第8章「失われた旋律」第3部「新たなアプローチ」

「記憶筋トレーニング」


星野は小さな電子ピアノの前に美月を座らせながら、そう言った。彼の表情は再び研究者のものに戻っている。


「あまり聞いたことのない言葉です」美月は言った。「どんなトレーニングなんですか?」


星野はピアノの隣に置かれた機械を指さした。そこには「脳波音楽同期システム」と書かれたラベルがあり、小さなモニターとヘッドセットが接続されていた。


「これは私が開発中のシステムなんだ。簡単に言えば、音楽を『聴く』時の脳の活動と、『演奏する』時の脳と筋肉の活動を同期させるためのものだよ」


美月は興味深そうにそのシステムを見つめた。


「私たちが音楽を演奏する時、実は『聴覚記憶』と『筋肉記憶』の二つが連動しているんだ」


星野は自分の頭と手を交互に指差しながら説明を続けた。


「耳で音を聴き、頭の中でイメージし、そして手がそれを実現する。この三つの流れがスムーズに繋がると、素晴らしい演奏が生まれる」


美月はうなずき、彼の説明に耳を傾けた。


「でも、怪我や障害で筋肉の機能が低下すると、この連携が崩れてしまう。頭の中ではクリアな音楽が鳴っているのに、手がそれに追いつかない…」


星野の言葉は、美月の日々の苦悩をそのまま表現していた。彼は続けた。


「しかし、興味深いことに、月の光の下では美月さんの演奏能力が回復する。これは何を意味するか考えてみたんだ」


星野はデスクに向かい、ノートの図を指さした。そこには脳と手の関係を示す図が描かれている。


「私の仮説では、月の光とオルゴールが何らかの形で、君の『脳と手の連携』を一時的に修復しているんだと思う。それが科学的なメカニズムなのか、それとも別の何かなのかはまだ分からないけれど」


彼は再び電子ピアノの前に戻り、ヘッドセットを手に取った。


「このトレーニングの目的は、月の光がなくても、君の脳と手の間に新しい経路を作ることだ。言わば、脳が手に直接、明確な指示を出せるようにする練習なんだ」


美月はゆっくりと息を吐いた。彼女の中に小さな希望が芽生え始めていた。


「具体的には、どうすればいいんですか?」


「まず、このヘッドセットをつけて」星野は美月に装置を渡した。「これで君の脳波を測定する」


美月は言われた通りヘッドセットを装着した。少し重みがあるが、不快ではない。


「次に、ショパンの夜想曲第20番、特に『影の部分』と呼ばれる箇所に集中してほしい」


「影の部分、ですか?」美月は首をかしげた。


「そう、技術的に最も難しいフレーズの部分だ。君が月の光なしでは弾けない、と思っている部分」


星野は楽譜を指さした。確かにそこは、右手の繊細なコントロールが特に必要な部分だった。美月がいつも諦めてしまう箇所でもある。


「このトレーニングは三つのステップで行う。まず、目を閉じて、その部分の音楽を頭の中で『聴く』」


美月は目を閉じ、ショパンの旋律を思い浮かべた。


「次に、その音楽を『イメージ』しながら、指を動かさずに演奏する動きをイメージする。脳内リハーサルとも言うね」


美月は楽譜を思い浮かべ、頭の中で指の動きを想像した。右手の力強いフォルテから繊細なピアニッシモへの移行、左手の安定したリズム。


「最後に、実際に演奏してみる。最初は左手だけで、徐々に右手を加えていく」


電子ピアノのキーボードに、美月はそっと左手を置いた。


「大切なのは、『できる』ということよりも、『頭の中の音楽と実際の演奏を一致させる』こと。完璧を目指さなくていい。まずは繋がりを取り戻すことが重要だから」


星野の言葉に、美月は少し緊張を和らげた。彼女は深呼吸をし、左手でメロディーラインを奏で始めた。単純化されたものだが、曲の核心部分は伝わってくる。


「素晴らしい。次は、右手を少し加えてみて」


美月は躊躇った。右手を鍵盤に置くと、いつものように痺れと鈍さを感じる。しかし、星野の穏やかな視線を感じ、ゆっくりと一音、また一音と押さえていった。


予想通り、スムーズには行かない。指が思うように動かず、音が濁ったり、鍵盤を押さえ損ねたりする。美月の表情に徐々に苦痛が現れ始めた。


「大丈夫、完璧を目指さなくていいんだ」星野が優しく言った。「今は神経回路を作るための練習だと思って」


美月は何度も同じフレーズを繰り返した。一時間ほど経っただろうか、汗が額から流れ落ちていた。星野はタオルを差し出した。


「少し休憩しよう」


美月はヘッドセットを外し、深くソファに身を沈めた。疲労が全身を覆っている。


「うまくいかない…」美月は落胆した声で言った。


「そんなことはないよ。最初のセッションとしては上出来だ」


星野はモニターの波形を見せた。「見てごらん、演奏を想像している時と実際に演奏している時の脳波が、少しずつ同期し始めているんだ」


美月には専門的な波形の意味はよく分からなかったが、星野の言葉には嘘がないことは感じられた。


「このトレーニングは時間がかかる。通常なら何ヶ月もかけて少しずつ進めるものだけど、君の場合は既に『月の光の下では演奏できる』という経験があるから、もっと早く進むかもしれない」


星野は美月の隣に座った。二人の間にはわずかな距離があるが、何か見えない絆が形成されつつあるようだった。


「挫折しそうになった時のことを話してくれるかな?」星野は真剣な表情で尋ねた。


美月は少し考え、静かに話し始めた。


「事故の後、最初はただショックで何も感じられませんでした。でも、時間が経つにつれて、これが『永続的な状態』なんだという現実に向き合うことになって…」


彼女は右手を見つめながら続けた。


「リハビリの先生は『時間をかければ良くなる』と言ったけれど、私には分かっていました。プロのピアニストとしての繊細なコントロールは、二度と取り戻せないだろうって」


星野は黙って聞いていた。


「そして、母の目を見るのが辛くなりました。彼女は何も責めないけれど、私のためにたくさんの犠牲を払ってきたのに、その期待に応えられない自分が…」


美月の声が震えた。


「だから、音楽を諦めようと思ったんです。でも、それは自分の一部を切り離すようで…」


星野はそっと美月の肩に手を置いた。その温かさが、彼女の凍えた心に染み渡るようだった。


「音楽は君の一部だ。だからこそ、新しい形で取り戻せるはずだよ」


彼は決心したように立ち上がり、再び電子ピアノの前に座った。


「科学的に言えば、これは『神経可塑性』の原理を利用したトレーニングだ。脳と体は常に適応しようとしている。損傷があっても、新しい経路を作れる可能性がある」


星野は楽譜を指さしながら、美月に向き直った。


「君が月の光の下で演奏できるということは、その経路はまだ存在している。私たちがやるべきことは、月の光がなくても、その経路を活性化させる方法を見つけることだ」


美月は少し希望を取り戻した表情で、再びピアノに向かった。


「もう一度だけ、試してみましょう」


今度は星野もピアノの横に立ち、美月の手の動きを観察した。彼女が困難な箇所に差し掛かると、彼は時折、アドバイスを送った。


「右手の親指に力を入れすぎているよ。もっとリラックスして」


「左手のリズムをしっかり保って。それが右手の支えになるから」


「音を聴くんじゃなく、感じるようにしてごらん」


星野の言葉は理論的でありながらも、どこか詩的だった。それは単なる技術的なアドバイスを超えた、音楽の本質に触れるものだった。


練習を続ける中で、美月は星野の存在がどれほど自分に勇気を与えているかに気づいた。彼の眼差しには「できる」という確信があった。それは彼女自身が失っていた自信を、少しずつ呼び覚ましていく。


「このトレーニングを毎日続けよう」星野は言った。「君の場合、通常よりも反応が早いかもしれない。音楽の才能と経験があるから」


「でも、音楽祭まであと10日しかありません」美月は不安そうに言った。


「その通り、時間は限られている。だからこそ、最大限の効果を得るためにも、毎日ここに来てトレーニングを続けてほしい」


彼の言葉には切実さがあった。それは単なる療法士としての職業的な関心を超えたものに聞こえた。


「わかりました。毎日来ます」美月は決意を込めて答えた。


星野は満足そうに頷き、美月に手を差し伸べた。彼女がその手を取ると、二人の間に静かな約束が交わされたように感じられた。


窓の外では、雨が本格的に降り始めていた。天気予報は当たったようだ。美月はふと、この雨が音楽祭の日まで続くのかと思った。


しかし不思議なことに、その不安は以前ほど彼女を苦しめなくなっていた。星野の言葉と存在が、彼女の中に小さな明かりをともしたように思えた。


「これから毎日、明日も来てくれるかな?」星野は美月を見つめながら尋ねた。


「はい、必ず」


美月の答えは、今日初めて抱いた新しい希望の表明でもあった。


(第3部 終)

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