第2話 境界線のノイズ(2)

 研究棟の廊下を夜風が通り抜けていく。

 ひび割れた窓枠から、月光がひとすじ、床を照らしていた。

 石の床の上を、わずかに煤けた風が這い、紙の端をわずかにめくった。


 シルヴェル・エインは、机に肘をついたまま、動かなかった。

 机の上には、乱雑に積まれた書類。封蝋が割れて久しい、赤くにじんだ頁を開いた本がその頂に置かれている。

 古い羊皮紙を、震える指先でなぞる。

 書庫の空気はひどく乾いていて、それが指の感覚を鈍らせる。

 もうどれほどこの部屋を独り占めにしてきたのだろう。

 何年も何年も、この夜にだけ戻ってくる自分の居場所だった。

 それでも、そこに刻まれた文字だけは、いつだって彼を惹きつけて離さなかった。


 王立学院の研究棟は、昼間こそ賑やかな声が行き交うが、夜は驚くほど静かだ。

 昼の喧騒が去り、照明結晶が消えた廊下には、陰が深く沈む。

 石壁に寄りかかったときの、ひやりとした感触が、この場所の孤独をなおさら強くする。

 実用魔導具の部署は日没とともに戸を閉じる。

 人気の消えた研究棟を照らすのは、蝋燭の小さな光だけだ。

 古い木の机に灯されたその炎を見つめると、心の底にうっすらと澱のような焦燥が溜まっていく。



 朝は、決まって書棚の整理から始まる。

 古代魔道具の破片、粉のように崩れかけた巻物、誰も顧みない失敗の記録。

 それらを、ひとつずつ手で拾い上げ、丁寧に埃を払い、破れかけた紙の端を補修する。

 昼を過ぎるころには、ようやく廊下の向こうから人の声が戻ってくる。

 若い研究員たちの笑い声。明るく、屈託がなく、どこか自分には届かない響き。

 彼らは最先端の実用魔道具を研究し、王立学院の名声を担っている。

 共鳴鉱石や新式の通信具、軍部が待ち望む飛行装置。

 この国の未来を、彼らは確かに築いているのだと、皆が信じて疑わない。


 対して、自分の机の上にあるものはどうだ。

 百年以上も前に絶えた英雄の、血のしみた記録。

 ほとんど解読も進まず、報告書にすらまともに書けない中途半端 な資料。

 意味がない、と言われるのも仕方ない。

 何度もそう思おうとした。

 だが、それでも。

 夜になれば、指先が勝手にこの頁に戻ってくる。

 手放したら、自分まで空っぽになってしまう気がしていた。



「……本当に、意味などあるのだろうか」


 小さく吐息が零れる。

 言葉を声にするたび、胸の奥が痛んだ。

 同期たちはもう、それぞれの居場所を手に入れている。

 家庭を持ち、評価され、肩書きを増やし、安定を得ていた。

 昼休みにすれ違えば、子どもの話や休日の話を楽しそうにしている。

 羨ましい、と思ったことは何度もある。

 だが、その輪の中に入ろうとすると、必ずどこかで足が止まった。

 同じ未来を思い描けなかった。

 どれだけ努力しても、ここにしか帰れない自分がいる。


 夜ごとに感じるこの孤独は、きっと自分の選んだ報いだ。

 失うものが怖くて、何も持たずにいたはずだったのに。

 それなのに今は、こんな色あせた言葉のために、あらゆるものを失っていく気がする。


 蝋燭の炎がかすかに揺れる。

 息を呑むたび、暗闇がいっそう濃くなった。



 手元の頁には、先代の学者が遺した翻訳の断片と、自分がやっとの思いで読めるようにした数行だけが残る。

 何百回と読み返した一節。

 それでも、最後の一行に触れるたび、胸が締めつけられる。


《いつか、この声が届くと信じている》


 どうして、この言葉だけは何度見ても同じ痛みを呼び起こすのだろう。

 ただの自己満足だと、他人に言われればそれまでだ。

 だが、かつて確かに誰かが「届く」と信じて記した思いは、無価値とは思えなかった。

 意味などないのだろうか、と自分を責めながらも、そのたびにここへ戻ってくる。

 それはもう、祈りにも似ていた。


 机の端には、昼間調整した受信装置が置かれている。

 共鳴鉱石を組み込んだ金属の箱。

 まだ不格好で、発信距離も安定せず、雑音ばかりが混じる。

 だが、それでも。

 この装置を通じて、二百年を超えて残った声に触れられるかもしれない。

 そう思うと、どれだけ無駄だと笑われても手放せなかった。


「……あの人は、本当に届くと信じていたんだろうか」


 問いかけた声は、冷たい天井に吸い込まれていく。

 誰もいない部屋は、沈黙で満たされていた。

 その静寂の中で、胸の奥の何かがひどく軋んだ。



――なぜ、ここまで執着するのだろう。


 答えは、いくら考えてもわからない。

 けれど、たった一人でも声の続きを探す者がいなければ、この頁は本当に無に帰してしまう。

 それが、どうしても耐えられなかった。

 孤独でいいと思っていた。

 なのに、今は誰かと繋がるためにここに座っている。


 月が雲に隠され、闇が部屋を塗り潰していく。

 視界の端がゆらりと揺れた気がして、シルヴェルはそっと目を伏せた。

 疲れ切った心の奥に、消え残る小さな灯があった。

 それだけが、彼をここに縛りつけていた。


 ゆっくりと背を椅子に預け、深く息を吐く。

 蝋燭の炎はまだ、消えずにいた。

その心細い光だけを頼りに、彼は再び頁を撫でる。


 どれほど虚しい時間を費やしても、

 どれほど報われずに終わるとしても、

――この声にだけは、応えたかった。


 そうして闇は、なお深く降り積もっていく。

 それでもシルヴェルは目を逸らさなかった。

 たとえ、この先何も見えなくなるとしても。

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灰と声と二百年の境界 胡土 玲 @Kotsuchi_Rei

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