第四幕 暗闇からの反撃


「酷い有り様だな、オマエ達……まあ、息があるだけマシか」


 ルドヴィカはウェルナー達を見るなりそんなことを言った。


「その通りだけどさ、もう少し再会を喜んでくれよ。……というかルドヴィカ! 今までどこで何をやってたんだよ! 僕もエルシリアも心配したんだぞ!」

「ほう? リアも?」


 ルドヴィカは人の悪い笑みを浮かべてエルシリアを見た。エルシリアは無言で目を逸らす。


「まあ何をやっていたかと言えば、少しばかり暗闘をな……。詳しいことは帰ってから話そう」

「帰る……って、どこに? 今、帝都はどこも彼処も……」

「避難所だよ。今、わたし達はそこを基地にしている」


 基地。

 その言葉に、ウェルナーの表情は自然と引き締まった。


「やられてばかりでいられるか。今回の魔女狩りには、オマエ達の力も必要だ」








 そこは地底湖を擁する広大な洞窟だった。天幕が幾つも張られ、水辺には逃げてきたらしい人々が身を寄せ合っている。甲冑を纏った騎士の姿も多く見られた。


「こんな所があったのか……」

「帝都が戦場になった時を想定した拠点だ」


 兄ヴィクトルが説明した。


「最近では使う機会もなく、存在自体ほとんど忘れられてしまっているがな」


 怪我の手当てもそこそこに、避難民達の間を歩いていると、向こうから真ん丸とした巨体がドスドスと突進してきた。


「ウェルナー! 無事だったのかーっ!!」


 怪奇トマト男ことジークだった。ウェルナーは暴走したイノシシみたいに突っ込んでくる親友の顔を右手で掴んで受け止める。


「そっちこそ無事で良かった。でも怪我人にはそれなりの配慮を頼む」

「つれないなあ。せっかく注文通りルドヴィカちゃんを見つけてあげたってのに」

「え? そうなのか?」


 ルドヴィカを見る。彼女はわしゃわしゃと頭を掻いて、


「まあな。わたしがこうして騎士団と合流できたのはそいつが接触してきたおかげだ」

「そうだったのか……。ありがとう、ジーク」

「なあに、いいってことさ。それより――」


 ジークはウェルナーの顔を見て、それから隣のエルシリアを見た。


「――うん。いい関係に落ち着いたみたいだね」

「い、いい関係だなんて……」


 エルシリアが顔を赤らめたのには首を傾げたし、なぜかルドヴィカの視線がぐさぐさ刺さってくるが、人間関係に関してはプロであるジークのお墨付きをもらえたのはいいことだ。


 ジークがヴィクトルに命令されて避難民のケアに戻っていくと、ウェルナー達は奥まった場所に位置取った大きめの天幕に通された。ルドヴィカとヴィクトルも一緒に入ってくる。

 天幕の中には帝都の地図を広げたテーブルがあった。ここが作戦本部のようだ。


「時間がない。いきなりで悪いが、作戦会議を始めよう」


 ルドヴィカは地図を広げたテーブルに歩み寄る。ウェルナーとエルシリアもテーブルの傍に立った。ヴィクトルは少し離れた場所に立つ。


「軽く状況説明から入ろうか。この避難所には今、帝都内にいた騎士団が集まっている。避難所であると同時に、イゾルデ・イングラシア――第七魔女〈ルーラー〉に対抗するレジスタンス基地でもあるわけだ。わたしのポジションは、その参謀といったところだな」

「わかってるんだな。イゾルデ・イングラシアが魔女だって……」

「ああ。わたしはしばらく前から〈ルーラー〉について調べを進めていた。その結果イゾルデに目を付けられ、身を隠すしかなくなったわけだが、ヤツが直接接触してきたおかげで、魔法第七章〈ルーラー〉についてはおおよその所が掴めた。まずはそれを説明しよう」


 ルドヴィカは白衣のポケットに手を入れた。


「〈ルーラー〉は、オマエ達も知っての通り人間を複製する魔法だ。だが、複製には必要なものがある」


 ルドヴィカはポケットから折り畳まれた紙を取り出す。そして広げ、ウェルナー達に見せた。

 それは、ルドヴィカの姿を描いた肖像画だった。


「この絵はわたしの家にあったものだ。イゾルデの手の連中はこれを狙って襲ってきた……。人間を複製するには、『対象の人物を視界に入れた上で描かれた肖像画』が必要なんだ」

「そういえば」


 ウェルナーは不意に思い出した。


「少し前、街で絵のモデルになってほしいって頼まれたことが……」

「……私も」


 エルシリアがぽつりと言う。


「思い出しました……。法廷画の練習だと言って、イゾルデに絵を描かれたことがあります」


 その表情が少しつらそうに見えたので、ウェルナーは自然とその肩を支えた。エルシリアも特に何も言うことなく、そっと身を寄せてくる。


「…………」


 というような一幕を、ルドヴィカがとても気持ち悪そうに凝視していた。


「……ウェルナー」

「ん? 何?」

「確かに『リアを頼む』と言ったがな……ちょっと予想を超えているぞ」

「え……? いや、ごめん。ちょっと意味がわからない」


 何の予想を、何が超えているのだろう。

 エルシリアがくすりと笑いを漏らし、なぜかよりいっそう身体を密着させてきた。


「意味がわからなくていいんです、ウェルナーさん。くだらない嫉妬ですから」

「やっかましい! 根拠なくいい加減なことを言うな! 大体なんだオマエそのだらっしのないメス顔は!! 男慣れしてないヤツがうっかり嵌まっちゃった感丸出し!!」

「うっ……うるさいです! あんただって似たようなもんでしょう!?」

「違うね!! わたしはオマエみたいな掌返しはしてない!! オマエの手首は一体どうなってるんだ!! こないだまで口を開いては嫌味を言っていたような相手にデレッデレデレッデレ……」

「でっ、デレデレなんてしてませんよ!!」

「眼差しも声色も仕草も何もかも様変わりしてるんだよたわけ!!」

(毎度毎度よくやるなあ)


 またいつものが始まったと思って会話内容は聞き流したウェルナーだった。

 当のウェルナーが目の前にいることにようやく気付いたのか、ルドヴィカとエルシリアはさっと頬を染め、ごほんごほんとわざとらしい咳払いをする。


「話を元に戻すが……」


 エルシリアがウェルナーから離れたのを見て、ルドヴィカは口を開く。


「魔法で人間を複製するのに必要な肖像画は、単なる複製ならただの似顔絵でもいい。だが、人格面に細工をする場合は、絵に暗示を仕込む必要がある」

「暗示?」

「ああ。このわたしの肖像画にも、人格を改造するために上から描き加えられた部分が幾つもある。……リア。話に聞いたが、裁判でイゾルデの肖像画を使ったそうだな。今あるか?」

「ありますけど」


 エルシリアは黒衣の中から肖像画を取り出した。裁判で暴動が起こってからそのまま今に至っているので、証拠の類はすべて持っているはずだ。

 ルドヴィカは渡されたイゾルデの肖像画をテーブルに広げる。


「素人が見ただけではわからない暗示も大量にありそうだが……わかりやすいのはこれだ」

「これ、って……銅像?」


 ルドヴィカが指差したのは、椅子に座ったイゾルデの背後のテーブルに置いてある掌サイズの銅像だった。エルシリアが特に証拠として重要視したものだ。


「形を見る限り、慈悲を司る天使の像だな。それに売り物であることを示すタグが付いている――つまり、『慈悲』は金で買える程度の価値しかない。これはそういう意味を持つ暗示となり、できあがる複製人間から慈悲の心を奪う」

「なるほど……そういうことか」


 いわば仕様書だ。複製人間の仕様を、肖像画の中で表現しなければならないのだ。


「ということは、この銅像は実際には存在しなかったんですか? 勝手に描き加えただけで」

「どうだろうな。実際にあったほうが効果は高くなるようだが、存在しなかった可能性もある。この肖像画には、他にも暗示が大量に仕込まれているようだからな」


 イゾルデの肖像画に、人格改造のための暗示が仕込まれている。ということは――


「イゾルデが、自分自身の改造版を生み出したってことだよな……」


 ウェルナーの呟きにルドヴィカが頷き、イゾルデの肖像画を俯瞰した。


「かなり複雑な改造だが……どうやら、より非情に、より純粋に、より支配欲が強くなるように自分を改造したらしい。今回の計画を十全に進めるために必要な措置だったのだろう。結果、オリジナルはいらなくなって処分した……」


 矢に喉を貫かれて倒れるイゾルデの姿が脳裏に蘇る。あの時死んだほうが本物。しかし、より残酷な人格を得たイゾルデが、まだどこかで生きている……。


「……問題は、この魔法をどう対策するか、ですね」


 わずか漂った沈黙をエルシリアが破った。


「肖像画一枚で何人複製できるんですか? それによって話は変わってきます」

「その辺りにはかなり厳密なルールがありそうだ。わたしの推測になってしまうが――一枚の肖像画につき作れる複製は一人。そしてオリジナル・複製を含めた『同一人物』は最大で二人までしか存在できない。

 つまり、この肖像画はすでに『使用済み』で、もう複製を生み出すことはできないが、オリジナルが処分された今、イゾルデは鏡を見て自分の似顔絵を描くだけで新たな複製を作ることができる。改造が入った複製人間を単純に複製すれば、改造部分も引き継がれるはずだからな」


 一人倒しても、もう一人が生きている。もう一人を倒す前に複製を作られたら、さらにもう一人を相手しなければならない――イタチごっこだ。


「とすると、殺さずに捕まえたほうが良さそうだな……」

「ああ。その辺りについては、後でまた騎士団の連中も加えて作戦を立てる」

「ルカ、そろそろ教えてください」


 強い輝きを秘めた眼差しを向け、エルシリアは言った。


「あなたには、もうわかっているんでしょう? ――イゾルデの目的は、なんなんですか?」


 ルドヴィカは、テーブルに広げた肖像画と、帝都の地図に視線を落とす。


「……今までは推測でしかなかったが、この肖像画を――イゾルデ・イングラシアが自らに施した改造を見て、確信を得た。間違いない。第七魔女〈ルーラー〉の目的は――」


 ルドヴィカの白く細い指が、地図の中心を指差す。

 円状に広がる湖に、五角形を描くように浮かぶ島――その内の一つに建つ、それ。

 ユニケロス城。

 この国の最高権力者の居城を指して、ルドヴィカは告げた。


「――皇帝を複製にすり替え、この国を乗っ取ることだ」








「帝城のほうでも抵抗はあるだろうが、この混乱した状況で食い止められるとはとても思えん。イゾルデのほうにも複製人間で作り上げた戦力があるはずだからな。

 暴動が異常なスピードで広がったことから考えて、帝都の人口の一〇分の一くらいは複製だったのだろう。その割合を騎士団に当てはめれば、向こうの戦力は数百人――下手すれば千を超える。

 内部からの離反があることも思えば、帝城の陥落は避けられない――どころか、もう落ちている頃だろう」


 深刻な状況に息を呑む二人に、「しかし」とルドヴィカは言った。


「帝城を落としても、イゾルデは皇帝を複製するための肖像画を描かなければならない。これから末永く付き合っていくことになる大事なお人形だからな――わたしの時のように、すでにある肖像画を上から描き変えるだけ、などという横着はすまい。丁寧に丹念に、自らの手で描き上げるはずだ。

 それには相応の時間がかかる。ヤツが絵を描き終える前に皇帝を奪還し、夜明けまで逃げ切ればわたし達の勝ちだ。この街の異常が外部に漏れ、ヤツの計画はご破算になる。聖地アルカトスから援軍がやってきて、暴動も鎮圧されるだろう」


 そうか、とウェルナーは頷いた。今は街が封鎖されているせいでこの状況は外には漏れていない。だが朝になれば他の街から人がやってくる。そうなればこれほどの異常事態を隠し通すことはできない。イゾルデは夜のうちにすべてを終わらせる気なのだ。


「反抗作戦の決行は深夜になる。ともあれオマエ達は少し休め。オマエ達二人ほど今日という日を戦ったヤツは、他にいないのだからな」








 通された天幕の中に着替えがあった。血や土、埃で汚れていたウェルナーはそれに着替え、じっとしていることもできず再び天幕を出る。

 左腕の怪我は、手当てを受けたこともあって少し回復していた。今はまだあまり動かせないが、もう少し休めば使える程度にはなるだろう。聖騎士の回復力さまさまである。


 地底湖沿いを歩いていると、ルドヴィカの姿を見つけた。靴と靴下を脱ぎ、湖岸に腰かけて足を水に浸している。

 ウェルナーは後ろから近付いて声をかけた。


「やあ」


 ルドヴィカはこちらを振り返り、特に何も言わず視線を前に戻す。彼女が挨拶をしないのはいつものことだ。ウェルナーは勝手に彼女の隣に腰を落ちつけた。

 しばらくの間、地底湖の静かな水面を見守る。


「……なんか、こうして君と一緒にいるの、やけに久しぶりな気がするな」


 視線をそのままに、ウェルナーは言った。


「最近の君って何か隠し事してたし、会えたと思ったらすぐどっか行っちゃうしさ」

「ふん。寂しかったのか? 女々しいヤツめ。また抱き締めてやろうか」

「遠慮しとくよ。そのまま寝ちゃいそうだ」


 ふん、とルドヴィカはまた鼻を鳴らす。

 彼女と話しているとなぜか落ち着いてくる。実家にいる時より落ち着くくらいだ。ルドヴィカが落ち着きのない人間だから、自然とこちらが落ち着いてしまうのだろうか。


「……本当は、ずっとオマエに会いたかったんだ」

「え?」


 耳に飛び込んできた言葉が信じられなくて、思わず訊き返した。

 ルドヴィカは「あっ」と気付いて、


「いや、そういう意味じゃなくてだな! ……イゾルデの企みのことを、オマエ達に伝えたかったんだ。ところが、イゾルデの手の者がオマエ達を徹底的にブロックしていてな……ようやく接触に至ったのが、オマエの部屋に行った時のことだ」

「そうなのか? だったらなんであの時――」

「……たわけ」


 拗ねたような声を零し、ルドヴィカはそっぽを向いた。


「あんなに弱った顔をしたヤツに、こんなこと、話せるわけないだろうが」


 ぶっきらぼうな言葉が、胸の中にじわりと広がっていく。

 その意味を正しく理解すると同時、ウェルナーの行動は決定した。


「……ルドヴィカ」


 名前を呼んで、彼女が振り返る前に、その小さな身体を抱き締める。

 腕の中で、ルドヴィカが驚いたように身動ぎした。


「ぶぁっ!? オマエ何をっ――」

「ありがとう」


 心という心を込めて、その言葉を囁きかける。


「ありがとう。……それと、ごめん」


 ルドヴィカは大人しくなり、ウェルナーの胸に顔をうずめたまま呟く。


「……何のごめんだ、それは」

「次は、遠慮してくれなくていい」


 迷いのない声で、ウェルナーは言う。


「たとえどんな状態でも、僕は君を助けに行く」


 ふん、とルドヴィカは不満げに鼻を鳴らした。


「どうせリアにも同じようなことを言ったんだろう?」

「うっ……!」


 痛い所を突かれた。


「今更隠せると思うな。オマエは結局、誰にでも優しいヤツなんだ。わたしもリアも、オマエの分け隔てのない博愛を受けた大勢の一人に過ぎな――」

「それは違う」


 身を離し、ルドヴィカの顔をまっすぐに見て言った。


「君達は――特別だ」


 サファイア色の瞳に、ウェルナーの真剣な顔が映っている。ルドヴィカの長い睫毛は一度として伏せられることなく、その澄んだ双眸がウェルナーの目を見つめ続けて、


「そんなこと言っても信用まったくないぞ」

「ええっ!?」


 信じてもらえていなかった。


「まったく……二股男の典型みたいな台詞を吐きおってからに。それで騙せるのはリアだけだ」

「い、いや! 言われてみると確かにそんな感じだけど! そんなつもりは全然なくて……!」

「――まあ」


 ぽすん、と。

 ルドヴィカが、唐突に身体を預けてくる。


「顔つきが良くなったことだけは、認めてやろう。……男を上げたな、ウェルナー」

「君に男がどうとかわかるのかよ……」

「わかるとも。何せ――」


 瞬間、ルドヴィカが間近から睨み上げ、ウェルナーの首に手を添えた。


「――オマエの唇に、リアが付けているのと同じ保湿用の蜂蜜が見えるからなあ!!」

「うぐっ!?」

「アイツとキスしただろうオマエ! このわたしの目を逃れられると思うなよ!!」

「うごごごごご!!」


 容赦なく首を締め上げるルドヴィカ。たまらずタップするウェルナー。

 これも親愛と信頼の証――と思いたかったが、できればもう少し穏便に示してほしかった。








 どうにかルドヴィカに解放してもらったウェルナーは、エルシリアのいる天幕へ向かった。彼女もかなり疲れているはずなので、様子を見ておきたかったのだ。

 天幕を前にして、ウェルナーはいったん立ち止まる。唇を指で撫でると、ルドヴィカが言った通り蜂蜜が付いていた。

 あのキスは色々強烈すぎて当時の記憶がほとんどない有り様だったのだが、ルドヴィカに指摘されたせいで少し思い出してしまった。


(……普通でいいんだ、普通で)


 意識して呼吸することで変な緊張をほぐし、天幕の中に声をかける。


「エルシリア、いる? 入ってもいいか?」

「……え? あ、ウェルナーさん!? ちょ、ちょっと待ってくださ――あ」


 どたばたと音がしたと思ったら不意に静寂が訪れ、


「ど……どうぞ……」


 とてもか細い声が返ってきた。


(は、入りにくい……)


 何だか知らないが入ってはいけない雰囲気な気がする。だが、『どうぞ』と言ってもらった以上は出直すわけにもいかず……。

 ウェルナーは「入るよ」ともう一度言って、天幕の中に踏み入った。

 エルシリアはなぜか背を向けていた。そのことを不思議に思い、続いてその姿に気付く。


(黒衣じゃない……初めて見るな)


 異端審問官の制服である黒衣を、今、彼女は身に纏っていなかった。シスターのような薄手のワンピース姿だ。あれがいつも黒衣の下に着ている肌着なのだろうか。

 それから、ウェルナーはエルシリアの長い黒髪が濡れているのに気付いた。


「あ、水浴びしてたのか」

「は、はい……。色々と汚れてたので……」


 背中を向けたままエルシリアは答えた。


「……えっと。なんでこっち見ないんだ?」

「あ、あの、その……」


 エルシリアはやたらともじもじして、


「メイクを、してないので……」


 メイク?


「化粧なんてしてたのか? 気付かなかった……」

「あからさまにすると受けが悪いので……目立たない程度に……」

「そっか。悪い、じゃあ出直すよ」

「いえ、大丈夫です! 大丈夫ですから!」


 必死に止められ、ウェルナーは首を傾げざるを得ない。


「化粧をしてないから見られたくないんじゃないのか? だったら終わってからにするよ」

「そうなんですけど……そうなんですけど……!」


 痛恨の声で、エルシリアは言った。


「……化粧品を、持ってきてません……」

「……あー……」


 当然ながら、化粧品を持って暴動中の街を逃げ回ったりはしない。


「それを忘れて、化粧を落としちゃったのか……」


 エルシリアは無言でこくりと頷いた。彼女らしくない痛恨のミスである。


「じゃあもう仕方ないよ。元々目立たない程度だったんだろう? ここは開き直って……」

「わ、わかってるんです……! わかってるんですけど、ちょっとだけ待って……」


 さっきから思っていたが、どうもいつもの彼女と印象が違う。弱々しいというか、庇護欲をそそるというか……。

 エルシリアはすうはあと深呼吸を繰り返す。すっぴんで人前に出るというのはそんなに大事なのだろうか。エルシリアはまだ若いのだから、化粧自体しなくていいくらいだと思うのだが。


「……笑わないでくださいよ?」

「笑わないよ」


 答えながら思った。念を押すのは逆効果ではなかろうか。

 覚悟を決めたのか、エルシリアはゆっくりとこちらに振り返る。前髪で目元を隠すようにして、小動物めいた瞳が上目遣いでこちらを見つめており――

 ウェルナーは思った。


「だ――誰?」

「ほらぁーっ! やっぱりそういう反応じゃないですかぁーっ!!」


 ほらと言われても笑ってはいない。断じて笑ってはいないのだが――誰?

 いや、パーツを見ればエルシリアだとわかる。だが、それにしても――


「印象が全然違うな……。化粧ってすごい……」


 そして怖い。

 普段のエルシリアはツリ目気味でキツい印象を受けるのだが、今の彼女はまるで逆だ。ツリ目気味ではなくなり、むしろ優しげな印象がある。


「ううっ……せっかく舐められないように誤魔化してたのに……」


 くしくしと前髪をこすって目元を隠そうとしながら、エルシリアは半泣きでぼそぼそ呟く。


「印象どころか性格まで変わってる気がするんだけど……」

「メイクをすると、気合いが入るというか……」

「な、なるほど」


 ルドヴィカなどから、昔のエルシリアは気弱で引っ込み思案な女の子だったと聞いていたが、正直ウェルナーは『いやいやご冗談を』と思っていた。今のエルシリアからはとても想像できなかったのだ。

 だが、こうして素顔を見てみてようやく納得する。伝え聞いた気弱な女の子も紛れもなく目の前の少女で、彼女はただ、何重にも纏った仮面と鎧で武装していただけなのだと。


「あ、あんまり見ないでください……恥ずかしいです……」


 放っておくとどんどん俯いていく少女に、ウェルナーは笑いかけた。


「大丈夫だよ。そのままでも、君は大丈夫」


 ちらりと、前髪の隙間から瞳が覗いた。


「ほ……本当ですか?」

「ああ。僕が保証する。そのままでも君は充分魅力的だ。ルドヴィカに負けないくらい」

「嘘ですよ、それは」

「嘘じゃないって」

「嘘です。騙されません」

「じゃあ騙されたと思って」

「……もう。頑固な人ですね」


 それじゃあ、と言って、エルシリアは両手の指を合わせ、口元を隠すように持ち上げる。

 そして、ようやく上がった顔は、花のように色づいていた。


「――少しだけ、騙されてあげます」


 囁くようにそう言って、彼女はかすかにかすかに微笑む。

 直後、ウェルナーは頭上を仰ぎ、長く溜め息をついた。


「え……あれ? 何かおかしなこと言いました?」


 頬を掴むようにして表情を隠し、ウェルナーは慌てるエルシリアに目を戻した。


「君……今の、演技なんだよな? そうなんだよな?」

「ええと……何を仰られているのかわかりませんが」


 ウェルナーはルドヴィカと出会った時に彼女に下された評価を思い出す。

 実戦経験はあるが喧嘩はしたことはなく、言われたことをやるのは得意だが自分で考えるのは不得意で――そして、色恋に興味はなし。


(自分でもそう思ってたけどさ……例外だろう、今のは……)


 色恋に興味があろうがなかろうが、今の笑顔は誰だって動悸が跳ねる。およそ一般的な男性とは言えないウェルナーまでもがそう思うのだから間違いない。


(そう、これは普通の反応なんだ。僕は悪くない!)


 よくわからない言い訳をして、ウェルナーは深めに息をして落ち着いた。

 エルシリアはその様子を不思議そうに見ていたが、ふと何かを思い出したような顔になった。


「あの……ちょうどいい機会なので、ちゃんと聞いておきたいんですが」

「うん? なに?」

「『あれ』は……本気にしてもいいんですか?」


 彼女は右手の甲をさするようにしながら、不安げな声で言った。

 ウェルナーはすぐに合点する。


「当然だ。冗談で忠義の礼なんかやらないよ。おかげさまで僕は今、君の言うことなら大概何でも聞かなきゃいけない身だ」

「……でも、例えば私がルカを殺してくださいって言っても、聞いてはくれませんよね?」

「そうだね。……僕もはっきりわかってるわけじゃないんだけどさ、盲従と忠誠は違うんだよ。僕は最大限、君の意思を尊重する。でも君のためにならないと思えば、その間違いを正そうとするだろう。もちろん僕がいつでも正しいってわけじゃないし、もし君が飽くまでも自分が正しいと主張したら……まあ、その時は喧嘩だ。遠慮なく怒鳴り合おう」


 おどけるように苦笑すると、エルシリアはくすくすと笑った。


「それって、普通じゃありませんか?」

「最近思うんだよ。『普通』って侮れないなって」

「そうですよね。……その通りです」


 エルシリアはこくりと頷いて、ウェルナーの顔を見つめ直した。


「それじゃあ、ちゃんと忠誠を尽くしてくださいね、私の騎士様。休みは当分ないですから」

「任せてくれ、お姫様。でも休みはちゃんと欲しい」


 ふざけるように言い合って、二人は囁くように笑い合った。




          ◆     ◆     ◆




 ウェルナー・バンフィールドの複製体は主のもとへと戻ってきた。

 今の主――イゾルデ・イングラシアは、キャンバスを立てかけたイーゼルの前に座り、筆を執っている。

 正面には椅子に縛りつけられた一人の男――神聖インぺリア帝国現皇帝、ドラーゴ九世の姿があった。彼は暴れ出すでもなく、ただ目を見開いてふるふると震えている。万人の上に立つ皇帝も、こうなっては哀れな中年に過ぎない。


「おや……おかえり、ウェルナー君」


 一瞥もくれることなく、イゾルデはそう言った。


「その様子だと失敗したみたいだねえ。いや、結構結構。大した支障はないよ」

「そうは言われても汗顔の至りだよ。言われたこともこなせねぇんじゃ存在価値がねぇ」

「事には大と小がある。大事のほうさえこなしてくれれば価値は充分だ」


 会話の間も筆の運びに迷いはない。素人目にもかなりの速筆に思えるが、キャンバスに描かれた絵はまだ下書きの段階だ。

 人格を弄繰り回し、傀儡の複製を作るには、魔法を媒介する肖像画にも相応の情報量が求められる。全身が入っていることの他に、色や陰影も描き込まなければならないのだ。完成にはもうしばらくかかるだろう。


「見ての通り、私は手が離せない。だけど、騎士団の連中が大挙して攻め寄せてくることは間違いない。向こうにはしばらく前から私のこと嗅ぎ回っていたルドヴィカ・ルカントーニがいるからね。〈ルーラー〉についてもあらかた割れているだろう」

「ああ。だが、こっちにも手駒は幾らでもいる」

「長い時間をかけて準備してきたからねえ。そうそう負けはしないよ。でも、万が一ということはある――そこで、君には最後の砦になってもらいたい」


 偽ウェルナーに視線だけを送り、イゾルデはにやりと笑った。


「引き受けてくれるかな?」


 一も二もない。

 偽ウェルナーは、その場で片膝を突いた。


「愚問だぜ、マイロード。オレはあんたに忠誠を誓った。忠誠を誓うってことは、オレの正義や信念といったものを、あんたに委ねるってことだ」


 迷いなく頭を垂れて、偽ウェルナーは――ウェルナー・バンフィールドは告げる。


「――仰せのままに。あんたを助けられるなら、オレはそれで満足だ」


 イゾルデは満足げに笑った。


「愛してるよ、ウェルナー君」


 植えつけられた想いでも、芽吹いた以上は本物だ。

 たとえ世界に謗られようと、ウェルナー・バンフィールドは屈しない。




          ◆     ◆     ◆




「ぶわっははははははははははっ!!」


 エルシリアの顔を見るなり、ルドヴィカが一人で爆笑した。


「おっ、おまっ……その顔! 性格が変わると顔つきも違って見えるものだと思っていたら……ぶふっ! 化粧で誤魔化していたのか! ぶっははははは!! な、涙ぐましすぎるっ!」

「なんなんですかもう! メイクがそんなに悪いんですか!?」

「だってオマエ……あんな偉そうにしてて……実は弱々しく見えるのを気にしてたとか……ギャップが! くっくくく! オマエはわたしを笑い殺す気か!」

「ウェルナーさぁ~ん。ルカが虐めますぅ~」

「おー、よしよし。ダメだよルドヴィカ、虐めたりしたら」

「誰が虐めっ子だ! ……ってオイ! 見たか今の! その女、舌を出したぞ!」


 父親にでもなった気分だった。この少女達は二人揃うと精神が子供に戻るのかもしれない。

 ごほん、と重々しい咳払いが聞こえた。


「そろそろ始めるぞ」


 ヴィクトルが厳格な調子で言う。

 地図を広げたテーブルの周囲にはすでに騎士団の将校や上級異端審問官の面々が揃っていた。「すみません」とウェルナーが頭を下げ、ルドヴィカとエルシリアが少し赤い顔でそそくさと席に着く。恥ずかしいなら最初からやらなければいいのに。


「では、作戦会議を始める」


 ヴィクトルが音頭を取り、対イゾルデ戦へ向けた会議が始まった。


「作戦目標は第七魔女イゾルデ・イングラシアに捕縛されていると思われる皇帝陛下の奪還。偵察の結果、予想通りユニケロス城での戦闘行為が確認された。戦闘はすぐに終結し、現在帝城は魔女イゾルデとその魔法によって生み出された軍事勢力に占拠された状態にある。我々はここに攻撃を仕掛け、帝城の深くまで侵入し目標を達成せねばならない」

「彼我の戦力差は?」

「推測だが、敵軍はおよそ四百。中には聖騎士も幾人かはいるだろうと思われる。対し、友軍はおよそ六百。聖騎士は四人だ」


 騎士団本部がある帝都ユニケロスだが、常に詰めている騎士や従士は決して多くない。新大陸の中心にあり、周囲には魔獣も少なく、帝国で最も安全な街だからだ。

 しかし、とウェルナーは思う。


「……兄上。意外と敵の数が少ないですね」

「ああ。俺ももっと数がいるものと思っていた」

「相手は魔女だ。見かけに騙されるな」


 ルドヴィカが声を上げた。


「存在できる複製人間は最大でも二人だが、元となる絵はその限りではない。見かけ上は四百人でも、ソイツら全員の似顔絵をあらかじめ用意されていたら、その分は魔法で幾らでも補充できる。倒しても倒しても同じ顔の敵がわらわら湧いてくる地獄の幕開けだ」


 天幕の中に緊迫感が漲る。どんな戦いを潜り抜けてきた騎士でも、魔女を敵に回したことだけはないのだ。未知という名の脅威が、戦いが始まる前から牙を剥いている。


「――とは言え、付け入る隙はある」


 緊迫感をいなすように、続けてルドヴィカが言った。


「〈ルーラー〉の性質上、一度に運用できる兵の数が限られていることだ。実質的には無限でも、その無限の兵力を一度に扱うことはできない」

「補充要員が無限でも、戦場に出せる兵の数は有限――そういうことか。であれば、戦場を複数展開することで、補充を許さず突破することも可能かもしれん」


 ルドヴィカは頷いて、さらに言葉を続ける。


「問題はむしろ帝城に侵入してからだ。法廷で死んで見せたことからわかる通り、イゾルデは自分自身を複製することもできる。一人を倒してももう一人がすぐに補充できるんだ。オリジナルと複製体、両方を同時に、かつ生かして捕える必要がある」

「……厄介だな。帝城の内部は複雑だ。逃げ回られているうちに城外の隊が敗れ、戻ってきた敵兵に追い詰められる可能性がある」

「その他にも、〈ルーラー〉に何か未知の力が眠っているかもしれない。我々が知り得たことが真実のすべてだと思うのはやめるべきだ。こと魔法に関しては『絶対』は有り得ないからな」

「とすると」


 ヴィクトルは言った。


「ルカントーニ卿にはついてきていただくべきか」

「当然、ついていくつもりだ。騎士の諸君には苦労をかけることになると思うが」


 ウェルナーも渋々ながら納得せざるを得ない。もちろん本音では安全な場所にいてほしいのだが、敵の魔法が未知の力を発揮した時、それを分析できるのはルドヴィカだけなのだ。

 何があっても守り通そう。彼女を守ることはウェルナーの当然の責務であり、そして、この戦いを勝利へ導く重要な任務でもある――内心でそう決意した時だった。


「私も連れていってください」


 突然、エルシリアがそう発言した。

 ウェルナーは驚いて、彼女の両肩を掴む。


「危険だ! 君はここにいるんだ!」

「どうしてそんなことを言うのか、とは、訊かないんですね」


 からかうようなエルシリアの言葉に、ウェルナーは押し黙った。

 そんなものはわかり切っている。彼女はまだ、解放されたわけではないのだから。

 だが。


「大丈夫ですよ」


 彼女のダークブラウンの瞳には、かつての濁ったような炎はなく。


「どんなに危なくても、あなたが、ちゃんと守ってくれますから」


 決意と闘志がない交ぜになった、純粋な光があった。


「これは、私がケリをつけなきゃいけないことなんです。お願いします――連れていってください」


 エルシリアは、真摯に、誠実に、頭を深く深く下げる。

 復讐心も、きっとまだ、彼女の中には存在する。幾年にも渡って育て上げ、魂に刻みつけてきたそれが、そう簡単に消えるはずもない。

 

 だが、それ以上に、彼女は決意している。

 この事態を引き起こした者の一人として、その責任と戦うことを。

 過去からの因縁に、確然たる引導を渡すことを。


 あまりに尊いその姿に、ウェルナーは眩しさすら覚えた。何を言うこともできず、彼女の姿を見守った。

 しばらくの間、圧倒されたような沈黙があり――やがて、ヴィクトルが口を開く。


「……決意は買おう。しかしウェルナーの言う通り危険だ。護衛の手間から言っても――」

「いいや、連れていけ。リアも必要だ」


 傾きかけた空気に口を挟んだのは、ルドヴィカだった。

 エルシリアが顔を上げ、他の面々の視線も彼女に集中する。しかしルドヴィカは平然と、


「理由は話せんし、場合にもよるが――いざとなった時、ソイツが絶対に必要になる。だから連れていけ。この国を魔女の手に落としたくなければな」




          ◆     ◆     ◆




 その後、細かい作戦内容を詰め、会議は解散となった。


「……どうしてですか?」


 去っていこうとするルドヴィカを、エルシリアは呼び止める。

 ルドヴィカの鶴の一声で、エルシリアも作戦に参加することになった。それには感謝するが、なぜ彼女が自分を必要だと言ったのか、理由がわからない。まさか本当に決意を買ってくれたわけでもないだろう。遊びや訓練ではないのだ。

 ルドヴィカは白い髪を揺らして振り返り、


「さっき言った通りだよ。オマエの力が必要になる。言葉通りだ」

「だから、それがよくわからないんです。自分で言うのもなんですが、私の力なんて――」

「〈ルーラー〉の力は本当に未知数だ」


 ルドヴィカは真剣な表情で言う。


「もしかすると、イゾルデを倒すのに『最終手段』を使うことになるかもしれない。その時に必要なのは、わたしではなくオマエの力なんだ」


 最終手段。

 その言葉の意味に思い至り、戦慄が全身を駆け抜けた。


「……本気ですか? 本気で、『十一番目』を利用すると……?」


 タブー中のタブー。全国民による言葉なき口裏合わせで隠匿された堂々たる秘密。隠語を口にするだけでも周囲を警戒しなければならない、帝国最凶の闇。

 それが『十一番目』――分別のない子供でさえ、その正体には触れようとしない。


「もしかすると、だ。使わなくて済むならそっちのほうがいい。……だが、何事にも万が一はある。たとえ取り越し苦労に終わっても、準備だけはしておくべきだろう?」


 それほどの覚悟なのだ。ルドヴィカもまた、親友の仇の打倒に向けて、全身全霊を使い尽くそうとしている。

 ならば、自分が尻込みするわけにはいかない。


「……わかりました。もしその時になったら、私に任せてください」


 決意の表情でエルシリアは頷き、ルドヴィカもまた頷きを返した。


「でも、いいんですか? この手段は、あなたの信念に反すると思いますけど」

「たまたま利害が一致しただけだ」


 ルドヴィカはひらひらと手を振る。


「何か一つでも条件が合わなかったら、あの紛い物のように、オマエを追い詰めていただろうな……」


 エルシリアはくすりと悪戯っぽく笑った。


「もしそうなっていたら、今度こそちゃんと殺してあげましたよ?」

「抜かせ」


 そう言いながら、ルドヴィカもかすかに笑みを零した。




          ◆     ◆     ◆




 暗く広い地下空間を、多くの人影が素早く移動していく。ウェルナーもルドヴィカやエルシリアと共にその中にいた。

 ここはサブウェイの駅だ。ウェルナー達騎士団は三つの隊に分かれ、三ヶ所の駅から三両の列車にそれぞれ乗り込んで、帝都中央のユニケロス城を目指すことになっていた。

 異端審問会の秘匿技術であるサブウェイを作戦に組み込めたのは、エルシリアが居合わせた異端審問官を説得してくれたおかげだ。これで暴徒達を無視して直接帝城に向かうことができる。


 騎士達が速やかに乗り込むと、エルシリアが一番前の運転席に走り、列車を出発させた。行き先さえ設定すれば運転は自動だそうだ。古代の技術は摩訶不思議である。


「作戦を再確認する」


 ひしめき合う騎士達の中でヴィクトルが言った。


「帝城が建つのは帝都中央、ユニ湖の北部に浮かぶ小島。上陸するには橋を渡らなければならない」


 ウェルナーは頭の中にユニ湖を俯瞰した図を描く。大体円形の湖の中央に、正五角形を描くようにして小島が五つ浮かんでいる。そのうち真北の島に建つのがユニケロス城だ。他の四つの島にも政治的に重要な施設がそれぞれ威容を聳えさせている。


「ユニケロス城に架かる橋は三つある。一つ目は湖岸から伸びるもの。二つ目は西隣の元老院議事堂から伸びるもの。三つ目は東隣のルキーリオ正統大聖堂から伸びるものだ。

 敵の兵力にも限界があることを思えば、ユニケロス城を含めた三つの施設すべてに兵を配置しているとは思えん。議事堂と大聖堂は素通りできると考えて、我々は議事堂方面から攻撃を仕掛ける。湖岸方面と大聖堂方面からも機を同じくして友軍が突撃し、多面攻撃を行なう。

 防衛のしやすさから考えて敵は橋上で迎え撃ってくると思われるが、まともに相手をする必要はない。とにかく速攻を心掛け、敵を押し込むことを考えろ。そうして隙を作り、聖騎士を含めた精鋭と、ルカントーニ卿およびエルカーン殿を帝城に送り込む。

 ――お二人がおられるこの部隊が最重要だ。各自、奮戦を期待する」


 おおッ!! と力強い声が重なった。

 ウェルナーは運転席のほうを見る。窓の向こうに高速で後ろに流れていく地下道が見えた。蔓延る闇を、車体の前方から照射される二条の不可思議な光が鋭く照らしている。外から見ると、巨大な怪物が両目を輝かせながら迫ってくるように見えるだろう。


 そんなことになったらぞっとしないな――などと考えていた時、前方を照らす光に何かが映った気がした。

 何か、などという曖昧な認識でいられたのは一瞬だ。




 光の中に現れたのは、大量の人垣だった。




 ギキィイイイイィィ――――ッ!! と列車が独りでに急激な制動をかける。直後、人垣は左右に割れた。統制された動きで左右の隙間に避難し――


 まずい、と危機感が叫ぶ。

 今は制動がかかって速度が下がっている――飛び乗ろうと思えばできてしまうほどに!


「全員前に来い!! 窓から入ってくるぞッ!!」


 警告通りだった。

 後部車両の窓が一斉に破砕され、大量の暴徒が雪崩れ込んできた。

 逃げ遅れた何人かの騎士が人波に呑み込まれる。直後、悲鳴と殴打音とが混ざり合って響き渡った。暴徒達が手に手に持つ武器は、いずれも奪命に足るものばかり……!!


「ルドヴィカとエルシリアは僕らの後ろへ!!」

「食い止めるぞウェルナー!!」

「はい兄上!!」


 ヴィクトルや他の騎士達と共に、ウェルナーは後部車両から押し寄せる暴徒達に応戦する。

 彼らは魔女に踊らされただけの一般市民だ。中には複製人間も混じっているだろうが、そこに意思がないことには変わりない。騎士達は彼らを斬ることを躊躇い、車内が狭いことも相まって苦戦を余儀なくされた。徐々に暴力的な人数に押し込まれていく。


 四両あるうち最後部から侵入した暴徒達は、程なく三両目までを制圧した。騎士達も必死に押し留めるが、二両目に侵入されるのは時間の問題だ。

 ウェルナーは飛びかかってくる暴徒を蹴り飛ばしながら歯噛みした。このままでは駅に到着するまで保たない……!!


「連結部を見てください!! 後部車両を切り離すんです!!」


 悲鳴や怒号が飛び交う中、前のほうから澄んだ声が届いた。エルシリアの声だ。


(連結部? 車両と車両の間か!!)


 サブウェイの簡単な構造については説明を受けている。ウェルナーは最前線を受け持つ騎士達に「少しだけ耐えてくれ!!」と叫び、連結部に移動した。

 連結部には壁がない。剥き出しだ。ウェルナーは車両の間に渡された床板の下を覗き込む。そこに握手でもしているような金属製の連結装置があった。

 ウェルナーは床板を力尽くで引っぺがし、連結装置を確認する。これを切り離せば暴徒達は遥か後方に置き去りにされるはずだ。だが一体どうやって?


「――構ってられるか! ぶっ壊してしまえ!!」


 さすがに剣で斬れるとは思えない。ウェルナーは聖騎士の筋力でもって連結装置を幾度となく蹴りつけた。やがて、バヅン!! と何かの破壊音がし、連結装置に隙間が空き始める。


「全員こっちへ!! 後部車両を切り離す!!」


 叫び、最後の蹴りを入れた。連結装備が完全に破壊される。車両が離れ始め、前線で暴徒を押し留めていた騎士達が急いで飛び移ってきた。

 切り離された後部車両だが、しばらくの間は慣性で走り続ける。騎士達に続いて暴徒達まで乗り移ろうとしてきたので、ウェルナーは足を使って全力で車両を押した。

 伸ばされた暴徒の手がこちらの車両に届く寸前、後部車両が急速に離れていく。


「よしっ……!! これで――」


 一安心、と言おうとした直前だった。

 ズズッ……!! という不吉な地鳴りと共に地下道が揺れる。

 後部を失った連結部から身を乗り出していたウェルナーは、頭上からぱらぱらと砂が落ちてきたのに気付いた。


「嘘だろう……!? まさか――」


 言い切ることはできなかった。

 直後、天井の地盤が一斉に崩れ落ちた。


 粉塵、轟音、そして凄まじい衝撃。聖騎士のウェルナーをして、壁に掴まっていることしかできない。

 だが幸いにも、崩れた地盤に生き埋めにされることはなかった。寸での所で岩石の雨を潜り抜けて、


 ――ガカン!! と。

 梯子を外されたような浮遊感に襲われる。


 ウェルナーは直感した。――脱線したのだ。

 列車は勢いそのままに車輪で地面を抉り、壁に激突する。その衝撃で大きな岩が欠け落ちて天井に落下したが、車体を潰すには至らなかった。


 いつの間にか床に倒れていたウェルナーは呻きながら起き上がる。周囲の騎士達も似たような様子で、幸い死傷者はいないようだ。それよりも確認すべきことがある。


「ルドヴィカ! エルシリア! 大丈夫か!?」


 前の車両に走り、ウェルナーは叫んだ。鍛えられた騎士達が平気でも、彼女達はそうではないかもしれないのだ。

 結論から言えば、これは杞憂に終わった。白と黒、それぞれの少女は、ちょうど頭を押さえながら立ち上がっているところだった。


「なんなんだ、一体……。いきなり天井が崩れるとはどういうことだ」

「本当に……。ここに来て事故死なんて笑えませんよ」


 ガンッ! という岩が当たる音が屋根から聞こえ、二人の少女は肩を跳ねさせた。

 ウェルナーは天井を見上げ、


「ここも危なそうだ。いったん外に出よう」


 騎士達がぞろぞろと車両を降りていく。ウェルナーもエルシリアとルドヴィカと共に外に出て、壁に突っ込んだ列車を眺めた。


「壮絶だな……。よく死人が出なかったもんだ」


 軽傷者は幾らかいて、いま手当てを受けているが、重傷者や死傷者は出なかったようだ。だが数人、暴徒の餌食になった騎士がいた。一人でも戦力が欲しいこんな時に……まるで嫌がらせだ。いちいち考えるまでもなくイゾルデの采配だろう。異端審問官たる彼女はサブウェイの存在を知っている。


 振り返ると、今度は瓦礫で埋まった地下道がある。まさか天井が崩れるなんて思いもしなかったが、怪我の功名と言うべきか、おかげで追撃は封じられた。

 積み上がった瓦礫の傍に、ルドヴィカとエルシリアの姿がある。いつの間にか移動していたらしい。ウェルナーは彼女達に追いつくと、


「あんまり近付くと危ないぞ。まだ崩れるかもしれない」


 当然の注意だったと思うが、二人の反応は奇妙だった。

 無言でこちらを振り返り、また瓦礫の山に視線を戻す。それからエルシリアが瓦礫の中に両手を突っ込み、石のブロックを引っ張り出した。……石のブロック?


「どうして地盤にそんな人工物が混ざってるんだ……?」


 ウェルナーは頭上を見上げる。天井に穴は空いていない。空いているかもしれないが、積み上がった瓦礫で塞がっているのだ。この真上に家があったのだとしても、その建材がこんなに下のほうの地盤に混ざっているとは思えない。


「地下室ですよ、ウェルナーさん」


 首を傾げるウェルナーに、エルシリアが答えをもたらした。

 崩れた地盤。地下室。――一気に点と点が繋がる。


「まさか……現場になったあの地下室か!?」

「そうだと思います。あのお屋敷、確かこの辺りでしたから」


 あの地下室は地盤が緩く、外を馬車が通るだけで部屋が揺れるほどだった。常に部屋全体が一方向に傾いていて、エルシリアが床に置いた銅貨が独りでに転がり出したのを思い出す。


「そういえば、バルディ夫人が何か言ってたな……。確か、昔異端者が地下室に隠れて云々って話の時……」


――― 外を馬車が通ったわけでも地震があったわけでもないのに部屋が揺れたり ―――


 そうだ。確かにそんな話をしていた。ということは、あれはつまり――


「よく覚えてますね。おそらく、夫人が呪いか何かだと思って怯えていたのは、真下をサブウェイが走ることで起こっていた揺れだったんだと思います」

「ってことは、ほんとにあの屋敷の地盤が崩れたのか。すっごい偶然だな……」


 運命の差配に感嘆するウェルナーを横に、しゃがみ込んだルドヴィカが瓦礫の山をいじって調べていた。エルシリアがそれを見下ろして、


「ルカ。これは……偶然、だと思いますか?」

「……だろうな。こんな仕込みをする理由に想像がつかない」


 ルドヴィカは立ち上がって瓦礫の山を見上げる。


「だとしたら……チャンスかもしれん」


 二人の少女は、白衣と黒衣、白髪と黒髪をそれぞれ翻し、こちらに振り向いた。


「急いで出発するぞ、ウェルナー」

「時間がありません――寄り道が必要になりました」








 闇の中を行軍し、目的の駅に辿り着くと、大量の人影がひしめいていた。しかも、今度は暴徒だけではない。鎧を着た兵士までいる。イゾルデに盲従するように生み出された複製兵士だ。


「怯むな!! 突っ切れ!!」


 ヴィクトルの号令一下、騎士達が鬨の声を上げて突撃していく。ウェルナーもまた最前線に立ち、襲いかかってくる敵を薙ぎ払った。いちいち相手してはいられない。突破口を開けて、目指すは地上へ続く出口――ではなく。


「道ができた!! 二人とも来い!!」


 突破口をこじ開けると同時、ウェルナーはルドヴィカとエルシリアを連れて走った。仲間の騎士達がせっかくできた道を塞ごうとする敵を押し留めてくれる。おかげで誰に阻まれることもなく、目的地――駅の事務室に二人を送り届けることができた。

 

 素早く中に入り扉を閉じる。

 直後、ドンドンドンドンドンッ!! と連続して扉が揺れた。ウェルナーは両手で扉を支えながら二人の少女に叫ぶ。


「できるだけ早くしてくれ!! そう長くは保たない!!」


 エルシリアとルドヴィカは壁際の机に走り、散乱する書類を引っ繰り返す。やがてエルシリアがある書類を見つけ出し、


「ありました。これです。……用意できますか?」

「元があればな」


 ルドヴィカの答えを受けて、エルシリアは黒衣から何か取り出した。

 ウェルナーには彼女達が何をしているのかわからない。だが必要だと言うのなら戦うまでだ。ウェルナーにわからないことは彼女達に任せる。彼女達にできないことは自分で担う。何も全部一人でやる必要はないのだ。

 度重なる打撃を受けて、扉そのものが壊れてきた頃だった。


「お待たせしました! 耳を塞いでください!!」


 ウェルナーは扉から手を離して後ろに跳びずさり、強く耳を塞いだ。

 直後、扉が開いて暴徒が雪崩れ込み――その鼻先に、円柱状の筒が放られる。


 呪いめいた悲鳴が大音量で撒き散らされた。


 マンドラゴラ音響手榴弾の威力が一撃で暴徒達を鎮圧する。

 直前に距離を取り、耳を塞いでいたウェルナーはかろうじてその精神侵蝕効果を受けずに済んだ。

 同じく耳を塞いで威力を減衰したエルシリアとルドヴィカを連れて、倒れ伏した暴徒達の上を踏み渡っていく。


 離れた場所の暴徒や複製兵士達にも音響爆弾の効果があったようだった。理性を奪われている彼らにとって、精神攻撃は弱点なのかもしれない。

 騎士達が一気呵成に人波を押し返し、出口への道を切り開く。

 そのまま勢いに任せ、ウェルナー達は敵を蹴散らしながら地上への階段を駆け上った。








「もう始まってる……!!」


 地上に出ると、ユニケロス城へ架かる三つの橋のうち、湖岸方面の橋と大聖堂方面の橋ではすでに戦闘が始まっていた。

 出遅れた形になるが、ポジティブに考えれば陽動だ。先行した他の部隊が敵戦力を引きつけてくれれば、その分ルドヴィカとエルシリアを送り込みやすくなる。


「ルドヴィカ、大丈夫か?」


 元老院議事堂へ架かる長い橋を渡りながら、ウェルナーはルドヴィカに声をかける。彼女はだいぶ息が上がっているように見えた。そもそもが運動不足なのだ。


「だいっ……じょう、ぶだ! 気にっ、するなっ……!」

「ごめん。もう少しだけ頑張ってくれ!」


 橋を渡り切ると、元老院議事堂の傍を素通りし、ユニケロス城へ架かる橋へ入る。案の定、橋を塞ぐようにして防衛部隊が展開されていた。さらに向こうの城の上には弓兵の姿も見える。飛来する矢に注意しなければならない。


「総員――――蹂躙せよッ!!」


 先陣を切るヴィクトルが大剣で敵を指し、続く騎士達が天をも震わす鬨の声を上げた。

 城の上の弓兵達が雨あられと矢を降らせる。それを鎧で弾き、あるいは剣で払いながら、騎士達は突き進んだ。

 

 先頭集団が敵兵と激突する。怒号と剣戟と断末魔がうねるように混ざり合った。

 有利不利で言えば、堅牢な拠点を背後にした敵のほうが当然有利だ。だが騎士団最強の呼び声高いヴィクトルが暴れ回ることで、敵はいとも簡単に壊乱する。獲物を食い散らかす猛獣のように、一団は橋の上を猛進した。


 ウェルナーはルドヴィカとエルシリアに降りかかる矢をことごとく払いながら、その奮迅ぶりを俯瞰する。

 魔女を相手にすることで不安はあったが、蓋を開けてみれば圧倒的だ。盲従させられているだけの兵士と、国を救うため義憤に駆られる兵士とでは士気が違いすぎるのだ。


 大勢の人間に踏み鳴らされ、足元の橋が揺れている気がした。

 橋は煉瓦で組み上げられた堅牢なものだ、そうそう崩れはしない。そうでなければとっくに橋を落とされて、ウェルナー達は船での侵攻を余儀なくされていた。もしそうなっていたらこれほどの数の騎士がこれほどの勢いで攻め上がることはできなかっただろう。


 行ける。

 ウェルナーを含め、多くの騎士がそう考えた――矢先に。


 ウェルナーは見た。


 突き進む友軍の鼻先、敵軍の隊列がある辺りに――剣のようなものが、高速で墜落するのを。


 轟音が炸裂し、足元が揺れる。

 前方で大きな水柱と粉塵が舞い上がった。それだけで起こったことは容易に推測できる。


「橋が!! 橋が落とされた!!」


 悲鳴のような声が響き渡り、味方に動揺が走った。

 船など用意していない。煉瓦の橋が落とされるなど、誰も考えなかったのだ。こうなってはいったん戻って他の橋の戦闘に加勢するか、湖を泳いで渡るか――どちらもここまでの優勢をドブに捨てるような選択だ。


 水柱が飛沫となって舞い散る彼方。歯噛みするウェルナーは、帝城の屋根の上に人影を見る。


 そいつは。

 その男は。

 あまりにもよく似た姿で、あまりにも異なる笑みを刻み――ウェルナーに向けて、声もなく告げた。




 ――来い。




 瞬間、ウェルナーは第三の選択肢を悟る。

 奴は――もう一人のウェルナーは、そのために橋を落としてみせたのだ。


(――行ってやる)


 迷いなどない。イゾルデを倒すのがエルシリアの責務なら、奴を倒すことこそウェルナーの責務だ。

 この戦いに逃げはない。怖じず怯まず顧みず、決着するまで前進するのみ。


「行くぞ、二人とも!!」


 ウェルナーはルドヴィカとエルシリアを連れて前へ走った。最前列まで来ると、途切れた橋を前にヴィクトルらが足踏みしていた。


「兄上! !!」


 言葉少ななウェルナーの意見具申を、尊敬する兄は一度で理解した。


「全軍、引き返して他の部隊と合流!! 我々は卿らを伴い、この橋を渡る!!」


 ヴィクトルの命令を騎士達は判じかねたようだった。しかしウェルナーは頓着せず、ルドヴィカとエルシリアを両肩に一人ずつ担ぎ上げる。


「なっ……!?」

「ちょっ……!!」

「行くよ! しっかり掴まっててくれ!!」


 そのまま橋の切れ目に向けて助走をつけ――ジャンプする。

 法廷でも偽ルドヴィカに指摘された聖騎士の超人的跳躍力は、二人分の体重を抱えてもなお、差し渡し五メートルに及ぶ橋の切れ目を跳び越える。

 だがさすがに着地は難しく、担ぎ上げた二人もろとも煉瓦の床に転がった。


「こういうのは先に許可を取れ、たわけ!!」

「び、びっくりした……」

「ごめん。でも時間も余裕もないんだよ」


 文句を重ねるルドヴィカと心臓を押さえるエルシリアを助け起こしていると、続いてヴィクトルも橋の切れ目を跳び越えてくる。

 切れ目の向こう側では、その常識外れな光景を目撃した騎士達が、ようやく命令の意味を理解して踵を返した。


「しめたな」


 ヴィクトルがユニケロス城の威容を見上げる。


「橋を落とした攻撃で敵まで消えてくれた。混戦状態では効率が悪いと見たか、弓兵も引いている。チャンスだ。新手が来る前に城に入るぞ、ウェルナー」

「はい!!」


 再びルドヴィカとエルシリアを担いだウェルナーは、ヴィクトルと共に聖騎士の全力でもってユニケロス城へと突入していった。








 入口の大扉を抜けると、豪奢なエントランスホールがウェルナー達を出迎えた。

 二階までの吹き抜けになっており、二階にはまるで観客席のようにぐるりと廊下が回っている。正面には二階に上るための曲がりくねった階段があり――その上に。


「やあ――遅かったねえ。待ちくたびれて死ぬかと思った」


 イゾルデ・イングラシアの姿があった。

 ウェルナーとヴィクトルは即座に剣を構える。エルシリアとルドヴィカも油断なく仇敵を睨み上げ、


「……複製ですね。本物は手が離せないはずですから」

「どちらでも同じだ。イゾルデ・イングラシアである以上はな」


 くっふふふ――と、イゾルデは嬉しそうな笑いを漏らす。


「おやおや、私ったら大人気。三〇を間近に控えて不安だったけど、まだまだ捨てたもんじゃないね」

「大人しく投降しろ!! この距離じゃお前は逃げ切れない!!」


 ウェルナーは軽口には取り合わずに叫んだが、イゾルデは余裕の笑みを崩さなかった。


「投降しろ……ねえ? したらどうなんの? 複製二人で仲良く晒し首? うわー、メリットねえー! 交渉はもうちょっとうまくやれよウェルナー君! 女を口説く時と一緒だよ。得意だろ? きゃーっ! お姉さん口説かれちゃうーっ!!」


 イゾルデが口を開くたびにイライラが募る。もう二度と喋らせたくなかった。ウェルナーが足を踏み出そうとした時、


「――残念だけど、ナンパはまた今度ね」


 イゾルデの両手に、まるでカジノのディーラーのように紙の束が現れた。

 その紙にはすべて、違う人物の肖像画が描かれている。


「出でよ我が眷族! ――なーんつって」


 イゾルデは数十枚に及ぶ肖像画の束を宙にばら撒いた。

 ひらひらと舞う紙は一枚一枚が輝きを放ち、一瞬にして生命をこの世に産み落とす。

 鎧を着た兵士が、数十人。状況を確認するように周囲を見回した。


「はいはーい、皆さーん! あっちの四人をぶち殺しといてねー! そんじゃ私はこれで!!」


 今まさに生み出された兵士達が一斉にこちらを向き、イゾルデは二階の奥へと消えた。すぐにでも追いたかったが、複製兵士達が階段を塞いでいる。彼らを突破するのにどれだけかかるか……。

 失われる時を思って歯噛みした時、ヴィクトルが一歩前に出た。


「俺が道を作ろう」


 その大きな背中で、敵の姿を覆い、


「お前達はその隙にイゾルデを追え。この連中は、俺が相手をしておく」


 その力強い声で、ウェルナー達の背中を押した。

 無駄な拘泥はしない。ただ一言、


「頼みます」


 そう告げると、兄は黙然と頷き――一直線に突貫した。

 床を踏み砕きながら振るわれた一撃は、複製兵士達を木の葉のように舞い上げる。そうしてできた道を、ウェルナーは二人の少女と共に駆け抜けた。

 三人が階段を上るや、ヴィクトルがその最下段に陣取って敵を威圧する。


 対峙すれば震え上がるだろうその威圧感を背中に力強く感じながら、仇敵が消えた闇へと飛び込んでいった。








 上へ、上へ。

 複雑な城内を走り回り、階段を見つけては駆け上る。


 その数が五を数えた頃、ウェルナー達の前に一際大きな扉が聳え立った。

 玉座の間だ。

 見上げんばかりの鉄扉は歴史と権威に裏打ちされた貫禄を発し、来訪者を威圧している。だが今、その空気は常ならぬものに変じているはずだ。


 ウェルナーはエルシリアに振り返った。彼女は決然と頷く。

 ウェルナーはルドヴィカに振り返った。彼女は確然と頷く。

 最後にウェルナー自身も頷いて――巨大な鉄扉を、ゆっくりと開け放った。



 輝かしき栄光。

 積み重ねた歴史。

 神聖インぺリア帝国という国のすべてが、ここにあった。


 ――ただ一つ。

 中央を貫く赤絨毯の先――玉座を独占しているのが、資格なき者であること以外は。




「改めまして、こんばんは――最高の夜だね」




 イゾルデ・イングラシア。

 簒奪の僭王が、悠然と玉座に座していた。

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