第五幕 超越誤答・超支配的殺人事件


 帝国の紋章がでかでかと刺繍されたタペストリーを背後に、イゾルデ・イングラシアは悠然と、玉座の上で足を組んでいる。

 燦然と輝く玉座の間にあって、その姿だけは黒ずんでいた。格好がそうというだけではなく、彼女が纏う空気が、彼女が発する気配が、薄闇めいたどす黒さを含んでいるのだ。

 表情だけは友好的に、イゾルデは笑みを湛えて口を開く。


「ここまでやってくるのは、ああ、君達だとわかっていたよ。人にはそれぞれ、然るべき役どころというものがある。――歓迎するよ、メインキャストの諸君?」

「この期に及んで、脚本家気取りですか」


 エルシリアが一歩踏み出した。


「もう私は、あんたのくだらない脚本になんか付き合いません。お人形遊びはよそでやってもらえますか?」

「はは! いいねえ。確かに、その答えは私の脚本にはない。そもそも、君はとっくに始末されているはずだったからね」


 イゾルデは肘掛けで頬杖を突く。


「でも、君も女の子ならこう思ったことはないかな? 可愛いお人形がお話しをしてくれたらどんなに楽しいだろう――ってね。私は楽しいよ! 手塩にかけて育てた人形が自分の意思で喋ってくれるんだから!」

「人恋しいなら、もっといい所に案内してやる」


 ルドヴィカが踏み出して言った。


「処刑場と言ってな、たくさんの人がオマエに笑いかけてくれるぞ?」

「うんうん。そいつもなかなか悪くない」


 イゾルデは笑みを深める。


「でもご飯が出ないからなあ。それとも何か御馳走を用意してくれるのかな? ――私の大好物は、服従、っていうんだけど」

「抜かせ――!!」


 ウェルナーは取り合わずに飛び出した。

 玉座までの間合いを一瞬で詰め、振り被った長剣でイゾルデの足を狙う。

 イゾルデは身動ぎもしなかった。否、その暇すら与えなかった。


 しかし――ウェルナーの剣は届かない。

 間に割って入ったそいつが、剣で受け止めたからだ。


「よお――堪え性のない奴だな。もう少しゆっくりしてけよ」


 己が複製の獰猛な笑みを間近に見て、ウェルナーは舌打ちし跳び離れる。

 偽ウェルナーはイゾルデの手前に立ち、ゆらりと長剣を構えた。

 無視してイゾルデを目指そうとすれば、その瞬間、彼奴はウェルナーの命を絶つだろう。互いの実力は完全に拮抗している。こうして対峙した以上、戦闘に全力を注がなければ敗北は必至なのだ。


「……お前は、なぜこんなことをするんだ……!」


 少しでも情報を引き出そうと、ウェルナーは敵を見据えたまま、その後ろのイゾルデに問う。


「こんなにも多くの人間を傷付けて! そこまでして権力が欲しいのか!?」

「欲しいね! それはもう、あればあるだけ欲しいッ!!」


 イゾルデは快哉を叫ぶように即答した。


「だって権力があればみんなが言うことを聞いてくれるじゃないか! 全国民が! 老若男女問わず! 私が死ねと言えば死ぬんだよ!? あッはははは!! こんな愉快なことって他にある!? ないよね!? ないよねぇええ!?

 私は今まで色んな人間を支配し、服従させてきた!! でもいい加減、個人単位でできることには飽きたんだ。これからはもっとビッグにやりたい!!

 全人類を這いつくばらせ、私を見上げさせ! やがては四大未踏領域の彼方も征服する!! 新大陸なんて狭い狭い!! 私を絶頂させるには世界が必要なんだよ!!」


 身を乗り出し、唾を飛ばし、取り憑かれたように、イゾルデは欲望を曝し続ける。


「支配!! 支配こそ最高の娯楽!! そして〈支配者ルーラー〉の名と力を受け継いだ私こそが、最もその娯楽を消費するに相応しい!! さあ跪け玩具ども!! この私がたっぷりじっくり存分に!! 楽しんでやるからさぁああぁあああッ!!」


 炸裂する哄笑。その響きのあまりのおぞましさに、ウェルナーは顔をしかめた。


「……救いようがない」

「だろ? だから、オレくらいは味方してやんなきゃいけねぇんだよ」


 当たり前のような調子で放たれた偽ウェルナーの言葉に、ウェルナーは認識を正す。


(こいつは――確かに、僕だ)


 救いようがない誰かを。救いのない誰かを。ゆえにこそ、救おうとせずにはいられない。

 たとえその先に、救われない破綻が待っていたとしても。


「……ルドヴィカ。エルシリア。退がっていてくれ」


 どの道、目の前の敵を倒さなければ、イゾルデを捕えることはできない。

 ならば、後は剣に委ねるのみだ。

 雌雄を、真偽を、勝敗を。刃だけが教えてくれる。


「ウェルナー」


 ルドヴィカが呼んだ。


「ウェルナーさん」


 エルシリアが呼んだ。

 名を呼ぶということ――ただそれだけの行為が、何よりも力強く主張する。




 自分達はここにいる。

 そして、ウェルナー・バンフィールドもここにいる。




 観客はわずか三人――イゾルデ、ルドヴィカ、エルシリア。

 しかし、彼らにとって、彼女達の存在は万の群衆を凌いだ。


 整った舞台の上で、『ウェルナー・バンフィールド』は再び対峙する。

 そうして――ウェルナーという存在を決める戦いが、静かにその幕を切って落とされた。








 同じ速度。同じ軌道。同じ威力。

 二人のウェルナーの第一撃は、鏡合わせのように噛み合った。


「「―――ッ!!」」


 衝撃が空気に波及する。それは攻撃が相殺し合った証だ。だが二人に『後退』の二文字はない。剣を引き、振り被り――再び同じ攻撃を繰り出す。

 相殺に次ぐ相殺。二人の間に火花が星のように散る。それは定められた舞踏のようでもあり、互いを削り合う死戦でもあった。互いが死力という死力を尽くすからこそ拮抗し、他に類を見ない美しさを生み出す。ここに現出したのは、敵意と殺意が織り成す奇跡だった。


 束の間の奇跡は小さな綻びから瓦解する。両手を使った一撃が激突し、衝撃が剣身を伝って腕に伝播した。

 直後、ウェルナーの左腕に鋭い痛みが走る。

 前の戦いで左腕に受けた傷。それがここに来てウェルナーの動きを止めた。それは瞬きにも満たない刹那だったが、極限の死線を共有する敵が見逃すはずもない。


「お大事に」


 左手の掌底が強烈にウェルナーの胸を打った。ウェルナーは力なく吹き飛ばされ、背中から壁に激突する。ビキッ! と石造りの壁に亀裂が走った。


 息が止まる。反射的に空気を求める。だがそれは敵に追撃を許すだけの行為。

 ウェルナーは反射を噛み殺し、眼前に迫っていた刺突を首を振って避けた。代わりに貫かれた壁がさらなる亀裂を刻む。

 薄皮一枚、刃に触れた頬に熱が走るがウェルナーは黙殺。至近にて無防備を晒している偽ウェルナーの首を掴み、身体を捻って背後の壁に叩きつけた。


 三度に渡って激烈な衝撃を受けた壁が、断末魔を奏でて崩れ去る。

 壁の向こうは空中だった。二人は四散した石材と共に縺れ合いながら落下していく。だが地面に激突するまで待っていられる二人ではなかった。


 偽ウェルナーのほうが早い。彼はウェルナーを蹴り飛ばして落下の軌道を変える。

 蹴られたウェルナーは城に幾つも屹立する尖塔の一つに飛ばされ、かろうじて窓に指を引っかけた。

 対し、偽ウェルナーは空中で身を捻る。他の尖塔の壁に足から着地し、跳ね返るようにしてウェルナーに飛びかかった。


「ぐッ……!!」


 胴体を両断する軌道の斬撃を、ウェルナーは逆上がりするようにして躱す。

 ザガンッ!! と尖塔の壁に深い傷が刻みつけられた。


 窓に上がる形になったウェルナーはそのまま尖塔の中に転がり込む。中には何もなかった。下へ向かう階段があるだけだ。振り向くと偽ウェルナーの顔。這い上がってこようとしている。


 ウェルナーは窓の下の壁を思い切り蹴りつけた。

 ボゴッ!! たったそれだけで、石造りの壁はあっさりと砕かれる。偽ウェルナーは壁もろとも弾き飛ばされた。


 幾ら聖騎士でも、熟練度が足りないウェルナーではこうまで簡単に堅牢な石壁を砕くことはできなかっただろう。

 だがその直前、偽ウェルナーの斬撃が壁に深い傷を刻んでいた。だから壊せるはずだと、ウェルナーは一瞬で判断したのだ。


 ウェルナーは開放的になった壁から空中に飛び出す。眼下に石材もろとも落下する己が分身の姿が見えた。

 切っ先を下に向けた長剣は串刺しの宣言。死を予感したか、偽ウェルナーは凄絶に表情を歪め、


「ォおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」


 獣のように咆哮し、身体を捩ってその力だけで長剣を振るった。

 奇跡的な精度で二つの切っ先が衝突する。串刺しを企図したウェルナーの剣は軌道を逸らされた。

 偽ウェルナーは先んじて真下にあった渡り廊下に着地し、即座にその場から離脱。寸刻遅れてウェルナーの剣が渡り廊下の床に突き立った。


 剣を引き抜いたウェルナーは、油断なく敵に向き直る。

 偽ウェルナーは五メートルほど間合いを取り、剣を構えて愉快げな笑みを浮かべていた。


「ずいぶんと目端が利くじゃねぇか。慣れねぇことはするもんじゃねぇぜ?」

「お互いにな!!」


 返しながら距離を詰める。

 一度、二度。斬撃と斬撃が火花を散らし――ギャリッ!! 三度目で鍔迫り合った。

 刃を挟んだ至近距離。ウェルナーは自分と同じ顔を睨む。


「ルドヴィカの家で、お前はどうして話しかけてきた? お前の役割は肖像画を届けることだけだったはずだ。僕と問答をする必要なんてなかった!!」


 分身の顔が歪む。少しずつ、ウェルナーの剣が押し始める。


「放っておけなかったんだろう! 僕が自分と同じ破滅に向かっているように見えて! たとえ相手がいけ好かない自分でも――お前は! 僕だから!!」


 誰よりウェルナーが知っている。ウェルナー・バンフィールドという人間は、そういう風にできているのだと。


「はッ……! そうかもなあ!!」


 偽ウェルナーの表情が挑発的な笑みに変じ、徐々に剣を押し返し始めた。


「だとしたら、オレにはてめえのことが今でも同じように見えてるぜ!! 間違った相手に入れ込んで破滅に向かってる、救いようのねぇ大馬鹿野郎だってなあッ!!」

「なら残念だったな――お前の目は節穴だ!!」


 ギャリリッ!! と刃がこすれた。ウェルナーが剣に込められた力を横にいなしたのだ。

 隙が生まれる。偽ウェルナーの体幹が傾く。

 ウェルナーは剣を戻し、鋭い横薙ぎの一撃を放った。常人ならば致命のそれは、しかし偽ウェルナーの超人的な反応に阻まれる。自ら跳びながら剣の腹で攻撃を受け、代償として弾き飛ばされて帝城の壁に叩きつけられた。


 手を緩めるつもりはない。ウェルナーは渡り廊下から飛び出し、屋根の上を飛び石のように使って、同じく帝城の壁に取りついた。

 偽ウェルナーは受け身を取り、すでに体勢を立て直している。石材のわずかな出っ張りを頼りに壁をまっすぐ駆け上りながら、ウェルナーは己の敵を睨み上げた。


「確かにエルシリアは救いようがないのかもしれない! 僕じゃ彼女を復讐という檻から解放してあげることはできないのかもしれない!! それでも!!」


 壁という究極的に不安定な足場を縦横無尽に使い、二人は幾度となく交錯する、


「支えることくらいならできるだろう!! 彼女の決意を、彼女の選択を、支えることくらいなら!!」

「その結果、てめえまで地獄に落ちることになってもか!!」

「落ちるものか!! 僕が意地でも支えきってやる!!」

「それじゃただの杖だ!! いつか折れて打ち捨てられる!!」

「それでもいい!! お前だってそうだろッ!!」


 天に上りながらの攻防は、始点に立ち戻ることで終着を迎えた。

 壁に空いた巨大な穴。中に覗くのは玉座の間。

 最後のひと蹴りをした直後、僅差で上を取ったのはウェルナーだった。

 複製体は、己が鋳型の姿を見上げ――ふっと、笑みを滲ませた。


「ああ―――そうだな」


 ウェルナーの蹴撃が顔面に決まる。偽ウェルナーは錐揉み回転しながら吹っ飛ばされ、玉座の間の床で一度跳ねた後、壁に激突して粉塵に消えた。

 無事に玉座の間に着地するウェルナー。だが直後、喉奥から呻き声が漏れ、腹部を押さえた。高速で交わされた攻防のうちに何発かもらっていたのだ。全力の一撃を数え切れないほど打ち合った結果、剣を握る手も痺れて感覚がない。


「ウェルナーさん!」「ウェルナー!」


 エルシリアとルドヴィカが声を上げて駆け寄ろうとした。気持ちは嬉しいが、ウェルナーはそれを手で制する。

 ウェルナーが見据える先――茶色い粉塵の中から、同じ姿をした別人が、覚束ない足取りで歩み出てきた。

 見れば奴の右手も震えている。剣を握るのもようやくといった状態だろう。


「……はは。笑えるぜ」


 乾いた笑いを漏らし、偽ウェルナーは震える右手を強く握り込んだ。


「結局、最初からわかってたんだ。オレ達は、誰かに尽くすことしか能のない家畜なんだって」

「それは違う」


 ウェルナーもまた、剣を強く強く握り締める。


「僕達は、自分で家畜であることを選んだ家畜だ。その選択は、誇ってもいい」


 そうかよ、と偽ウェルナーは吐き捨てた。

 そして――己が剣の切っ先を、正面の敵へとひたと据える。


「オレはてめえを認めねぇ。『意地でも支え切る』だと? いくら『オレ』でも綺麗事が過ぎるぜ――一度決めたことなら、地獄の底まで付き合いやがれ」


 応じ、ウェルナーも剣先をまっすぐに据える。


「僕はお前を認めない。『地獄の底まで付き合え』だって? いくら『僕』でも頑固が過ぎる――それで本当に後悔しないのか?」


 突きつけたのは、剣であり、戦意であり――決別だった。

 殺し合い、否定し合うことを選んだ彼らに、もはや言葉は必要ない。刃という名の言葉こそが、彼らを何よりも語り尽くす。


 均衡は刹那だった。

 読み合いも化かし合いも意味を為さず。


 ただ、ウェルナーかれららしく真っ正直に――正面から激突する。


 ウェルナーが選択したのは、大上段からの斬り下ろしだった。

 偽ウェルナーが選択したのは、地を舐めるような位置からの斬り上げだった。


 ここに来て二人の選択が真逆となったのは、必然。

 そしてその必然が、次の結果を生み出した。


 ――キンッ――


 甲高い音が鳴り、ウェルナーの剣が手から離れる。剣はくるくると空中を舞い、エルシリアの傍に突き立った。

 偽ウェルナーが笑い、未だその手にある長剣で命を断ちにかかる。

 小細工無用。袈裟懸けの一撃。丸腰となったウェルナーに、その致命打を防ぐ手段は皆無だった。


 ――だから、打たせない。


 偽ウェルナーが剣を振り下ろそうとした寸前、ウェルナーは掌底でその手首を打った。ウェルナーと同じく握力が弱まっていた偽ウェルナーは、あっさりと柄を手放してしまう。剣はくるくると空中を舞い、イゾルデの傍に突き立った。


 お互いに無手。

 奪命の手段を失った。

 だが交錯した視線は揃って主張している。


 退かない。


「「――ォォおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!」」


 雄叫びが重奏し、二人の足が床を強く踏み鳴らした。

 岩をも砕く威力が込められた腕が、同じタイミングで振り上げられ――


 ――ヒュン。


 不意に、風を切る音がした。

 直後。




 ウェルナーの手に、剣が戻ってきた。




 まるでわかっていたかのように、ウェルナーはそれを掴み取る。

 弾き飛ばされた剣が独りでに戻ってくる――そんなことは魔法でもなければ有り得ない。


 ならば、答えは一つ。

 エルシリアが傍に突き立った剣を引き抜き、ウェルナーに投げ返したのだ。


 対して。

 イゾルデは、すぐ傍に突き立った剣に、一瞥もくれない。


「やっぱり、家畜と言えども飼い主は選ぶべきだな」

「……まったくだ」


 笑みを漏らした直後――偽ウェルナーは、袈裟懸けに大きく斬り裂かれた。








 鮮血に倒れたウェルナー・バンフィールドは、静かに瞼を閉じ、動かなくなった。

 ウェルナーは長く息をつき、玉座に座る魔女を睨み据える。


「これでお前の盾はいなくなった――降参しろ」

「……ん? ああ、そっちが勝ったのか。見た目同じだからわかんなかったよ」


 飽くまでもふざけた態度を貫き通すイゾルデに、ウェルナーは剣の切っ先を突きつけた。


「もう一人のお前はどこにいる?」

「怖いなあ。話さないと酷い目に遭わせるぞってやつ?」

「答えろ!!」

「残念ながら、今更死ぬのなんて怖くないんだよねえ。っていうか、複製する時にその辺の感情を削除しちゃってさ」


 へらへらと笑うイゾルデ。これでは埒が明かない。

 仕方がない、と本格的に脅しに入るべく足を踏み出した時、ルドヴィカがすぐ横を通り抜けていった。


「おいルドヴィカ、危な――」

「キサマ、魔女ではないな?」


 ルドヴィカが出し抜けに放った言葉に、玉座の間が沈黙した。


「な……何を言ってるんですか!!」


 一番最初に立ち直ったのはエルシリアだ。


「その女が魔女だと言ったのはあなたでしょう!? それにさっき、一階のエントランスで――」


 そうだ、とウェルナーはようやく気付いた。ついさっき、イゾルデはウェルナー達の目の前で魔法を使って見せたばかりなのだ。

 ルドヴィカは首を捻ってこちらを見やる。


「一階にいたのはコイツではない。本物のほうだ。コイツは偽物だよ――複製ではなくな。魔法など使えないただの人間だ」

「なっ……なんだって……!?」

「もともと疑問ではあったんだ――魔法第七章〈ルーラー〉は、果たして魔法まで複製できるのか? 同じ魔法を持つ魔女は二人といない――そのルールが〈ルーラー〉にも適用されるのだとしたら、魔女を二人に増やすことはできないはずだ。だが、何せ魔法だからな。何があってもおかしくはない。油断の元だと思って、この可能性は伏せていた――」


 だが、とルドヴィカは玉座のイゾルデに向き直った。


「さっき、エントランスにわざわざ姿を現し、魔法を使って見せたことがわたしにヒントを与えた。

 キサマはわざと危険な場所に顔を出すことで自分が替えの利く存在であることをアピールし、複製でも魔法が使えるものと思い込ませるためにデモンストレーションをしたんだ。その後、この玉座の間でスタンバイしている複製と交代し、自分は皇帝の絵を描きに戻った……。

 証拠となる肖像画を渡したのも、法廷で死んで見せたのも、〈ルーラー〉による自己改造が目的なのだとミスリードし、ひいては魔法も複製できるものと思わせるため。――そうしなければ、キサマの最大の弱点が露呈してしまうからだ」


 ここまで聞けば、ウェルナーにもエルシリアにもわかった。


「本物は――一人」

「そいつさえ倒せば、〈ルーラー〉はこの世から消滅する……!!」


 これまで、最大で二人まで存在できるイゾルデを両方捕えなければならないものと思っていた。それは時間のない現状では極めて難易度の高い目標だったが、これで話が変わった。

 本物を見つけ出し、倒す。複製は無視してしまっても構わない。

 状況がシンプルに収斂したのを理解し、ウェルナーは希望を見る。これならば……!!


「はっ――はッははははハハハハハハっ!!」


 玉座のイゾルデが大口を開けて笑い、パチパチと拍手した。


「参った参った。やっぱり侮れないなあ、魔女狩り女伯……。ま、仕方がないか」


 あっけらかんと言って――イゾルデは、懐から小瓶を取り出した。

 その中身を気取ったウェルナーが動き出す前に、彼女は蓋を開けて一気に呷る。

 瞬間、


「――ごふッ……!!」


 イゾルデの口から真っ赤な血がこぼれた。彼女は胸を掻き毟り、二度三度と咳き込んで、服と玉座を赤く染めていく。


「はあっ……おいでよ、私のもとへ……」


 苦しそうに息をしながら、それでもイゾルデは笑みを崩さなかった。


「第七魔女が……〈ルーラー〉が……君達を、歓迎、しよう―――」


 殊更大きな血塊を吐き出すと、イゾルデは玉座からずり落ちて、そのまま動かなくなった。

 瞼を閉じることもなく、笑みを消すこともなく。

 エルシリアが、その死体を複雑な表情で見つめていた。


「……まだ本物がいる」


 ウェルナーがそう言って肩に手を置くと、エルシリアはその手に自分の手を添え、


「わかってます。……絶対に、逃がしません」


 ぐっと、力強く握り締めた。

 ウェルナーは頷いて手を引っ込め、


「でも、これで手がかりがなくなったな……。本物のイゾルデはどこで皇帝陛下の肖像画を描いているんだろう」

「手がかり――というか、推測ならある」


 ルドヴィカが白髪を揺らして振り返る。エルシリアが勢い込んで、


「推測でも構いません! あの女はどこにいるんですか!?」


 ルドヴィカは視線を上へ向けた。


「皇帝の複製を傀儡にするには、肖像画にそのための暗示を仕込まなければならない。イゾルデの肖像画にあった慈悲の天使像のようにな。それにうってつけな道具立てが、今、誰の目にも明らかな場所に存在する」


 ウェルナーとエルシリアも、釣られて上を向いた。

 玉座の間の天井を――否、さらにさらに上にある『それ』を見上げた。


「古来より、人から理性を奪うとされてきたもの―――月だ」








 月下。

 ユニケロス城の最上部には見事な空中庭園があった。色とりどりの花々が月の光に浴し、日中にはない神秘的な美しさを纏っている。


 城内を一直線に駆け上がってきたウェルナー、ルドヴィカ、エルシリアは、それら妖美なる花々には目もくれない。夜空に浮かぶ白い月――冷たく清冽に輝くそれが、彼の者の影を薄く落としている。

 空中庭園の中央。展望台か何かだろう、高くせり上がった場所がある。


 そこに。

 キャンバスを前にした女が座っていた。


 他にも椅子に縛りつけられた皇帝の姿もある。彼はウェルナー達に気付くと、助けを求めるように視線を向けてきた。

 軽快にキャンバスを滑っていた筆が、不意に止まる。

 女は物憂げに溜め息をついて、筆とパレットを置いた。


「やれやれ……ゆっくり絵も描いていられないか」


 女はゆっくりと立ち上がり、ウェルナー達を睥睨する。

 背に負った満月が、女を黒い影にしていた。細部の曖昧なその姿は、ゆえにただの人間には見えず、もっと得体の知れない何か――そう。


 魔女。

 第七魔女〈ルーラー〉――イゾルデ・イングラシア。


 ウェルナーは一歩足を踏み出し、長剣を音高く抜き放った。


「年貢の納め時だ、魔女。そこから降りて、二人の前で土下座しろ……!!」


 エルシリアを、ルドヴィカを、彼女達の親友を――奪い、貶め、歪めさせた張本人。

 そして今、その悲劇を全人類にまで広げようとしている巨大なる邪悪。


 迷いなく向けられた剣は、月の光を浴びて清冽に輝いた。それは闇を貫き引き裂いて、ウェルナーの、エルシリアの、ルドヴィカの――この戦いに参加したすべての人間の、戦意を魔女へと突きつけているようにも見えた。


 くっ、と魔女は口角を上げる。

 頬を引き裂き、せせら笑うように。




「誰がするか。君達がひれ伏せ」




 ぞくッ! と。

 凍てつく戦慄が、ウェルナーを頭から足先まで貫いた。


 なんだ、これは。

 なんだ、この雰囲気は……!!


「ウェルナー!! 怯むな!!」

「魔法を使わせてはいけません!!」


 二人の少女の声で我を取り戻し、ウェルナーは歯を食い縛って駆け出した。

 もはやあの魔女の軽口に付き合う必要はない。この距離ならば魔法を使われる前に斬り伏せられる!

 ウェルナーは瞬刻のうちに距離を詰め、展望台の上に跳び乗った。そして速度を乗せた容赦のない斬撃を魔女に――


「そんなので殺せたら」


 ――瞬間、ウェルナーの思考が止まる。


「世話、ないよねえ?」


 イゾルデのおぞましい笑みが、手を伸ばせば届く距離にある。

 なのに。

 ウェルナーの剣が、何もない虚空で、ピタリと止められていた。

 まるで、透明な腕に掴み取られたように――


「ぐッ……! ぐっ……!?」

「魔法第七章〈ルーラー〉――ルーラーってのは『支配者』って意味でね。不思議だと思わない? 私はこういう使い方をしてそれっぽくしたけどさ――効果のことを思えば、『贋作師』とでも名付けるのが適切だよね?」


 周囲に、何か得体の知れないものが充満しているのがわかる。

 ビリビリと空間が震える錯覚がし――ただの錯覚のはずが、肌が裂けそうなほど痛い。


「『人為は偽り。故にこそ真』――そう、複製どもの行動じんい魔女わたしによる『偽り』だ。だが、だからこそ――私という魔女に統御されるからこそ、そこには『真』が生まれる。群集心理を誘導し、それらの情動を極限まで統一したことで、ここに〈ルーラー〉最強最大の力を行使する条件が整った!!」


 何かが。

 目に見えない何かが。

 街の至る所から、イゾルデに集まっていく。


「光栄に思いなよ、本邦初公開だ。――集え!! 支配者はここにいる!!」


 ゴオッ!! と豪風が渦を巻く。

 長剣の刃が瞬時に砕け散り、ウェルナーは吹き飛ばされて庭園の地面を転がった。


 駆け寄ってきたルドヴィカとエルシリアと共に、ウェルナーは月下に顕現した異常を見る。

 イゾルデに集っていた不可視の何かは、今や確固とした現象としてウェルナー達の前に姿を現していた。


 夜より暗い漆黒の光がイゾルデの周囲に侍っている。のみならず、彼女と彼女の傍にあるイーゼルや縛られた皇帝は、重力を無視して宙へと浮き上がりつつあった。

 自然界には決して有り得ない異常の渦中にあって、イゾルデは愛おしむように漆黒の光をもてあそんでいた。光は依然、空を渡って方々から集い、悪魔の翼のように大きく広がっていく。


「ああ――凄い。これが『魔力』……人の心が生み出す、魔法の根源たる力……」


 恍惚とした表情で、イゾルデは集った漆黒の光に口付けをした。


「一時的なものでしかないのが、本当に惜しいばかりだよ。そうでなければ、こんな薄汚いジジイの絵なんて描かなくてよかったのに。

 ――だが、今!! 私は真実『全能』となった!! 今の私には、きっと〈ネメシス〉だって敵いやしない……!! 旧大陸に究極の栄華をもたらした力が、この手の中にあるんだよッ!!」


 イゾルデは天へと向けて右手を掲げた。


 瞬間、星空が切断される。


 否、イゾルデの右手から迸った漆黒の光が、星の光を遮ったのだ。

 イゾルデが伸ばした漆黒の光は、天を衝くほどの巨大さで。

 形状は――剣、のように見えた。


「そういうわけで」


 にいっ――と、悪魔のように笑って、魔女はウェルナー達を見下ろした。


「君達を叩き潰してから、絵の続きを描くことにしよう」


 直後。

 天をも斬り裂く漆黒の巨剣が、ユニケロス城の高さを半分にした。








 次に記憶が繋がった時、ウェルナーはどことも知れない床に寝そべり、直前の記憶よりも遠い星空を見上げていた。

 全身の至る所が痛い。血も幾らか出ている。だが、奇跡的に命は拾っていた――それに、両腕には暖かく柔らかな感触がある。


「二人とも……大丈夫、か?」


 両腕にそれぞれ抱き寄せたルドヴィカとエルシリアが身動ぎした。


「一応な……」

「完全に死んだと思いました……」


 ウェルナーは深く安堵の息をつく。

 漆黒の巨剣が振り下ろされる直前、二人を抱えてギリギリ攻撃範囲を逃れたのだ。そこからの記憶は定かではないが、どうやら崩れた床と共に落下し、何とか着地を成功させたらしい。


 ウェルナーはどうにか立ち上がり、二人を助け起こす。

 エルシリアは周囲を見回した。瓦礫がそこ彼処に散らばり、壁は完全に消滅している。


「どうやら、城の中層階まで落ちてきたみたいですね」

「ということは……」


 ルドヴィカは頭上に開けた夜空を見上げた。


「ユニケロス城の半分が、一撃で消滅したのか……」


 尋常ではない。空想の域すら超えている。人が持っていい力ではないし、人に抗える力でもない。

 天災をも超越した――そう、神災とでも呼ぶべきものだ。


 ウェルナーは今一度夜空を見上げた。

 星空を塗り潰すようにして、漆黒の光でできた翼を広げたイゾルデが浮かんでいる。その周囲には大きな瓦礫が幾つか浮遊しており、イーゼルと皇帝はそのうちの一つに置かれていた。


「魔力っていうのは何でもアリなのか……? これじゃあ魔女じゃなくて神だ……」

「……魔力は、魔法を発動させるエネルギーとなるものだ」


 ルドヴィカが硬い声で言う。


「魔法も一種の現象なのだから、その発生には必ず動力源がある。古い文献によれば、どうやら旧大陸の魔法文明にはこの力が冗談みたいに溢れていたらしい。

 古今東西、奇跡と呼ばれるあらゆる事象の正体で、同時に、密度が高まればただ存在するだけでこの世の摂理を捻じ曲げてしまう危険なものだったと言う……。アレは、その性質の悪用といったところか」


 そんなものを、どうやって相手取ればいいというのか。

 聖騎士の力や普通の魔女の力とはわけが違う。あの力には論理がない。ただただ出鱈目に、出鱈目なことを起こすだけなのだ。

 絶望が心を侵しかけた時、足音が近付いてきた。


「ウェルナー! 無事だったか……!」


 ヴィクトルが瓦礫の間を縫ってやってくる。その身体には傷一つない。エントランスの複製兵士を蹴散らして追いかけてきたらしい。

 彼は瓦礫だらけの周囲と開けた頭上を見て、眉間にしわを寄せる。


「……厄介なことになっているようだな」

「ああ。……魔女が手の付けられない化け物になった、とでも考えてくれ」


 ルドヴィカが忌々しげに言った。ヴィクトルは目を細め、夜空に浮かぶイゾルデを見据える。


「なるほど、化け物か。……アレには聖騎士が束になっても敵わんだろう。帝国最強の聖騎士団アルカトス・スクードが結集すれば、相手にくらいはなるだろうが」

「相手は相手でも、遊び相手だろうな。……そして、ここにはその遊び相手すらいない」

「なら、見ているしかないのか……?」


 ウェルナーは声に怒りを込める。


「僕達は、ただ捻じ伏せられて! あいつがこの国を蹂躙するのを見ているしかないのかよっ……!!」




「――いいえ」




 不意に。

 エルシリアが、言った。


「手は――あります」

「え……?」


 ウェルナーが見た時、彼女は決意を秘めた眼差しで、夜空の魔女を見上げていた。

 そしてルドヴィカと視線を交わし、決然と頷き合う。


「ウェルナー、ヴィクトル――リアをイゾルデの所まで送り届けろ」


 ルドヴィカが迷いのない調子で言った。


「それがこの状況を打開する唯一の策だ。あの魔女は――リアにしか倒せない」


 ウェルナーには、彼女達が何を考えているのかわからなかった。

 ただ一つわかるのは。

 この世で、彼女達の力強い表情ほど信頼に足るものは、他にないということだ。


「わかった」


 ウェルナーは頷きを返す。


「必ず、エルシリアを送り届けてみせる。だから――あとは、任せた」








 浮遊する無数の瓦礫はまるで階段のようだった。

 エルシリアを横抱きにしたウェルナーは、誘われていると知りながらそれでも進む。浮遊する瓦礫を繰り返し蹴り、空に近付いていく。


「ウェルナー、お前は進むことだけ考えろ!! 守りは俺が引き受ける!!」

「わかりました!!」


 並走するヴィクトルと声を交わし、遥か頭上に待ち受ける魔女を見た。彼女は瓦礫の端に立ってこちらを見下ろし、


「ああ、来た来た。飛んで火に入る何とやら――」


 悪魔の翼を、空を覆うように広げる。


「私、嫌いなんだよね、羽虫って――ぶんぶんうるさいからさあッ!!」


 漆黒の光が雨となって降り注いだ。

 実際、あの光にどれほどの威力があるかはわからない。だが本能的な危機感に従って、ウェルナーとヴィクトルは急激に転進、回避する。

 寸前まで足場にしていた瓦礫が一瞬で削られて微塵と化した。人間が受ければどうなるかなど考えるまでもない。残るのはせいぜい血煙だけだ。


 だがその程度の事実でウェルナー達の足が鈍ることはない。むしろさらに速度を増して、天に陣取る魔女へと肉迫していく。

 残り距離およそ半分。

 悪魔の翼から再び雨が放たれた。次も回避すべくウェルナーはその軌道を凝視し、


(広い……ッ!?)


 その攻撃範囲が致命的に広いことに気付いた。

 だが直後に悟る。その分密度が薄い……!!


「避けるぞ!!」

「はいッ!!」


 ウェルナーは腕の中のエルシリアをさらに抱き寄せ、押し寄せる漆黒の雨を睨む。

 雨を避ける、という無理難題。ウェルナーとヴィクトルは、尋常ならざる動体視力と身体能力でこれを実現した。瓦礫を細かく蹴って曲がりくねり、雨の合間を縫っていく。その姿はまるで天へと上る稲妻だった。

 目指すは一点――悪魔に身を窶した魔女。


 真っ黒な雨を抜ける。残り距離およそ四分の一。あと一息まで迫っていた。

 しかし。

 雨を抜け、視界が開けたと同時――ウェルナーは見た。

 魔女が、すでに第三波を放っているのを。


 今度の密度は濃い。ほとんど柱に近い。必然、範囲も狭かったが、直前まで視界を遮られていたウェルナー達は反応が一瞬遅れた。

 避けられない――!!


 冷や汗が噴き出た瞬間、大きな背中が真上に躍り出た。

 ウェルナー達を、庇うようにして。


「兄上っ!!」


 ヴィクトル・バンフィールドは大剣を振り被り、迫り来る漆黒の柱を睨み上げた。

 そして。


「――――『絶剣』――――!!」


 爆発的に膨張させた闘気を大剣に集中させ、豪然と振るう。

 漆黒の柱と超越的な斬撃が正面から激突した。

 炸裂した轟音はもはや人に聞き取り得る程度ではない。強いて言えば世界そのものを割り砕いたような、終末的轟音だった。


「――ぬぅおぉおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」


 刹那生じた刃と柱の拮抗は、ヴィクトルが咆哮して大剣を振り抜くと、柱がわずかに軌道を逸らす形で決着した。漆黒の柱は遥か眼下の湖に落下し、帝城よりも高い水柱を上げる。

 攻撃を逸らすのに成功したヴィクトルは、その代償に上への推進力を失った。ウェルナーが後ろから追い抜き、一瞬、視線がすれ違う。


「行け――この国を救え!!」


 その一瞬で、ヴィクトルはウェルナーの背中を全力で押す。さらなる推進力を得たウェルナーは空を貫き、魔女までの距離を一気に縮めた。

 イゾルデの表情が見える。それほどに近付いている。彼女の表情はまだ余裕を残していた。鳥のように飛翔して迫るウェルナーとエルシリアに、ゆっくりにも見える仕草で右手を向け、


「二人仲良く死ねるなら本望だよねえ?」


 漆黒の閃光を放った。

 それは高密度に圧縮された暗黒の塊。すべてを呑み込まんとする虚無の槍。

 まっすぐ自分達に迫るそれを瞳に映し、ウェルナーは瞬時に決断した。


「いっ――――」


 エルシリアを肩に担ぎ、


「――――けええええええッ!!」


 イゾルデに向けて、投げ飛ばす。

 それによってウェルナーの上昇力が相殺され、漆黒の閃光はわずか頭上を射貫く。同時にエルシリアも閃光を跳び越え、イゾルデのもとへと肉迫した。


「やっちまえ、エルシリアっ!!」


 推進力を失って落下しながら、ウェルナーは叫ぶ。


「はいっ!! やっちまいます!!」


 漆黒の閃光を間に挟み、それでも二人は声を交わし、想いだけを預け、預かった。


 投げ飛ばされたエルシリアはイゾルデの頭上を飛び越して、瓦礫の上に着地して転がる。イゾルデは忌々しげな表情で背後を振り返り、エルシリアに右手を向けた。その掌に漆黒の光が充填されていき、


 対抗するように、エルシリアが魔女を力強く指弾する。


!!」


 イゾルデの右手から魔力の奔流が放たれた。

 片膝を突いていたエルシリアは避けることもできずその中に姿を消す。絶命の一撃であることは間違いなかった。岩さえ粉微塵にする力が滝のような密度で放たれたのだ。その直撃を受けたなら、影さえ残さず消滅するのが筋というもの。


 ――しかし。


 魔力が撃ち尽くされた時、果たしてエルシリアはまだ生きていた。

 魔力の奔流は、彼女には当たらなかったのだ――その手前に出現した、透明な壁に遮られて。


「イゾルデ・イングラシア――


 魔女はハッと気付いた表情になり、背後に振り返った。

 その視線の先には、湖に浮かぶ小島の一つ、その上に聳える威容がある。


 中央異端審問所――その最上階。

 使


 イゾルデは再び振り返り、エルシリアの不敵な笑みを見るや――凄絶に表情を歪めた。


「エル、シリアぁあぁあああっ……!!」




          ◆     ◆     ◆




「――一つ、この国には公然とまかり通っている魔法現象がある」


 半壊した帝城に戻ってきたウェルナーの傍で、ルドヴィカが空を見上げながら言った。


「『処刑劇場』。『断罪の天使』の力で為されるとされる超常的な演出だ。実際に目にしたことがある者なら誰でも気付く――『これ』は、『あれ』だと。異端審問会は『断罪の天使』などと呼んでいるが、その正体は『あれ』に違いない、と」


『十一番目』。

 その隠語でのみ語られるモノ。


「それを誰も口にしないのは理解しているからだ。この真実は口にしてはいけないと。もし濫りに口にすれば、相応の報いを受けることになる――こんなにもあからさまな事実が周知されていないように見えることそれ自体がその証明ではないか、と」


 タブー。暗黙の了解。公然の秘密。

 ウェルナーでさえ、そのことだけは弁えている。ルドヴィカでさえ、今の今まで一切言及しなかった。決して表面化しないのに誰もが気付いている白昼の闇。


「だが今、その存在はわたし達に味方する」


 ルドヴィカは決然と言う。


「『そいつ』の力は殺人者を断罪するもの。もし『そいつ』が見ている前でイゾルデ・イングラシアは殺人者だと告発できれば、今のヤツでさえ処刑は免れない」

「だけど」


 ウェルナーは息を呑んで言った。


「そのためには、唯一イゾルデが容疑者になったあの事件を――ダニエレ・ボネット殺人事件の真実を、覆さなきゃならない」


 何もかもがイゾルデに用意され、支配されていたあの事件を、今一度分析し、議論し、打ち勝たなければならない。

 実際に起こった事実を否定して、実際には起こらなかった虚構を肯定させなければならない。


「それができるのは――アイツだけだ」


 誰よりも聡く、誰よりも真実に拘るが故に何もできない少女は、親友の姿を見上げる。


 エルシリアだけが。

 イゾルデから直々に技術を吸収した、エルシリア・エルカーンだけが。

 あの魔女に、引導を渡すことができる。


 神聖インぺリア帝国と、その民すべての行く末が――今、たった一人の少女に委ねられた。




          ◆     ◆     ◆




「――はは」


 状況を悟り、憎々しげにエルシリアを睨んでいたイゾルデは、不意に笑いを漏らした。


「はは、はははははは……!! 面白い――ああ、最高だよ! 確かにこれしかない! 今の私を止めるには、弟子の君が、師匠の私を! 異端審問官として倒すしかない!! はっははははははははははははッ!! 凄い凄い! まるで神様に支配されてるような完璧な脚本じゃあないか!! ――最ッ高に気分が悪いッ!!」


 漆黒の光が野放図に撒き散らされ、周囲に浮遊する瓦礫を薙ぎ払った。

 しかし、エルシリアに向かう攻撃はすべて弾かれる。『断罪の天使』はエルシリアの『告発』を受領した。真実が明らかになるまで、それを妨害する脅威はことごとく遮断される。


『天使』の前で力を持つのはただ一つ――弁舌のみ。

 証拠、推理、主張、反論――真実を導くために駆使される言葉のすべてが、論者達の武器として機能する。


「ああ最高だよッ!! この私が、この〈ルーラー〉が!! こんなくそったれなルールに支配されなきゃいけないなんて!! 今なら泥水だって美味しく頂けそうだ!!」

「――負けるのが怖いんですか?」


 荒れるイゾルデに、エルシリアは悠然たる笑みを湛えて言った。


「弟子の私に負けるのが怖いから、戦うのを嫌うんでしょう? そうですよね……こんなしち面倒臭い決闘なんてしなくても、あなたは指先一つで私を殺せるんですから」


 ただし、と、エルシリアは肩を竦めて見せる。


「平等な戦いから逃げたあなたを、国民は敬ってくれるでしょうか? ――それとも、全国民を複製に入れ替えて、ずっとお人形ごっこを続けますか?」


 その挑発は、イゾルデにかろうじて残っていた柔らかい部分に鋭く突き刺さった。

 顔を見ればわかる。――まるで、癇癪を起こした子供だ。


「……いいよ。そこまで自信があるならやってやる」


 足場の瓦礫が二つに分かたれ、エルシリアとイゾルデを引き離した。

 それはこれから始まる戦いに必要な間合い。イーゼルと皇帝も足場ごと分離され、安全な場所に避難させられる。


「特級異端審問官『四槌』が一人、イゾルデ・イングラシア――その名が伊達ではないことを思い知れ、クソ弟子」


 エルシリアは瞼を閉じる。

 闇の中にイメージするのは安楽椅子に座っている自分。そして周囲を渦巻く、証拠や証言、記憶や考察、今までに提示された推理――


 それらのほとんどはイゾルデが用意したもの。真実さえもが彼女の仕込みだ。始めから終わりまで、この事件はイゾルデに支配され切っている。

 必要なのは、その支配をさらに超える支配。


 


 エルシリアは瞼を開けると、黒衣の裾を両の手で摘まんだ。

 仮面を被り、偽装を纏い――しかし、自分自身を披露するように。

 エルシリアは、優雅に一礼する。


「――さあ人間がた、家畜になる時間です」








 対峙する二人を中心として、空間が音も光もなく切り取られた。

 それは逃げ場なき決闘場。同時にこの世の摂理からも隔絶し、局所的に奇跡を常態化する。

 

 前に伸ばされたエルシリアの手に一振りの剣が現れた。

 主張は攻撃を意味し、反論は反撃を意味し、論破は打倒を意味する。この決闘議論空間において、言葉のやり取りは命のやり取りに等しい。

 

 対し、イゾルデの前に現れしは二枚の大盾――名はそれぞれ『アリバイ』と『密室』。事件の解決を拒む二つの謎が、今は彼女を守る絶対的防御として機能する。


「――さあて、どう説明してくれるのかな?」


 その一方――アリバイの盾が強く輝いた。


「犯行時刻は午前十一時頃。その時間、私は別の場所にいた――なのに私が殺したって? ちゃんちゃらおかしいよエルシリア! 説明くらいつけろって教えなかったっけぇ!?」


 盾から巨大な光弾が放たれた。それはエルシリアを呑み込んで炸裂し、粉塵を立ち昇らせる。

 その粉塵を、剣の切っ先が切り裂いた。


「――あなたのアリバイは機能しません。トリックを用いれば幾らでも崩せます! そんなものはアリバイとは呼びませんッ!!」

「はッ!! トリックねえ!!」


 エルシリアの剣から斬撃が飛翔し、盾から放たれた光弾がこれを撃ち落とす。二人の間で閃光が弾けた。


「忘れたのかエルシリア! 私のアリバイは確固とした証言あってのものだってことを!! それとも君は、あの親子の証言を嘘だとでも言うのかな!?」


――― 劇場で、いっしょにお母さんを探してくれたおばさんだよね? ―――

――― 第六の月七日に、南区の劇場にこの子と演劇を見に行ったんです。でも、その日はすごい人出で……この子とはぐれてしまったんです。その時、この子を連れてきてくださったのが…… ―――


 証言という名の矢が波濤となって押し寄せる。エルシリアはこれを柳のように躱していった。

 だが避けきれない。肌に掠り、血が垂れる。

 この証言、崩す方法が見つからない……!!


 頭の中に渦巻く大量の情報。エルシリアはそれを俯瞰した。

 必要なのは何か。イゾルデのアリバイを崩すことだ。それには犯行時刻、イゾルデが別の場所にいたとする情報を何らかの形で否定しなければならない。


(――いや)


 それとは逆の方法がある。

 その方法なら、この証言を完全に躱し切ることができる……!!


「あなたが用意したアリバイは用を為しません――なぜなら、犯行時刻はその時間ではないからです!!」


 証言の矢が一斉に消えた。星めいて輝く残滓が夜に舞う。


「午前十一時は飽くまで犯行時刻! 単に現場から壺が割れる音が聞こえただけの時刻でしかありません!! 真の犯行がもっと前の時間だったなら、あなたのアリバイは崩れる!!」

「真の犯行ォ? ははっ! だったらなんだ? 午前十一時に独りでに壺が割れたって言うのか!? 犯人は逃げ去り、死体しかない部屋の中で!? それとも音を記憶して再び発生させるような道具があるとでも!?」

「仰る通りですよ――んです!!」


 渦巻く情報から最適なものを選び取っていく。それらは長く鋭い槍の形を取り、穂先をアリバイの盾へと向けた。


「現場は地盤が緩んでいました。硬貨を置いたら勝手に転がり出すほどに! そして死体の頭上にはちょうど棚がありました! そこに壺を置いておけば、あとは少し揺らすだけで簡単に落下する!! その時生まれたのがバルディさんが聞いた音です!!」

「壺を揺らした? はッ! 一体どうやって! そんな時限装置のようなものの痕跡は現場には――」

「壺を、ではありません」


 槍の穂先が、鮮烈に輝いた。


「あなたが揺らしたのは――です」


 輝く槍が矢のように放たれる。盾から迎撃の光弾が無数放たれるが、槍は縦横に曲がりくねってその間を潜り抜け――大盾に深々と突き刺さった。


「現場の真下にはサブウェイが通っていました。ご存知でしょう? 地下を走る異端審問官用の交通機関です。

 現場は外を馬車が通るだけで揺れるくらい地盤が緩んでいた。真下をサブウェイのような大質量の物体が走れば強く揺れることは間違いない! 事実、バルディさんが仰られていましたよ――『ときどき、馬車が通ったわけでも地震があったわけでもないのに揺れることがあった』と!!」

「はっ……はぁああ!? 部屋ごと揺らしただって!? ふざけ倒せ!! そんな馬鹿げた推理があるか!! そこまで言うんだったら、ちゃんと証拠があるんだよねえ!?」

「ええ――ありますよ」


 エルシリアの傍に、さらに一本の槍が現れる。

 今までのものより大きく、太く、鋭い、最強の槍が。

 エルシリアは黒衣の中から一枚の紙を取り出し、突きつけた。


「サブウェイの使用履歴です。ご覧になればわかる通り――ちょうど事件当日の午前十一時頃、あなたの筆跡で書かれたあなたの署名で、サブウェイを走らせるよう予約されています」


 見た瞬間、イゾルデの顔が屈辱に歪む。

 当然だ、彼女はこんなもの書いていないのだから。


 これは帝城に突入する前、駅の事務室に寄ってルドヴィカと共に用意したもの。持ち合わせていた裁判資料にイゾルデの署名があり、それを筆跡に関して言えば右に出る者のいない専門家であるルドヴィカが模倣したのだ。


「証言の通り、あなたはこの時間、まったく別の場所にいました! なのにサブウェイを走らせなければならなかった!! そんな理由は、アリバイ作り以外にはありませんッ!!」


 最後の槍が投げ放たれる。

 それは流星のように夜闇を走り――大盾を深々と貫いた。


 亀裂が走る。

 イゾルデを守っていた盾の一つ、アリバイが――今。


 けたたましい音を立てて、崩れ去った。


「エルシリアッ……お前ぇええぇえ!!」


 破片舞い散る彼方から、イゾルデが憤激の眼光を放つ。だがエルシリアは怯まない。


「さらに!!」


 白刃輝く剣を携え、エルシリアは跳躍した。

 不可視の力が背中を押し、夜空を飛翔してイゾルデへと肉迫する。

 狙うは残ったもう一方の大盾――『密室』!


「現場の密室は、犯行推定時刻午前十一時に梯子が使えなかったからこそ成立していたもの! ですが今の時限トリックによって話は変わります!! 真の犯行時刻が使用人が梯子を使っていた時間より前だったのなら梯子で窓から出ることができる!! 密室は成立しません!!」


 剣が大盾に振り下ろされ、大音響を撒き散らした。

 大盾の向こうに隠れるイゾルデを睨み据え、エルシリアはさらに力を込める。


「以上により! 裁判で述べた理由から――イゾルデ・イングラシア、あなたが犯人です!!」


 接触点で閃光が弾けた。

 同時、金属が割れ砕ける音が炸裂する。

 それは断末魔――論破の証だ。

 無数の破片が足場の瓦礫に散らばった。音は悲しく連なって――




 ――しかし、大盾には傷一つない。




 エルシリアの身体が弾き飛ばされた。彼女は元の場所まで戻されて、地面の上を跳ねて転がる。

 そして呻きながら顔を上げ――彼女は、見た。

 手に握った剣が、根元から折れているのを。


「ふふふ……くっくっくっく……!!」


 イゾルデが顔を覆い、押し殺した笑いを漏らしている。

 彼女を守る大盾が飴のように溶け、別の形へと変わろうとしていた。


「いやいや、驚いた。壺一つ落とすために部屋ごと揺らすか……!! エンターテイナーだなあ、君は――でも、残念ながら詰めが甘い!!」


 溶けた大盾は天へと向かって細長く伸びた後、横に太く広がった。

 斬るのでも刺すのでもなく――叩き潰すことに特化した形状。

 それは大槌。――否、鉄槌だった。


「事件の日の午前中、雨が降っていたのは覚えているかな!? そしてその雨が止んだのがちょうど午前十一時頃だったことも!!」

「それが……なんだと……」

「君は今こう主張した! 『真の犯行時刻は午前十一時よりも前だった』と! すなわち、犯人は窓から現場を抜け出したわけだ!! ――さて、思い出そうか、可愛い弟子。現場の窓の周囲がどういう状態だったかを!!」


――― あまり掃除はされていないのか、窓枠は埃で覆われていた ―――


 渦巻く情報からそれを拾い――血の気が引いた。


「あ……あ……!!」

「思い出したかな? 思い出したかって聞いてるんだよ!! さあ答えろエルシリア!! !?」


 雨が吹き込んだなら、窓枠の埃が洗い流されてしまうはず――そうなっていないということは、少なくとも直近の時間において、降雨中に窓が開かれていないことを意味する。

 これまでは問題にならなかった。ちょうど雨が止んだ午前十一時が犯行時刻だとされてきたからだ。だがエルシリアはそれを前倒しにしてしまった――ゆえに、雨のことを考慮に入れざるを得なくなったのだ。


 エルシリアは不意に気付いて周囲を見回す。

 いつの間にか、あの地下室の中に立っていた。


 天井近くにある窓を振り仰ぐ。外から雨の音がした。それでもエルシリアは、反射的にそちらへ走ろうとした。

 直後、ガゴン!! と真っ黒な壁が立ちはだかる。


。もうわかったよねえ?」


 ならば、と後ろを振り返る。そこには死体がもたれかかった扉があった。紐か何かを使って、外から死体をこの状態にすれば……!!


「紐なんか使って死体を動かしたんだとすれば、やっぱり死体に痕跡が残る。そしてそんな報告はない。ってことは――」


 ガゴン!! と真っ黒な壁が目の前に落ち、扉を封鎖した。


「――。そういうことだよね?」


 窓も扉も使えない。

 エルシリアは部屋を見回した。キャンバスのないイーゼル。ティーカップが残されたテーブル。転がった木桶。本を吐き出した本棚。他は壁、壁、壁、壁――出入り口などどこにもない。


――子供でもわかるロジックだ。最後の講義にしちゃ簡単すぎたかな?」


 頭上を見上げる。天井があった。そしてその先に――振り下ろされる、巨大な鉄槌が透けて見えた。


「仰ぎ見ろよ。君が作った密室ごと、ブッ潰してやるからさあぁあああッ!!」


 鉄槌が迫る。エルシリアを叩き潰すため落下してくる。

 エルシリアは必死に考えた。渦巻く情報を隈なく精査し、脱出の糸口を探し求めた。


 ……だが、どう考えても無駄なのだ。

 窓と、扉。たった二つしかない出入り口が、どちらも封鎖されているのだから。

 この密室を出る方法は――存在しない。




 巨大な鉄槌が、完全な密室を上から叩き潰した。




 イゾルデは平面になった密室を満足げに眺める。


「よかったね、エルシリア――なかなかいい墓標じゃないか。最強の密室が死に場所なんて、異端審問官として羨ましいよ」


 そうして、彼女は朗々と哄笑する。満月の空に渡らせるように、弟子の健闘を称えるように。

 だが、彼女の意図はきっと別にある。死に際すら、終わり際すら、お前の命は私に支配されていたのだという、宣言。哄笑で空気を満たすことで、イゾルデはエルシリアの何もかもを奪い去ろうとしたのだ。

 

 その行為があまりにも甘美で、あまりにも快感で――だから、彼女は気付かなかった。

 潰された密室に、血が一滴も残っていないことに。




使




 イゾルデは哄笑をピタリと止め、声の方向を睨む。

 ガラッ、と、瓦礫の一部が崩れ。

 その下から、無傷のエルシリアが姿を現した。


「おッ……お前ッ……一体どうやって……っ!!」

「扉も窓も使えないなら、別の出入り口を使えばいいんです」

「別の出入り口ィ……!? そんなものはどこにもない!! 壁、床、天井! どこも彼処も単なる石だ!!」

「それを、あなたは調べたんですか?」

「なっ……にィ……!?」


 エルシリアは不敵に笑い――再び、その手に剣を握る。


「壁、床、天井――それらを私含め、誰もが詳しく調べていません。だから否定できない。有り得ないと、一概に切って捨てることができない!!」


 剣の切っ先を敢然と突きつけ、エルシリアは告げた。


「イゾルデ・イングラシア! あなたは被害者を扉に、壺を棚に設置した後、を使って外に出たんです!!」

「―――は?」


 イゾルデは一瞬、呆気に取られた顔をして――すぐに口角をくっと上げた。


「は――ははっ! あッははははははははッ!! 何を言うかと思えば、秘密の抜け道ィ!? み、見苦しィいいいぃ!! 丸っきり子供の屁理屈だ!! 苦し紛れも程々にしろっての!!」


 エルシリアだってわかっている。これは苦し紛れ。口から出任せのハッタリだ。

 だが、もうこの手しかない。この真っ赤な嘘を、真実へと生まれ変わらせなければならない。


 見つけ出すのでもない。探し出すのでもない。導き出すのでもない。

 創り出すのだ。

 ありもしない『幻想の扉』を。








「いいよ、とことん付き合ってやる――君が這いつくばって泣き喚くまでねえ!!」


 鉄槌が彼女の頭上に振り上げられた。その巨大さに比べれば、エルシリアの剣はまるで小枝だ。


「秘密の抜け道! そんなものがあったとしてだ! 一体どこにあったって言うのかな!?」


 鉄槌がまっすぐに振り下ろされる。イゾルデにとって、それは軽い小手調べに過ぎなかっただろう。

 だがエルシリアにとっては必殺の一撃。迫り来る鉄槌を睨み上げ、情報という情報を引っ張り出す。


「――本棚です!!」


 剣が鉄槌を受け止め、エルシリアの足が半ばまで埋まった。


「床には本棚を移動させた跡がありました! あの痕跡こそ、本棚の下に抜け道の入口があった証! あなたは本棚をどけて、その下にあった抜け道から脱出したんです!!」


 本棚が移動した痕跡。それはエルシリアが用意した捏造証拠。〈ルーラー〉によってイゾルデが作った脚本の外にある要素だ。

 イゾルデの支配を脱却するには、相手が用意した舞台で戦ってはいけない。自ら作り出した武器を使うしかないのだ。


「へえぇえ? なかなか頑張るねえ。だったらこれはどうかな!?」


 イゾルデは一旦鉄槌を引き、浮遊する瓦礫を砕きながら横薙ぎに大きく振るった。


「秘密の抜け道が本棚の下にあるとして、私はどうやって本棚を元の位置に戻したのかなあ!? 本棚の下ってことは、たぶん床の石材が一つか二つ、外れるようにでもなってたんだろうねえ。そこに入り、入口を元通りにして! その状態でどうやって本棚を元に戻す!?」


 迫り来る鉄槌の衝撃が髪を強く煽った。エルシリアは剣を構えながら頭を回す。

 真っ先に思いつくのは第一発見者に動かさせる案だ。だがそれはもう使えない。裁判で偽ルドヴィカに論破されてしまった。ならば他にどんな手がある?


 想像する。本棚の下にある抜け道――その先にあるのはなんだ? 地下室である現場の、さらに地下――そう、エルシリアは知っている。その先にはサブウェイが通る地下道がある。


 ――抜け道の先を、列車が通るのだ。


 情報と情報が瞬く間に繋がっていく。

 真っ暗だった空間に光の道ができあがった。

 エルシリアは迷わない。その道を駆け抜けるため、第一歩を踏み出す……!!


「本棚を動かしたのは、人ではありません――」


 横ざまに迫る鉄槌に対し、剣もまた横薙ぎに迎え撃った。


「――サブウェイの、列車です」


 ガィイイン――ッ!!

 鈍い音を立てて鉄槌が弾き返され、イゾルデが呆然と瞠目した。


「れ……列車……? そんなのでどうやって――」

「単純な仕掛けですよ。一本の縄を本棚に通して、その端を秘密の抜け道に伸ばします。あなたの言う通り床の石材が外せるようになっていたとすると、取り外し用に指を突っ込む隙間くらいはあるはずですから、そこから通せます。

 そして縄の端の片方にストッパーとなるものを括り付け、もう片方はさらに下に伸ばして、その先にある地下線路の枕木にでも括り付けておきます。すると――」


 エルシリアは剣を鋭く前に突き出した。


「――列車が通った時、縄が車体に引っ張られ、伴って本棚も動きます。本が散らばっていたのは本棚を軽くするためだけではなく、この時の衝撃の分もあるのでしょう。さらに言い添えれば、第一発見者のバルディさんは、壺が割れる音と一緒にガタガタッという物音もしたと証言しています。まるで何か大きなものが動かされたような音ではありませんか」

「チッ。いい加減なことを……!! それだと縄はどうなる!? 現場に残るじゃないか!!」

「残りません。列車に引っ張られて千切れた後、もう一方の端に括り付けたストッパーが重石となり、地下に引きずり込んでしまいます」

「重石だって? そんなものが現場のどこに――」

「あったじゃないですか。現場にあったはずなのに未だ見つかっていないものが」


 不敵な笑みを浮かべるエルシリアに対し、イゾルデは顔を左右非対称に歪める。


「まさか――天使像のことか……!!」

「そうです! あなたの肖像画に描かれた慈悲の天使像! 肖像画が描かれた時点では現場にあったと思われるそれが、なぜ見つかっていないのか? 答えは抜け道を通って地下に消えてしまったから! 辻褄は合っています!!」


 捏造ですらない、この世のどこにも存在しない証拠まで駆使するエルシリアに、イゾルデはわずか、圧倒されたように後ずさる。それに自分で気が付くや、彼女は鉄槌を振り上げた。


「だとしても! そんな仕掛けを弄したなら本棚に痕跡が残る! 縄で擦られた跡がね!!」


 三度振り下ろされる鉄槌に、エルシリアは一歩も退かない。懐からあるものを素早く取り出し、鉄槌に向けて放り投げる。

 直後、宙をひらひらと舞うそれが、鉄槌を城壁のように受け止めた。


「ならば、縄との間に何かを噛ませて、跡が残らないようにしたまでです」


 鉄槌を受けたのは、一枚の、絵の具で汚れた――すり切れた布。


「裁判で私は、この布を第一発見者が壁に書かれたメッセージを消すために使ったものとして提出しました。ですが実際には違った! この布は、本棚に痕跡を残さないよう縄との間に噛まされていた! だからこんなにもすり切れているんです!!」


 これもまたエルシリアの捏造証拠。支配された事件に紛れ込んだ小さな異物。幼く無力だった少女の執念が今、魔女の牙城を突き崩す蟻の一穴となる……!!


 またしても鉄槌を弾かれたイゾルデは表情に苦悶を滲ませた。何よりも支配することを愛する彼女にとって、エルシリアの反論はそれ自体が屈辱。すぐにでも払拭したい汚点だった。

 だから。


「――くだらねえんだよ」


 遊びがなくなる。

 両の手が、巨大な鉄槌を握る。


「くだらねえ屁理屈をぐちぐちぐちぐち!! 秘密の抜け道ぃ? そんなものがあるっつー根拠がどこにある!! ないよねえ? ないよねぇええぇえ!? それを示さねえ限り、何をほざこうが無駄なんだよッ!! 一生妄想を垂れ流してろッ、クソガキがァアああァああああああッッ!!」


 辻褄は合った。説明はついた。

 しかし、だから存在する、ということにはならない。


 根拠。根拠だ。秘密の抜け道は存在すると推測し得る根拠。もともとハッタリなのだ、確たる証拠でなくともいい。そう考えてもおかしくないと言える根拠が欲しい。

 さらに威圧感を増して迫り来る最強の一撃。無慈悲で、冷酷で、何より圧倒的に正しい鉄槌を見上げ、エルシリアの脳内で情報が激しく渦を巻いた。


 これじゃない。これでもない。これじゃダメだ。これも、これも、これも――


 剣を血が滲むほど握り込む。探せ。探せ。探し出せ! 何でもいい、何か根拠を……!!

 現場の光景を思い出し、数々の証拠を思い出し、関係者の証言も一言一句余さずに――


(――あ)


 渦巻いていた情報が、ピタリと静止する。

 エルシリアの目の前には、一つの記憶があった。


 ――薄暗い資料庫で、ある記録を探して資料をぺらぺらめくっている――確か傍にはウェルナーさんもいた。彼から捜査の報告を聞きながら、私は目的の記録を見つけ――得るものなしと判断して、ふう、と息をつく。


(これだ)


 確信した。その時には、鉄槌は眼前に迫っていた。


「根拠は存在します!!」


 紙一重。

 突き出した左手から障壁が生じ、鉄槌の一撃を阻む。


「あの地下室でかつて起こった事件です! あそこに潜んでいた異端者が、完全に包囲されていたにも拘らず煙のように消えた!!」


 エルシリアは右手の剣を引き絞り――鉄槌に突き刺した。

 一気に鉄槌が押し返され、同時に無数の亀裂が走る。


「もし抜け道があったとしたなら、その事件も容易に説明がつきます!! 同じ場所で二度も人間が消失したというこの事実!! 抜け道の存在を推測するには充分な根拠ですッ!!」


 イゾルデは信じられないものを見るような目でひび割れた鉄槌を見上げた。

 そして――


「馬鹿げてる……馬鹿げてる馬鹿げてる馬鹿げてるッ!! 馬鹿げてるんだよ、そんなこじつけ!! この私が支配した事件に、くだらない言いがかりをつけやがってぇえええぇええ……っ!!」

「だったら答えてもらいましょうか!!」


 剣を手放した右手で、エルシリアは力強く仇敵に指を突きつける。


「抜け道が存在しないと言うのなら、あなたは説明しなければなりません!! かつてあの地下室に潜んだ異端者が、一体如何なる方法で姿を消したのか!! 窓も、扉も! 完全に見張られて、隙間なく包囲された人間が! 抜け道以外のどんな方法で脱出したのか!!」


 密室がイゾルデを閉じ込めた。

 扉も窓も使えない。壁以外には何もない密室。ついさっきエルシリアが閉じ込められた密室に、今度はイゾルデが封じられる。


 イゾルデは周りを見回した。血走らせた目を忙しなく巡らせた。

 だが見つからない、見つからない――脱出口などどこにもない。

 当然だ。彼女は自ら言った――これを『最強の密室』だと。


 挑戦するその前に、彼女は負けを認めていた。


「…………ま……魔法、だ…………」


 滝のような汗を流しながら密室の中を走り回り、やがてイゾルデは掠れた声で言う。


「ま……魔法だよ……。こんなの魔法に決まってんじゃん! 大体、こういう完璧な密室が出てきた時は魔法のせいにしてもいいって決まって――」


 エルシリアは、憐れみを帯びた目で仇敵を見据えた。


「…………潜んでいた異端者は、男ですよ」


 イゾルデの表情が固まる。

 ……魔女には、女しかいない。


 エルシリアの頭上に巨大な鉄槌が現れた。

 竜すら叩き伏せるだろう巨大さ。エルシリアはそれを握るようにして両手を天に掲げ――振り下ろした。


 鉄槌が轟然と唸り、情け容赦なく密室を叩き潰す。

 今度こそ、逃げ道はなかった。


 自ら作り出した密室ごと――魔女は、叩き潰された。








 鉄槌も幻のように消え、まっさらになった浮遊する瓦礫。その中心で――


「――……まだ、だ……」


 イゾルデ・イングラシアが、ふらふらと、立ち上がる。

 その背には漆黒の光でできた悪魔の翼が未だ健在。血こそ流しているが五体満足で、何より瞳がまだ死んでいない。


「まだ、負けじゃない……。私は、お前の説を否定し切れなかっただけ……! お前が私のウェルナー犯人説を論破したわけじゃないんだよ……!! 犯人はウェルナーか、それともこの私か!! 判決はまだ下されちゃいないッ!!」


 完全に余裕をなくしたイゾルデの姿に、エルシリアは表情を引き締めて身構える。


「さあ、断罪の天使!!」


 イゾルデは中央異端審問所に向かって叫んだ。


「判決を下せ!! はッ、聞くまでもないか……! 屁理屈だらけのエルシリアの推理と、極めてシンプルでケチのつけようのない私の真実じゃ!! じゃあねエルシリア! お前は私が直々に処刑してやる!! お友達とお揃いで嬉しいだろオ!?」


 エルシリアの中で瞬時に炎が燃え上がる。しかし焦ることはない。ただ、心の中で言い返すだけだ――ほざいていられるのも今のうちだと。


 エルシリアは信じている。

 世の中、計算高く立ち回った人間が得をする。真実だってあやふやで、力を持った人間の一声で簡単に決まってしまう。


 それでも。

 こんな時くらいは、ウェルナーみたいに真面目で正直な人間が信じてもらえるのだと。


 二人は黙して判決を待った。常人の視力では、中央異端審問所の最上階にいると言う断罪の天使の姿は見えやしない。

 だが、エルシリアは一心に見つめて祈った。天使と呼ばれる存在にも、暖かな心があることを。


 やがて――先程までの議論が嘘のような静寂ののち。

 不意に、光が虚空に出現した。


「「!?」」


 その光は蛍のように夜空を舞い、虚空に光の文字を書き記していく。

 判決文。

 断罪の天使が直々に下す審判。

 少しの時間をかけて、それは次のような文章を書き上げた。




  双方の妥当性は同等と判断する。

  よって、両者ともに決闘代理人を立て、決闘裁判にて真偽を決するべし。




 ――決闘裁判。

 それは、双方の主張を懸けて殺し合い、勝者の主張を是とする古い裁判方式。


 その意味を、異端審問官たる二人は一瞬にして理解した。

 そして、自らが最も信頼する騎士を召喚する。




「ウェルナーさん―――ッ!!」

「ウェルナー・バンフィールドォおおおッ!!」




 声に応じ、一人の少年が空を翔けてエルシリアの前に降り立つ。守るように背を向けたウェルナーは、エルシリアを肩越しに一瞥して強く頷いた。


 そして、もうひとり。

 血だらけの少年が、ウェルナーの正面に降り立つ。


 もう一人のウェルナー・バンフィールド。彼は身体を大きく斬り裂かれ、足元にぽたぽたと血を滴らせながら、それでもイゾルデを守るように立ちふさがった。


 二人のウェルナーは視線を交わし、一歩、二歩と近付いた。

 直後、二人を閉じ込めるように炎が走る。次いでその内側に魔法陣が輝き、二人を乗せて上昇した。


 炎を壁に、魔法陣を床にした即席の決闘場。

 エルシリアは空へと離れていくウェルナーの背中を見つめ、両手を組んで祈った。




          ◆     ◆     ◆




「……生きてたんだな」


 ウェルナーは相対するもうひとりの自分の有り様を見て言った。


「おかげさまでな。ま、じきに死ぬんだろうが……その前にケリをつけようと思ってよ」

「それはもうついただろう。僕の勝ちだ」

「抜かせ。まだ一勝一敗だ」

「……なるほど」


 ウェルナーは口を歪めた。

 もうひとりも皮肉めいた笑みを浮かべた。


「見た所、てめえも人のことは言えねぇな」


 もうひとりがウェルナーを見て言う。


「度重なる戦いで満身創痍って感じだ。……こりゃお互い、耐えられるのは一合までってとこか」

「そうだな。それ以上は無理だ」

「そんじゃあ」

「一撃で」




「「――決着を、つけよう」」




 二人のウェルナーが同時に剣を抜き放ち、同じ構えを取る。


 ウェルナーが背負うのはエルシリアが生み出した虚構。

 もうひとりが背負うのはイゾルデが用意した真実。

 本物が虚構を背負い、偽物が真実を背負う――この構図の皮肉さに、二人は同時に気付き、笑った。


 そして、それが自然と消えた時。

 ウェルナー達は、同時に走り出し。

 気勢の声を重ならせ。

 剣を振り上げて――


 ――すれ違った。


 背を向け合った二人の姿勢は、剣を振り下ろした後のもの。

 宣言通り、一撃。

 それが、戦いのすべてだった。


「――ッが!」


 もうひとりが膝を突く。

 血を滴らせる傷を手で押さえ――しかし、それでも。

 彼は、倒れなかった。


「――――」


 ふらり、と。

 声もなく。

 ウェルナーが、倒れ伏す。

 まるで糸が切れた人形のように――力なく。


「……ふ」


 もうひとりが膝を突いたまま、振り返ってかすかに笑った。


 ――直後。

 そのまま――前のめりに倒れる。


 湧き出すように血だまりが広がっていく。

 彼は、静かに瞼を閉じていた。

 そして――


 ゆっくりと。

 ゆっくりと。


 ――ウェルナーが、力強く、立ち上がる。


 彼は、背後に倒れ伏すもうひとりに振り返ることなく。

 高々と剣を掲げ、自らの勝利を宣言した。




          ◆     ◆     ◆




 判決

  イゾルデ・イングラシアは殺人者也。

  様々な言動から計画性ありと見なし、この場にて一級撲殺刑に処す。




「そんなッ……そんなそんなそんなッ……!!」


 判決文を目の当たりにしたイゾルデが、怯えるように後ずさる。

 雌雄は決した。

 最後の仕事を果たすべく、エルシリアは一歩前に踏み出す。


「終わりです、イゾルデ・イングラシア」

「ま、待てっ……待て待て待てっ、待てってば……!!」

悪魔の使徒に聖なる鉄槌をマレウス・マレフィカルム―――」

「私は〈ルーラー〉なんだ……支配者なんだ!! こんなっ……こんな所でっ……!!」




「―――『撲殺一級・因果殴法いんがおうほう』!!」



 エルシリアの背に、イゾルデのそれより巨大な漆黒の翼が生えた。

 それが落とす夜闇より暗き影に、イゾルデが沈んでいく。


「待てエルシリアっ……待て、待てっ! 待てぇええぇええ――――っ!!」




          ◆     ◆     ◆




 気付いた時、イゾルデは闇の中にいた。

 上下左右前後、どこを見ても真っ暗闇。見えるのは自分自身と足元の床程度。


「どこだ、ここ……ひッ!?」


 すぐに気付いた。

 足元に、無数の人の顔が蠢いていることに。


 イゾルデは今、肩幅程度の小さな足場に立っているのだ。そしてそのすぐ下に、大量の人間が肥溜めのようにひしめいている。

 ひしめく有象無象どもは呻き声を上げながら手を伸ばし、イゾルデの足を掴もうとする。まるで彼女を自分達の場所まで引きずり下ろそうとするように。


「ふざけるなッ、ふざけるなッ……!! 誰がそんな所に降りるか!! お前達は私に支配されていればいいんだ!! 一生私の娯楽であり続けろっ!!」


 伸びてくる手を蹴り飛ばしていると、不意に頭上から光が射した。

 目を細めて見上げると、光の中を一本の糸が垂れてくる。糸の先には出口らしき穴が見えた。


「ははははっ!! やっぱり私はこいつらとは違う!! 生まれながらの支配者なんだ!!」


 足元の有象無象が羽虫のように群がってくる。イゾルデは彼らを躊躇なく蹴落として、糸を両手で掴んだ。糸を手繰り、上へ上へと着実によじ登っていく。


「はあっ……はあっ……!! エルシリアの奴め、クソ弟子が……! 鍛えてやった恩も忘れやがって……!! 戻ったらもう一度物事を教え直してやる……!!」


 怒りを糧に登り続け、出口がすぐそこまで近付いてきた。

 もう少しで手が届く。頂上に立てる。そうしたら下の奴らを見下ろして唾を吐きかけてやるのだ。こんな所に押し込まれている連中のことだ、すぐに唾さえ有難がるようになるだろう。


 愉快な未来を想像し、口の端から笑い声を漏らした時だった。

 すぐそこに迫った出口に、エルシリアが顔を出した。

 その手には、今イゾルデが登っている糸の先が握られている。

 糸を握った手を見せつけるように持ち上げて、エルシリアは告げた。


「あなたが傷付け貶めた人達全員に、地獄の底で詫びてください」


 エルシリアはぱっと糸を手放す。

 イゾルデが完全に支えを失う。


 浮遊感。続いて落下感。程なく衝撃と痛みが襲い、イゾルデは呻いた。


 痛みに閉じていた目を開けると。

 ついさっきまで足元にいた顔が、今度はこちらを見下ろしている。


「……やめろ……見下ろすな……」


 イゾルデは、最後の最後まで気付かなかった。

 それらの顔が、今まで彼女が『支配』してきた人間のものだったことに。


「見下ろすな……見下ろすなっ……!! 見下ろしていいのは私だけだ!! お前達が! 支配者である私を! 見下ろすなァあぁああああああああああああああ―――――――――っっっ!!」


 真っ黒な闇に、止め処ない殴打の音が響き続けた……。




          ◆     ◆     ◆




 ウェルナーは深く息をついて夜空を仰ぐ。

 イゾルデは倒された。見てみれば皇帝も無事だ。あとは夜明けを待ち、他の街から援軍を呼んで暴動を鎮圧するだけ。とは言えそれも相当の難事となるだろう。


 魔法陣の決闘場から降り、ウェルナーはエルシリアの前に立った。まだ魔力とやらが残留しているのか、足場の瓦礫は浮遊したままだ。

 ウェルナーはエルシリアの顔を見て言う。


「終わったね」


 はい――という答えを、ウェルナーは無意識に期待した。

 だから、エルシリアが首を左右に振ったことに、虚を突かれる。


「いえ――もう一つ」


 彼女は、微笑んだまま。

 決まり切っていることを読み上げるように、告げる。


「ここに一人――ケジメをつけなければならない人間が、残っています」


 ケジメを、つけなければならない人間?

 エルシリアの迷いのない表情を見て――ウェルナーは直感的に、それが誰なのか悟った。


「まっ――」


 制止する前に、エルシリアは背を向けた。

 夜闇に聳える中央異端審問所。

 その最上階、天使の間。

 そこにいる断罪の天使に――己が罪を明かす。




「今までの推理は、全部嘘です」




 彼女は、殺人を懺悔する。

 自分のため、目的のため、復讐のため――散々人を貶め、殺してきたことを懺悔する。

 己の罪に、然るべき罰を与えるために。


 中央異端審問所の頂点が、不意に輝きを発した。

 次に起こる光景を予期し、ウェルナーは手を伸ばす。

 しかし、世界はいやに鈍重で。

 エルシリアまでの距離が、永遠のように思えた。


(――言ったじゃないか、休みは当分ないって)


 今日交わしたばかりの会話が、脳裏に蘇る。


(いきなり僕を休ませるつもりか! 僕はまだ全然、尽くし足りてないんだよ!!)


 不意に、長く黒い髪が翻った。

 夜闇の中に軌跡を引き。

 白い顔が振り向いて――彼女は、淡く微笑みかける。




「この期に及んで私の言葉を信じるなんて……本当に、お人好しな人ですね」




 直後、エルシリアの胸を光の矢が貫いた。

 血飛沫が闇に舞い、ウェルナーの顔を赤く染める。

 伸ばされたウェルナーの手は、最後まで届くことはなく。


 彼女は、力なく崖の下に姿を消し――遥か下の地面に、叩きつけられた。


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