食堂のおばちゃん
祐里
学生たちを見守っています
私が『食堂のおばちゃん』として働いている大学の学生食堂には、昼時になると大体いつも決まった顔ぶれが現れる。学内には飲食可能な場所が他にもあるし、正門を出れば大盛りメニューで有名な中華料理屋もあり、そちらが好きな人も多いから。
そのいつもの面子の中にも、際立って目立つ――私が気にしているだけかもしれないけど――女の子が一人いる。女友達二人と連れ立って食堂に入ってくるのに、彼女だけは配膳カウンターの端にある洗面台でずうっと手を洗っている。石鹸で丁寧に洗って、水で丁寧に流して、ペーパータオルで丁寧に拭いて、を必ず三回繰り返し、最後にアルコール消毒液を丁寧に擦り込むのだ。
その間に友達二人はさっさと好きなメニューを注文して受け取り、テーブル確保までしている。彼女だけが少し遅れて着席することになり、話の輪に入れなくなっているのが、私は少しだけ気になっていた。
「ネックレス、かわいいの買ったみたいだね」
「……え?」
彼女が手に持つトレーにいつものB定食を乗せながら、私は言った。勝手に言葉が出てきて、自分でもちょっと驚いてしまう。
「いつも一緒にいる、えーと、クミちゃんだっけ? かわいいネックレスしてたよ」
校則が厳しい高校から進学してきた子は、大学でおしゃれに目覚めることが多いと聞いている。クミちゃんもそうかもしれない。少し前までは垢抜けない雰囲気だったのに、最近はきれいになってきている。
「テーブルにトレー置くときにクミちゃんのほう見ながら『そのネックレス買ったの? かわいいね』って話しかけるといいよ」
こうなったら最後までしっかり言おうと、彼女にそう伝えてみる。私が『突然すぎたかな』と危惧していると、彼女はほんの少しだけうなずいてからくるりと向きを変え、注意深くトレーをテーブルまで運んでいった。
「なんか、情報工学の教授に叱られたらしいよ。ミハルちゃんだっけ、いつも一緒にいる子」
翌日、B定食を彼女のトレーに置きながらまた話しかけてみた。
「あ……、えっと……」
「さっきここで注文するときに話してたからさ。たぶん落ち込んでるだろうから、話が弾まなかったら『ミハルちゃん、いつも勉強がんばってるよね』って慰めてあげたら?」
実際、ミハルちゃんはいつもがんばっている。授業の空き時間になると食堂に来て、何か難しそうな本を開いて眉間にしわを寄せているのだから。
「はい」と素直な返事が聞こえ、頬が緩む。あまり表情を変えないこの子の、少しだけうれしそうな顔を見られた。今日は最高の一日になった気がする。
学生にはいろんな子がいる。気の合う仲間と一緒に楽しく昼食を取るというパターンが多いけれど、中にはナンパしに来ているのかなと疑問に思うようなチャラい男子や、完全に一匹狼でモラトリアム期間を満喫しているような女子も。
ごくたまに喧嘩を始める子もいたりして、そんなときはハラハラしながら行く末を見守ってしまう。決して料理をこぼされたら掃除が大変だからという理由ではない。決して……いえ、そういう理由もあるわ。申し訳ない。
人が集まるからには軋轢や摩擦も起きる。だって人にはそれぞれ個性ってものがあるんだから。相性が合う合わないって絶対にあるんだから。
ただ、おばちゃんとしては、喧嘩しながらも大学生活を楽しんでほしいという気持ちが大きい。社会に出たら否応無しにノルマにせっつかれたり、営業成績がどうのとチクチク言われたり、先輩社員の顔色を気にしたり、上司の無茶振りをかわさないといけなかったり、そんなことが待っているかもしれない。
「おばちゃーん、今日の小鉢、何?」
「ひじきと枝豆の煮物だよ」
「おっ、俺好きかも!」
「そりゃよかった。食券買っといで」
「へーい」
うちの子はまだ高校一年生。できれば大学に行かせてあげたい。この大学はレベルが高いほうだから無理かもしれないけれど。
「お母さん、私、大学に行きたいの」
そう言われる日が、私の近い目標。娘を安心させるために稼がなくちゃ。
まずは今日も食堂のおばちゃんとして、学生たちのお腹を満たそう。
「おばちゃーん、食券買ったー。A定食、大盛り!」
「はいはい、たくさん食べな」
茶碗に白飯を盛りながらテーブルを見てみると、彼女が友達のほうを見て何かを話しているところだった。
「大成功、だった、かな」
三回手洗いをする彼女に「ありがとう」と言われる日が近いことを、私はこのときまだ知らなかった。
食堂のおばちゃん 祐里 @yukie_miumiu
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