追憶のフレーズ

藤野悠人

追憶のフレーズ

 この世界はあまりにもうるさすぎる。私は物心ついた時から、そう感じていた。


 自然の音はまだ良い。川の流れや風の音、雨音や秋の虫の声。夏の蝉だけは嫌いだけど。


 問題なのは人間の方だ。街の中は人間の発する音で溢れ返っている。一番苦手なのは声だ。大声で騒ぐ学生のグループや、やけにキンキンする声音で話す女性や、怒鳴っている中年のおじさんの声なんて、もう最悪。普通の話し声だって、聴き心地の良い人はほとんどいない。


 そして、声と並んで私が嫌いなもの。それが音楽だった。


「え、音楽が嫌い? そうなの?」


 音也おとやが驚いているのがはっきりと分かった。彼の声は静かだけど、よく通る声だった。


「うん、嫌い」


 私は音也の方を見ずに答えた。


「音楽を嫌いな人がピアノ調律師の学校に通ってるのも、だいぶ変な話だね」

「私が嫌いなのは、駅ビルの広告とかお店のBGMとか、聴きたくないのに聴こえる音楽。ガチャガチャした演奏も苦手だけど」

かなでさんは、耳がすごく良いからね」


 音也は穏やかな調子で、ふっと笑った。


「ピアノはあんまり弾けないのに、奏なんて名前負けよね」


 ひねくれた言葉が口を突いて出てしまう。音也は否定も肯定もしなかった。


 谷崎音也。私の、まぁ一応、恋人になるんだろう。音大のピアノ科に通っている。父親もピアニスト、母親はチェリスト。兄はクラリネット奏者で、姉はインストバンドのベーシストという、絵に描いたような音楽一家の末っ子だ。そして、そんな家族の元で育ったからなのか、音也は少し変わっている。良く言えば浮世離れ、悪く言えば変人。


 そもそも、私たちは出会いも変わっていた。


 一年半ほど前。専門学校からの帰りに夕立に降られて、私は近くにあった喫茶店に駆け込んだ。そこはいわゆるカフェ・バーだったらしく、店の中の小さなステージにグランドピアノが置いてあった。


 雨が止むまで待とう。カウンター席に座って、感じのいおじさんのマスターにコーヒーを一杯注文した。


 お店にはひとりだけ先客がいた。どこか垢抜けない印象の、黒い詰襟を着た男の子。私と同じように雨に降られたのか、制服の肩や袖が濡れていた。


 男の子は少しそわそわした様子で、マスターに声を掛けた。


「あの、ピアノ弾いてみてもいいですか?」


 マスターは一瞬きょとんとした表情をしたが、すぐにっこりと笑って頷いた。男の子は嬉しそうにピアノの前の椅子に座ると、鍵盤に細長い指を置いた。その指先からショパンのエチュードが駆け出した瞬間、店の外の雨音が聞こえなくなった。


 見ると、男の子は目をキラキラさせ、まるで子供がオモチャ箱を開けたような表情でショパンを弾いていた。


 それだけじゃない。音が、大きい。ただ大きいんじゃなくて、聴き手を掻き立てるエネルギーに満ちていた。でも、うるさくない。ピアノの音が形を持っているように感じたのは、生まれて初めてのことだった。


 男の子が弾いているのは『練習曲作品25の第一番』。『エオリアン・ハープ』もしくは『牧童ぼくどう』と呼ばれる曲だ。爽やかな風のようなメロディがピアノから吹きつけてくる。


 男の子が弾き終わると、マスターは大きな拍手を送っていた。


 だけど私の耳は、その演奏の中に混ざる不快な音を敏感に捉えていた。


「あの、すみません。このピアノ、少し調律しても?」


 普段なら絶対にしない申し出。今にして思えば、完全に彼の演奏にてられていたんだろう。マスターは目を丸くしたが、快くオーケーしてくれた。


 違和感のあった鍵盤のバランスを、少しだけ整える。しっかりとした調律ではなく、あくまでバランスを整えるだけ。


「ねぇ君、これでもう一度弾いてみてくれる?」


 私が頼むと、男の子はおっかなびっくりといった様子で、今度はフォーレの『即興曲第三番』を弾き始めた。軽やかで、どこかノスタルジックな音色が走り出す。弾いた瞬間に音の違いに気付いたらしく、男の子の顔がぱぁっと明るくなる。


 続けて、今度は現代の曲だった。韓国人作曲家イルマの、甘くも切ないメロディの『リバー・フロウズ・イン・ユー』。


 ピアノを弾き終わると、男の子はキラキラした目で私を見た。


「お姉さん、すごい。さっきと音が全然違う」


 男の子の声は、活力に満ちた演奏とは裏腹に、静かで穏やかだった。


 話の流れでラインを交換した時、彼の名前が「音也」だということ、高校三年生で音楽科の生徒だということを知った。彼とは縁があったのか、交流はその後も色々と続き、そのうちに恋人のような関係になった。


 今にして思えば、初めて会った時から音也は妙に私に懐いていた気がする。ある時、どうして私と付き合ったのか訊いてみた。


「ピアノを調律していた奏さん、格好良かったから」


 音也ははにかみながら、そう言っていた。


 順当にと言うべきか、音也は音大のピアノ科に進学した。そして、暇があれば私の部屋に遊びに来るようになった。


 音楽の世界は狭い。ピアノ科の学生と会うことも珍しくはなかった。だけど音也のピアノだけは、特別だ。彼の演奏には、他の人にはないパワーとエネルギーがある。


 何より音也のピアノを聴いている間だけ、私の耳は世界の雑音から自由になれる。さすがにポエミー過ぎるだろうか。でも、私は音也の弾くピアノの音が好きだった。


 ある日、音也は私が読んでいた本に目を留めた。


「奏さん、それなんの本? 小説?」

「そうよ」

「奏さん、小説好きだよね」

「本はうるさくないからね」


 テレビや映画と違って、本は私を急かしたり、必要以上に大きな音で驚かせたりしない。だから、子供の頃から読書は好きだった。


「それ、どんな話? 犬?」


 音也は表紙に映った犬の写真を見ながら訊いた。その仕草もどこか犬っぽい。


「犬が何度も生まれ変わる話」

「生まれ変わっても犬なの?」

「そう」

「ふぅん」


 ややあって、また音也が訊いてきた。


「奏さん、生まれ変わったら何になりたい?」


 唐突な質問だ。ページの間に指を挟んで、少しだけ考えてみたけど思いつかない。


「考えたこともないなぁ」

「僕ね、音になりたいんだ」


 音也はいつもと変わらない調子で言った。


「音? やっぱり音也だから?」

「安直だなぁ」


 私の質問に、音也がくすくす笑う。


「ピアノの音。僕の好きなピアノの音になりたいなぁって、子供の時に考えたことがあるんだ」

「なんでピアノの音なの?」


 重ねて訊くと、音也は首を振った。


「理由なんかないよ。ただそう思ったんだよね」


 そう言って、またにっこり笑う。垢抜けて、顔立ちも大人に近付いてきた音也だけど、たまにこういう話をする時は子供っぽかった。


 それが、先月までの話。


 音也は突然死んでしまった。家族に私の話をしてくれていたらしく、詳しい経過を教えてもらえた。


 音也は生まれつき、心臓と呼吸器が弱かったのだそうだ。成長するにしたがって、少しずつ丈夫にはなっていたらしい。だけど季節の変わり目に罹った細菌性の風邪がなかなか治らず、抵抗力が落ちた所に合併症を起こしてしまった。それが駄目押しとなって、音也はあっさり死んでしまった。


 あの静かな声が、もう聞けない。


 くすくすと笑う顔も見られない。


 何よりあのピアノの演奏が、もう、二度と聴けない。


 大切な人を失うと、世界が灰色に見えたり、音が不鮮明に聞こえたりするらしい。


 あんなものは嘘だと知った。それならどうして私の耳は、こんなにも耳障りな音をたくさん、たくさん、しかもハッキリと綺麗に拾ってしまえるんだろう。


 あぁ、うるさい。うるさい。もういっそ耳を塞ぎたかった。まるで私の耳から音也の声も、ピアノの音も、全部消し去ろうとしている気がした。


 静かな場所に行きたかった。音也と初めて出会ったカフェ・バー。昼間なら、あのお店はお客さんが少ない。すがるような気持ちで行くと、その日はマスターしかいなかった。


「いらっしゃい。奏ちゃん」


 マスターは私を見て、悲しそうに目を伏せた。音也の訃報はすでに彼も知っている。


 店のステージには、音也と初めて会った時と同じグランドピアノがあった。


「……ちょっと、ピアノ弾いてみてもいいですか?」

「あぁ、いいとも」


 注文もしていないのに、マスターは快く頷いてくれた。


 椅子に座って、ピアノの蓋を開ける。年季が入っているせいか、鍵盤はわずかに飴色を帯びている。私が弾ける曲はそんなにない。ショパンも、フォーレも弾けない。


 しばらく考えて、イルマの曲を弾いた。私が調律したピアノで、音也が初めて弾いてくれた『リバー・フロウズ・イン・ユー』。でも、音也のようには全然弾けない。


 鍵盤と手元がぐにゃっと歪んだ。つまづくようなミスタッチをして、指がよろけて、また躓いて、転んで、もう弾けなかった。


 彼は、生まれ変わったら音になりたいと言っていた。


 窓の外、遠くで車のエンジンの音が聴こえる。バイクが店の前を通り過ぎていく。お店を出れば、あちこちで人の声やBGMが鳴っている。ピアノだって、あちこちで鳴っている。


 こんなに世界は音だらけ。音也がどこにいるかなんて、全然分からないよ。


 あぁ、やっぱりこの世界は、あまりにもうるさすぎる。

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追憶のフレーズ 藤野悠人 @sugar_san010

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