第2話 境界線のノイズ(2)
研究棟の廊下を夜風が通り抜けていく。
ひび割れた窓枠から、月光がひとすじ、床を照らしていた。
石の床の上を、わずかに煤けた風が這い、紙の端をわずかにめくった。
シルヴェル・エインは、机に肘をついたまま、動かなかった。
机の上には、乱雑に積まれた書類。封蝋が割れて久しい、赤くにじんだ頁を開いた本がその頂に置かれている。
古い羊皮紙を、震える指先でなぞる。
書庫の空気はひどく乾いていて、それが指の感覚を鈍らせる。
もうどれほどこの部屋を独り占めにしてきたのだろう。
何年も何年も、この夜にだけ戻ってくる自分の居場所だった。
それでも、そこに刻まれた文字だけは、いつだって彼を惹きつけて離さなかった。
王立学院の研究棟は、昼間こそ賑やかな声が行き交うが、夜は驚くほど静かだ。
昼の喧騒が去り、照明結晶が消えた廊下には、陰が深く沈む。
石壁に寄りかかったときの、ひやりとした感触が、この場所の孤独をなおさら強くする。
実用魔導具の部署は日没とともに戸を閉じる。
人気の消えた研究棟を照らすのは、蝋燭の小さな光だけだ。
古い木の机に灯されたその炎を見つめると、心の底にうっすらと澱のような焦燥が溜まっていく。
*
朝は、決まって書棚の整理から始まる。
古代魔道具の破片、粉のように崩れかけた巻物、誰も顧みない失敗の記録。
それらを、ひとつずつ手で拾い上げ、丁寧に埃を払い、破れかけた紙の端を補修する。
昼を過ぎるころには、ようやく廊下の向こうから人の声が戻ってくる。
若い研究員たちの笑い声。明るく、屈託がなく、どこか自分には届かない響き。
彼らは最先端の実用魔道具を研究し、王立学院の名声を担っている。
共鳴鉱石や新式の通信具、軍部が待ち望む飛行装置。
この国の未来を、彼らは確かに築いているのだと、皆が信じて疑わない。
対して、自分の机の上にあるものはどうだ。
百年以上も前に絶えた英雄の、血のしみた記録。
ほとんど解読も進まず、報告書にすらまともに書けない中途半端 な資料。
意味がない、と言われるのも仕方ない。
何度もそう思おうとした。
だが、それでも。
夜になれば、指先が勝手にこの頁に戻ってくる。
手放したら、自分まで空っぽになってしまう気がしていた。
*
「……本当に、意味などあるのだろうか」
小さく吐息が零れる。
言葉を声にするたび、胸の奥が痛んだ。
同期たちはもう、それぞれの居場所を手に入れている。
家庭を持ち、評価され、肩書きを増やし、安定を得ていた。
昼休みにすれ違えば、子どもの話や休日の話を楽しそうにしている。
羨ましい、と思ったことは何度もある。
だが、その輪の中に入ろうとすると、必ずどこかで足が止まった。
同じ未来を思い描けなかった。
どれだけ努力しても、ここにしか帰れない自分がいる。
夜ごとに感じるこの孤独は、きっと自分の選んだ報いだ。
失うものが怖くて、何も持たずにいたはずだったのに。
それなのに今は、こんな色あせた言葉のために、あらゆるものを失っていく気がする。
蝋燭の炎がかすかに揺れる。
息を呑むたび、暗闇がいっそう濃くなった。
*
手元の頁には、先代の学者が遺した翻訳の断片と、自分がやっとの思いで読めるようにした数行だけが残る。
何百回と読み返した一節。
それでも、最後の一行に触れるたび、胸が締めつけられる。
《いつか、この声が届くと信じている》
どうして、この言葉だけは何度見ても同じ痛みを呼び起こすのだろう。
ただの自己満足だと、他人に言われればそれまでだ。
だが、かつて確かに誰かが「届く」と信じて記した思いは、無価値とは思えなかった。
意味などないのだろうか、と自分を責めながらも、そのたびにここへ戻ってくる。
それはもう、祈りにも似ていた。
机の端には、昼間調整した受信装置が置かれている。
共鳴鉱石を組み込んだ金属の箱。
まだ不格好で、発信距離も安定せず、雑音ばかりが混じる。
だが、それでも。
この装置を通じて、二百年を超えて残った声に触れられるかもしれない。
そう思うと、どれだけ無駄だと笑われても手放せなかった。
「……あの人は、本当に届くと信じていたんだろうか」
問いかけた声は、冷たい天井に吸い込まれていく。
誰もいない部屋は、沈黙で満たされていた。
その静寂の中で、胸の奥の何かがひどく軋んだ。
*
――なぜ、ここまで執着するのだろう。
答えは、いくら考えてもわからない。
けれど、たった一人でも声の続きを探す者がいなければ、この頁は本当に無に帰してしまう。
それが、どうしても耐えられなかった。
孤独でいいと思っていた。
なのに、今は誰かと繋がるためにここに座っている。
月が雲に隠され、闇が部屋を塗り潰していく。
視界の端がゆらりと揺れた気がして、シルヴェルはそっと目を伏せた。
疲れ切った心の奥に、消え残る小さな灯があった。
それだけが、彼をここに縛りつけていた。
ゆっくりと背を椅子に預け、深く息を吐く。
蝋燭の炎はまだ、消えずにいた。
その心細い光だけを頼りに、彼は再び頁を撫でる。
どれほど虚しい時間を費やしても、
どれほど報われずに終わるとしても、
――この声にだけは、応えたかった。
そうして闇は、なお深く降り積もっていく。
それでもシルヴェルは目を逸らさなかった。
たとえ、この先何も見えなくなるとしても。
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灰と声と二百年の境界 胡土 玲 @Kotsuchi_Rei
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