お侍さん、異世界で猫になる
@nyankoraizo
第1話
某は猫である。
名は……いまこの村では、「クロ」と呼ばれている。
元は、書を嗜み、武芸を愛し、戦場を駆けた武士であった。
されど、今は小さき四足の身。
柔らかき毛皮に包まれ、ひょいと塀を越える軽き体を持つ。
生きる理(ことわり)すら違うこの地で、どうにかこうにか、日々を送っておる。
馴染みつつある、とは言うものの、初めの頃は、些か困惑したものだ。
「ねえ、クロ。おさかな、食べる?」
イリナ──金髪の童女が差し出す小皿の上には、小ぶりな干し魚。
炙った香ばしさが鼻先をくすぐる。
私は静かに座り込み、尾をぴたりと巻いた。
かつて、食事を勧められた際には、膝を折り、両手をつき、深く礼をしてから膳に向かったものだ。
猫の身ではそこまでの所作は叶わぬが、せめて心のうちでは、深く一礼する。
にゃ、と小さく鳴いて、干し魚をいただく。
「やっぱり、お行儀いいよね、この子」
イリナがふふっと笑う。
無邪気なユナ──イリナの妹は、小さな手で私の背を撫でる。
撫でるたび、毛が逆立つのをこらえねばならぬのは、いささかの試練である。
村の暮らしは、静かで、素朴だった。
夜明けと共に目を覚まし、舟を出す者あり、網を繕う者あり。
子どもたちは砂浜を駆け回り、女たちは焚き火で魚を炙る。
私は日が昇る頃には、家の軒先に座し、行き交う人々を眺めるのが日課となった。
「おう、イリナのところの猫か」
「また来たな、黒坊」
漁師たちは声をかけるが、深く干渉はしてこぬ。
ただ、時折、魚の骨をぽいと放って寄越す者もいた。
私は礼を失せぬよう、必ず目礼してから、それを食す。
「不思議な猫だな」
そう言われることも、一度や二度ではない。
まあ、致し方あるまい。
猫にしては、いささか礼儀をわきまえすぎているのだから。
夕暮れ時。
砂浜に立てば、波がさらさらと砂を洗い、夕陽が海を黄金に染める。
私は、浜辺を歩くのが好きであった。
四肢で砂を踏みしめる感触が心地よい。
ふと、波打ち際に寄せられた貝殻に、肉球を触れさせてみる。
ひんやりとした感触。
そういえば、あの戦場では、こんな静かなものを感じる余裕などなかった。
思い返すは、最期の戦場の様子であった。
天下分け目の大戦。
後の世にも語り継がれるであろう大戦であった。
「クロー!」
遠く、過ぎ去った戦場に思いを馳せていると、私を呼ぶ声が聞こえた。
振り向けば、ユナが手を振っている。
片手には、小さな桶。
どうやら、今日の収穫を見せに来たらしい。
桶の中には、貝、海藻、小魚。
そして、丸々と太った蟹一匹。
「おみやげだよ!」
と、にこにこ顔で差し出される。
某はじっと桶を見つめた後、静かに頷いた。
猫とはいえ、我が矜持は忘れぬ。
直接手を伸ばすことはせず、招かれたものだけを受け取る。
ユナは、そんな某の様子を見て、また笑った。
「ほんとに、クロはかっこいいなぁ」
……かっこいい。
この身になって、そんな言葉をかけられるとは、思わなんだ。
嬉しい、という感情が、心の奥に小さく灯る。
夜。
焚き火を囲んで、イリナとユナ、それにその両親が食事をとる。
某は少し離れたところに座り、その様子を眺める。
家族。
血のつながり。
拙者
私が生きた戦乱の世では、容易く断たれるものだった。
だがここでは、それがあたりまえのように、隣り合っている。
ユナがこちらを見て、手を振った。
イリナも微笑む。
この場所に、いてもいいのだろうか――。
そんな思いが、胸の奥で、ぽつりと生まれる。
「クロも、うちの家族だよ」
ユナの言葉が、夜の空気にふわりと溶けた。
私は、尾をぴんと立てた。
それが、最上の返答だった。
こうして、黒猫クロ――かつて侍だった男は、
小さな漁村の、家族の輪の中に、静かに居場所を得つつあった。
もちろん、これから何が起こるかは、誰にもわからぬ。
世界は広く、危うく、そして無慈悲だ。
されど、今この瞬間だけは、
我が魂に、穏やかな潮風が吹いていた。
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