第1章 声との出会い
第1話 境界線のノイズ(1)
この世界には、かつて夜があった。
人々が恐れ、抗い、祈ってもなお終わることのない長い夜だ。
それは単なる日暮れではなく、命を奪い、魂を沈黙させる黒い影だった。
古い記録には、夜がどのように広がったが断片的に記されている。
大陸の北から忍び寄った魔王の軍勢は、都市を一つずつ影に変えた。
星すら見えない漆黒の空。
地平まで続く灰色の荒野。
夜は人々の声を奪い、灯を掲げる兵士の列は一つずつ闇に溶けた。
朝を待ちながら冷たくなる家族を、誰も助けることはできなかった。
光を拒むその闇は、何もかもを等しく呑み込んだ。
人々は最初、戦うことを選んだ。
だが夜は意思を持つように広がり、あらゆる防衛を無力化した。
人々はそれを恐れ、やがて受け入れていた。
街を飲み込む黒い波は、大陸に生きるすべての者の上に平等に落ちるものだと。
その恐怖が、長い年月のあいだ王国を縛っていた。
しかし、その結末を拒んだものがいた。
二百年前、何処からともなく現れた一人の人間。
彼は薄い外套を纏い、ただ一振りの剣を手にしていたという。
その者は、砕けた玉座の上で、剣の光が一度だけ夜を裂いた。
黒い影は裂け目から白い朝を覗かせ、世界は久しぶりの息をついた。
人々は彼を「勇者」と呼んだ。
そして、その姿を語り継いだ。
魔王の城を目指して進む背を、誰かが詩に書き、別の誰かが歌にした。
勇者を讃える言葉は次第に増え、伝承の中でその姿を神話に近いものへと変えていった。
勇者の名も素性も、正確には残されていない。
ただ、彼が命を懸けて魔王を討ち果たし、終わらぬ夜を終わらせたことだけが確かだ。
砕けた玉座の上に立ち、影を裂いた剣の光は、今も幾つもの詩に謡われている。
だが、すべての物語がそうであるように、その真実も時の流れに摩耗した。
夜を終わらせた英雄の行いは、時代と共に次第に現実と空想の境を見失った。
ただ、一つだけ確かなものがあった。
勇者が遺したといわれる一冊の手記。
血に染まったページには、彼が最後に書き残した言葉。
それは長く貴重な史料とされ、多くの学者が解読を試みた。
王立学院に最初に手記が届いたとき、人々は息を吞んだという。
夜を終わらせた知識の証だと信じられていた。
この書が明らかになれば、魔王の力の根源すら明かされるかもしれない。
街には熱狂が渦巻き、研究に資金が注がれた。
魔王の力の解析、勇者の言語の研究、伝承と現実の照合――
人々はいくつもろうそくを抱え書庫で籠り、夜明けを待たずに筆を走らせた。
書庫の長机には、国をまたいで集まった学者が肩を並べた。
白髪の老魔導師も、若い学徒も、同じ光に顔を寄せてページを覗き込んだ。
記された文字を解読し、写し取り、意味を探そうとした。
魔王を討った後、勇者は立ち上がることなく倒れ、その場で手記を広げたと伝えられている。
学者たちはそこに、夜を終わらせるための方法が封じられていると信じて疑わなかった。
だが、手記の多くは謎に満ちていた。
記された文字の多くは未知の言語であり、断片的な翻訳しかできなかった。
魔道理論との関係も明確には立証されず、研究はしばしば行き詰った。
ある者は「勇者が意図的に知識を隠したのだ」と主張し、ある者は「もともと何も書かれていない空の言葉だ」と嘲笑した。
それでも、研究をやめられない人々もいた。
時代が進むにつれて、街には新たな技術が溢れた。
実用魔法の理論とその技術は急速に発展し、生活を豊かにした。
遠距離通信の技術、ろうそくを使わない照明、空を駆ける機械。
人々の関心は次第に「未来」に向けられ、過去は古びた物語に変わっていった。
研究者たちは苦心して手記を解読し続けたが、数十年の間、新しい知見はほとんど得られなかった。
失望は積もり、期待は薄れた。
やがて王国は経済と防衛に資金を集中させ、古い伝承の研究は縮小された。
「学術的価値が低い」という決定が下されたとき、多くの研究者が手を引いた。
かつて詰めかけていた書庫は、あっという間に静寂の蔵に変わった。
人々は次第に、思い込むようになった。
夜の恐怖は、もう戻らないのだと。
ならば、光だけを見て歩く方が楽だった。
人々が夜を忘れたのではない。
ただ、それを思い出さなければならない理由が、何処にもなくなったのだ。
夜の恐怖は古びた絵本の中に閉じ込められ、勇者の手記はただの「遺物」になりかけていた。
研究は縮小され、予算は打ち切られ、手記が保管される倉庫に訪れるものは極少数になった。
それでもなお、ページをめくり続けるものがいた。
先人たちが残した翻訳の断片を拾い集め、欠けた文字を写し取り、あの一行に手を伸ばし続ける者たち。
”いつか、この声が届くと信じている”
勇者が最後に記したとされるその言葉は、信仰にも似た思いを生んだ。
不完全で、歪んでいて、それでも人間の言葉だった。
誰かが残そうとした祈りのように、微かに温度を宿していた。
意味がないと嘲笑う声もあった。
王立学院の片隅で、時代遅れと笑われながらも、彼らはなおページをめくる。
勇者の声に何かの意味を見いだすために。
灰と血の跡に耳を澄まし、何かの証を探し続ける。
――その中に、一人の若い研究者がいた。
名前はシルヴェル・エイン。
彼もまた、声の続きを探す一人だった。
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