第2話 名前も知らないあの人

 ほうら、やっぱりこうなった。


 シャルロッテは一人、壁にもたれながらそう思った。煌びやかなシャンデリアに彩られた夜会は、もはや異世界と言ってもいいくらいだ。到底、自分には馴染めない。


 特にすることもないので、大して強くもないワインのグラスに片手に、妹を眺めているばかりである。


 ヘンリエッタが身じろぎする度に、ふわりとチェリーピンクのドレスの裾が踊る。男たちはみんな、それに釘付けになっている。さながら誘蛾灯に引き寄せられるかのごとく。


 ヘンリエッタは、投げかけられる会話全てに微笑みを込めて打ち返してみせる。もはや曲芸のようにしか思えなかった。


 シャルロッテにはどうしても、そういうことができない。「お休みの日は何をされてるんですか」と尋ねられて、「それを聞いてどうするんですか?」と言い返してしまう自分がいけないのは分かっている。


 まあ、そもそも尋ねられることもないかもしれないけれど。


 グラスの中で赤紫色の液体が揺れる。

 例えば、この夜会の場で愚鈍な王子相手に婚約破棄でもしてワインをかけてやれば、この心も晴れるのだろうか。


 そこでふと誰かの視線を感じて、シャルロッテははっと顔を上げた。


 すぐ近くに男が立っていた。

 不躾で、粘度の高い視線。


「やあ、シャルロッテ」

 絡みつくような低音の声が自分の名をなぞる。シャルロッテはあまり夜会には出ないから、この男とも面識がないはずなのに、どうして。


「どちらさま、でしょうか」

「つれないな。あなたとオレの仲ではありませんか」


 殊更警戒する意味合いを強めてシャルロッテが訊き返しても、男はにたりと口角を上げて微笑むばかりだ。


「父を訪ねてよく屋敷にいらっしゃる」


 ああ、そうか。こいつはキンドリー侯爵の息子だ。名前は確か、エヴァンと言ったか。


 もっとも、きちんと紹介されたことがあるわけではない。大方朗読をしに屋敷に来ていたシャルロッテのことを、彼はどこかから見ていたのだろう。


「たまには父だけではなくて、オレのお相手もして頂きたいものだ」


 キンドリー侯爵は間違いなくくそじじいだが、純潔を奪うようなことはしない。それをある種美学としているようなところがある。


 けれど息子の方は、違う。

 エヴァンは、女を食い散らかすことで有名だ。社交界に疎い自分でも知っているぐらいだから、よっぽどである。


 どうしよう。誰かに助けを求めようにも、シャルロッテには親しい友人はおろか、顔見知りもいない。


 何か言わなければ。


 罵ってやってもいい。そう思うのに、喉が張り付いたようになって声が出なかった。息を吸うのが精いっぱいで、冷たい汗が滲む。


 いっそ走って逃げてやろうかと思ったところで、今日の靴は編上げのブーツではなくてヒールだと思い当たる。これではさすがに、走れない。


「どうしたんですか、シャルロッテ」


 大きな手が伸びる。シャンデリアが作り出す歪な影に、覆われてしまったようになる。


 底意地悪く舌なめずりをするその顔が恐ろしくて、背筋が凍ったようになった。

 足が、もう動かない。

 叱咤するようにシャルロッテは太ももを強く二回叩いた。それでも、後ずさるのがやっとだった。


 シャルロッテはぎゅっと目を瞑る。そうして誰かにぶつかった。こつんと肩に後頭部が当たって、持っていたワインがぴしゃりと、自分とその者にかかる。


「あっ」


 よろけそうになったところを抱きとめられる。そうして頭の上から軽快な声が降ってきた。


「ああ、やっと見つけた。探したよ」


 こちらの声にはあの、粘り着くような響きはない。


 そのままシャルロッテの肩を気安く引き寄せてみせる。

 香るのは、さわやかな柑橘と、それでいて奥行きのあるもの。その体温に包まれたら、どきりと胸が高鳴った。


 背が高くて、シャルロッテには彼の首元と金色の髪しか見えなかった。仕立てのいいベージュのジャケットに思い出したように、自分が引っ掛けてしまったワインの染みがある。


「話したいことがあるんだ。少しいいかな」


 そう、にこりと微笑んでみせる。さも旧知の仲であるような、自然な仕草。


 長身は少し屈んで、シャルロッテに覆い被さるようになる。おそらくこの角度なら、エヴァンからは自分の姿は見えない。


 そのまま耳元に口を寄せて、彼は囁いた。

 やわらかな声がひそめられて一段低くなる。


「これはあなたの望んだことですか?」


 シャルロッテは即座に首を横に振った。違う、絶対に違う。


「分かりました。では、このまま僕に話を合わせてください」


 吐息が耳朶をくすぐる。これほど近くにいても、この人のことは嫌だと思わなかった。


「さあ、行こうか。目を離すと君を攫ってしまう悪い輩もいるようだしね」


 肩を抱き寄せたまま彼はゆっくりと歩みを進める。一度振り返って、牽制するのを忘れない周到さもある。


 背中の向こうでエヴァンが荒々しく舌打ちをして、「男連れなら早く言えよ」と吐き捨てるのが聞こえた。


 エヴァンが遠くへ行くと、彼はそっと体を離した。きちんと、つかず離れずの距離を取ってくれる。


「すみません、出過ぎたことをしましたね」


 シャルロッテを壁際の椅子に座らせると、彼はトラウザーズのポケットからハンカチを取り出して差し出した。これでワインを拭けということなのだろうか。


「エヴァンには、あまりいい噂を聞かないもので」


 シャルロッテが着ているのは、紺色のドレスだ。ヘンリエッタの手持ちの中で一番大人しそうなものを選んで、手直しした。この色なら、ワインもそこまで目立たない。むしろ、彼の高そうな服の方が心配だ。


「あ、あの、わたしその、お洋服に」


 やっとのことでシャルロッテがそう言うと、なんて事ないことのように彼はジャケットを見遣る。


「ああ、これですか。お気になさらず」

 そうしてまた彼は笑った。そうするとそこだけ昼間のようにぱっと明るくなる。


「大丈夫ですか? 顔色が悪い」


 長身がシャルロッテの前に膝を突いた。緑色の目が心配そうに覗き込んでくる。


 俯いていたら、男の手が自分に伸びてくるのがひどく恐ろしく感じた。エヴァンの手もこの人の手も、同じように大きい。


 びくりと肩を震わせてしまったら、その手はすっと引っ込んだ。代わりにかじかんだようになって動かない手からほとんどワインが残っていないグラスを取り上げて、ハンカチを握らせる。


「何か、代わりの飲み物を持ってきましょうか」


「あ、いえ」

 まだきちんとしたお礼も言えていないのに、長身の姿は人波に溶けるように消えていく。


 ふと瞬きをした瞬間、男の姿はすでにどこにもなかった。まるで、そんな人、はじめから存在しなかったかのように。


「あら、お姉様! どちらにいらっしゃったの?」


 追いかけようかと思ったところで、シャルロッテはヘンリエッタに見つかった。

 そうして仲良くなったという伯爵令息の紹介を延々と聞かされて、そんな暇はどこにもなかった。


 握らされたハンカチには刺繍で美しくRのイニシャルだけが刺されていた。助けてもらったのに、シャルロッテは名前を聞くことすら出来なかった。


 こんなところ早く帰りたいと思いながらも、気づけばシャルロッテはずっと男の姿を目で探してしまっていた。

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