが贅沢だ、と読んだことがある。
例えばどこかの国には王様に靴下を履かせるだけの使用人がいたという。もちろん、王とて自ら靴下が履けないということはないだろうが、それをあえて人にやらせるというところに意味があるらしい。
だから、これも同じことなのだろう。
次の手紙の封筒は装飾の少ないものだった。けれど、手触りのいい上質なもので、裏を見ればカールトン家の封蝋が押されていた。差出人のところには、
「『パトリック』という方からです」
「ああ、兄さんからですね」
そう言えば、エドガーがこんな感じの名前を口にしていた気がする。
仕事のものならともかく、個人的な手紙を読み上げるのは気が引ける。家庭の赤裸々な内容が書かれているとしたら、リチャードとてシャルロッテに見られたくはないだろう。
そう思って、シャルロッテは訊ねた。「こちらはやめておきますか?」
一瞬、顔を曇らせた。いつも微笑んでいるような顔から、表情がすん、と抜け落ちる。
リチャードはそっと手を伸ばして封筒に触れた。そのまま、便箋を広げようとして、やめた。長い指は美しく三つ折りにされた便箋の角をするりと撫でて、けれどそれだけだった。
「いえ、こちらもお願いします」
その時はもう、普段のリチャードだった。それがあまりにも完璧で、すっと距離を置かれたような気がした。
「わかりました」
シャルロッテは、パトリックからの手紙を読み上げた。
「『ディックへ 息災に過ごしているか』」
当たり障りない挨拶から始まったそれは実家の近況へと広がり、次に商売の話になった。“ディック”というのはリチャードの愛称だろう。
なんでも、冬物のストールの人気が増しているのでカールトンズでも多く仕入れようというのである。
手紙を読んでいると、まるで為人の縮図のようだなと思う。会ったこともないのに、字の癖も、言葉の選び方も、言い回しも、その全てが雄弁に語りかけてくるような気がする。
おそらくパトリックという人はとても豪快な人なのだろう。やや右上がりの字は力強くて、勢いがある。けれど、不思議と整っていて趣が感じられる。
そんなことを考えていたら、自分は他人からはどう見えるのかが気になった。
シャルロッテの字はどちらかというと丸文字で、読みやすいと言われることはあるが、取り立てて美しいというほどではない。リチャードからは、字について言及されたことは無い。そして、シャルロッテは彼の字を見たことがないことに思い至った。
この穏やかで整った相貌の男は一体どんな字を書くのだろう。きっと、流れるように美しい筆跡に違いない。
「なるほど……」
手紙を読み終えると、リチャードは顎に手をやって何か考え込んでいた。それほど悩む内容だろうかと、シャルロッテはこっそりと首を傾げた。
彼もそれに気づいたのか、なんてことないとばかりに首を横に振る。
「大したことではないんです。ただ、兄はちょっと……せっかちなところがあるので」
「どういうことですか?」
「ただ流行りに乗るだけでは、そこまで儲かることはない、ということです」
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