第三章 地獄の肖像
――いつも瞼にあるのは、親友が最期に遺した笑顔だった。
あんなにも哀しくて寂しい笑顔が、他にあるだろうか。マリは、名誉も未来も命も人格も、何もかもを簒奪されながら、最期の最後まで、私達のことを案じていたのだ。
私達は、たった一人の親友に、『助けて』と言ってもらうこともできなかった。
彼女には、人に助けを求めるなんて程度の救いすら、与えられることはなかったのだ。
こんなの、おかしいじゃないか。
私は、私達は、マリにたくさん助けてもらった。感謝し切れないくらいたくさんのものを与えてもらった。……なのに、どうして彼女には何も与えられないの。どうして何も与えてあげられなかったの。どうして――
閉じた瞼に笑顔を見るたび、怒りと悔しさでどうにかなりそうになる。
この世のすべてに当たり散らしたい。たとえそんなことに意味なんてないとわかっていても、そうしないと頭が焼き切れて壊れてしまいそうだった。
ああ――どうせなら。
その矛先は、然るべき人間に向けるべきだ。
――― 殺してやる ―――
殺意を胸に強く焼き付けた。消えないように。消えないように。時間なんてあやふやなものが、この傷を勝手に癒してしまわないように。
その時から、私の心には悪魔が宿った。
――― すべてを支配しろ。法廷では君が支配者だ ―――
イゾルデ・イングラシアから技術を吸収する日々には、地獄と思えるほどの苦痛が伴った。
ひと思いに殺してしまいたい――一体何度そう思ったことか。しかしそのたびに、瞼を閉じてマリの笑顔を見ることで思い留まった。
それは逃げだ。ここで殺してしまうのは、魂に焼き付けた殺意から逃れる行為だ。この復讐に、そんな甘えは許されない。
イゾルデの弟子を卒業し、上級異端審問官になってからは、また別の試練があった。
それまで私の心に焼き付いていたのは、マリが『弔いの鐘』に呑まれる光景だけ。それと似たような光景が毎日のように積み重なっていった。
一年間で、二十二人。
彼らは泣き叫びながら死んでいく。私を恨みながら死んでいく。向けられた憎悪には刃があった。ざくりざくりと傷つけられて、気付けば私はとっくに血塗れ。もう今更、傷が一つ二つ増えた所で気にもならない。
これが心が死ぬということか、と時おり思った。マリも似たような気持ちだったのだろうか、と同時に思った。今の私とあの時のマリとじゃ状況がまるで違う。……でも、私が殺した人達の中に、マリみたいに笑って死んだ人はいなかったから。
リーパー事件の時に芽生えたルカへの執着と、魂に焼き付けた殺意と、瞼の裏の笑顔と。
一つ目が解消された今、残っているのはあと二つ。
余計なものは全部削った。生きていることすらどうでもいい。
あいつを殺せないくらいなら――こんな私は、壊れてしまえ。
目を覚ますと、そこはどこか暗い場所だった。
背中が柔らかくて暖かい。どうやらベッドの上のようだ。天井の高さなどから類推すると、どこかの民家の寝台で寝かされているようだった。
(私は……確か、裁判で……)
エルシリアは記憶を掘り起こしながら、ゆっくりと起き上がった。
裁判で、観衆が異様に騒ぎ出して――そこまでは覚えている。だが、その後どうなったのかがまったくわからなかった。
周りを見回す。木板の窓が閉め切られていた。暗いのはこのせいか、と一瞬思うが、木板程度では光が漏れてしまうはずだ、と思い直す。ということは、もう夜になっているのだろうか。
「……あ、起きたのか」
同じ部屋に人影があるのに気が付いた。人影は立ち上がって歩み寄ってくる。警戒しかけるエルシリアだったが、闇に慣れていた目は人影の正体がウェルナーであることを教えてくれた。
「驚いたよ。怪我もしてないのに気絶したから」
記憶にない。きっと張り詰めていた緊張が切れてしまったのだと思う。
あまりにも異常なことが起こりすぎた。弁護人として現れたルドヴィカ。唐突に告発されたウェルナー。狙撃されたイゾルデ。おかしな演説と、異常な様子の観衆達……。
「……ウェルナーさん。ここは、どこですか……? あれから、どうなったんですか?」
ウェルナーは神妙な顔になって、唇を引き締めた。少しの沈黙の後、
「ここは、帝都の東区にある高台の小屋だ。空き家かどうかはわからない。とにかく人の少ないほうへ逃げてきたから」
「逃げて……? それは、何から……?」
「それは――見たほうが早いと思う」
立てる? とウェルナーは手を差し伸べた。エルシリアはちらりとその手を見て、無言で立ち上がる。彼に助け起こしてもらう義理はない。
ウェルナーの後ろについて、窓際に移動した。
彼は木板の窓に耳を当てる。外に人の気配がないか探っているようだった。
「……大丈夫そうだ。でも一応、少し開けるだけにして、隙間から覗いてくれ」
危機的状況にあることは、ウェルナーのその様子だけでも伝わった。エルシリアは頷いて、窓の木板をそっと持ち上げる。
視点が高かった。高台だからだろう。帝都のほぼ全景が視界に飛び込んできて――
「…………ぁ…………」
エルシリアは、声を失う。
日はすでに落ち、街は闇に沈んでいる。はずなのに、所々で大きな灯りが揺れ、整然と並んだ建物を疎らに照らしていた。その赤い灯りは黒煙と共に立ち昇り、星空の中に溶けていく。
火だ。
家屋が燃えている。一箇所に留まらず、一〇、二〇――数え切れないほど。そして炎に照らされた街を、人影が行き交っているのがかすかに見えた。夜とは思えないほどの人通りで……彼らは……見間違いでなければ……家という家を、破壊して回っているように見える。
(だったら……所々で蹲っているように見えるのは――)
もう、充分に理解できた。
あれから何があったのか。今、帝都がどうなっているのか。
――帝都ユニケロスは、地獄と化していた。
◆ ◆ ◆
再び窓を閉め切り、愕然とした様子のエルシリアを椅子に座らせる。灯りは街を徘徊する暴徒達に見咎められかねないので使いたくない。ウェルナーも椅子に腰かけ、二人、闇の中で向かい合った。
「……あっという間だったよ」
間を保つ意味も込めて、ウェルナーは詳細を話し始める。
「最初に暴れ始めたのは、法廷に集まっていた観衆だった。でも、気絶した君を抱えて逃げ回っているうちに――いつの間にか、街中に広まってた……」
どうなっているかなんて、ウェルナーにもわからない。本当に突然、普通の人々が豹変して、暴れ出したのだ。まるで飢えた猛獣のように。
都市機能が死んだらしく、時鐘も止まったので、今が何時なのかはよくわからない。だが月の位置を見るに、法廷から逃げ出してまだ二時間程度のはずだ。
たった二時間。それだけの時間で、新大陸を統治する大帝国の首都が死んだ。ウェルナーには、その事実がにわかには受け止められない。
「―――ふふ」
不意に。
暗闇の中に、堪え切れなくなったような笑い声が流れた。
「ふふっ……ふふふふふ。そうか……これが、あの女の目的だったんですね……」
正面にある顔を見た瞬間、ウェルナーの全身を冷感が包んだ。
エルシリアが、空っぽの、脱力し切ったような、虚無的な表情で、笑っていた。
「私は……そのために……まんまと利用されて――ふふ。ふふふふふ。あっはははははははははははっ……!! ああ――くだらない。くだらない、くだらない……。これまでの五年間、全部、何もかも、あの女の掌の上だったってことですか……」
エルシリアは背もたれに体重を預け、天井をぼんやりと眺める。
ウェルナーには、彼女が呟いたことすべてを理解することはできなかった。しかし、その様子を見ればわかる――彼女にとってとても大切な何かが、壊れてしまったのだと。
「ウェルナーさん。剣、持ってます?」
天井を眺めたまま、エルシリアが言った。
「なければナイフか、包丁でもいいんですけど……。台所で探せばありますかね……」
「……そんなの、どうするつもりだ?」
「決まってるじゃないですか――さっさと終わらせるんですよ」
目を見開いた、壊れた笑顔で、エルシリアは告げた。
「私は、失敗したんです。全部無駄だったんです。だから――もう、終わらせたっていいじゃないですか」
「ばッ――馬鹿なことを言うな!!」
椅子を蹴立てて立ち上がり、エルシリアの両肩を強く掴む。衝撃で彼女の頭が人形みたいに力なく揺れた。
「ここで死んで何になる! 復讐するんじゃなかったのか!」
「誰に?」
焦点の合っていない瞳が、ウェルナーを無機質に映す。
「見てなかったんですか? 死んだんですよ、あの女は……。私の目の前で、私とは何の関係もなく、死んだんです。しかもご丁寧に、目的まで達成して……」
「で、でも……!」
「私は、道化だったんですよ」
くすくすと、歪んだ唇から声が漏れる。
「私の復讐心なんて、あの女はとっくに織り込み済みで……私を弟子に取ったのもそのためで……私は、最初っから、あの女の支配下にあったんですよ……」
そこにいるのは、抜け殻だった。
エルシリアという存在を構成していたものが、ごっそりと抜け落ちて――ただ空洞だけを抱えて、惰性で息をしている状態。
無理もないことだと理解はする。だが、それでも……ウェルナーは、それでも……今の彼女を見ていると、なぜか、ひどく――
「……いやだ。それでも僕は、君を死なせたりしない」
「なんでですか。迷惑はかけませんよ。死体は置いてっていいですから……」
「嫌だって言ってるのがわからないのかこの馬鹿!!」
エルシリアは一瞬目を丸くして、それから眉をひそめた。
「なんなんですか、あなたは……。もう、なんなんですか!!」
力任せに押しのけられて、ウェルナーはよろめく。
「なんでいちいちいちいち私の邪魔をするんですか!! 放っておけばいいじゃないですか! 私が死んで何か困りますか!? あなたなんてただの他人じゃないですか!! 他人のくせにずけずけずけずけ! 正しいことばかり言って!! だから嫌いなんですよ! だから鬱陶しいんですよ! だから気持ち悪いんですよっ!!」
涙混じりの訴えは、しかし自分を斬りつける刃で――
「どうして私を否定するんですかっ! 私みたいな人間だっているんです! 人それぞれでいいじゃないですか、どうして口を出してくるんですかっ!! あなた達はっ、どうして!! 他人のことばっかり気にするんですかあっ……!!」
支離滅裂な叫びは、もはや誰に向けたものでもなく――
「もう、疲れた……。もういや……もういやだぁ……。ほうっておいて……やさしくしないで……私はなにもできないのにっ……やさしいことばっかりいわないでぇえぇえええぇ……!!」
――唐突に限界を迎えて、戦意も隔意も放棄する。
その場に蹲り、頭を抱えて子供のように泣きじゃくるエルシリアを、ウェルナーは拳を震わせて見下ろした。
なぜだかひどく、胸がざわめく。
嫌だと。こんなのは認められないと。心のどこかが叫んでいる。
「――『人それぞれ』なんて、言うなよ……」
頭の中を熱するのは、怒りだった。
「僕がここにいて、君もここにいるのに……そんな寂しいこと、言うなよっ……!!」
なのに、その熱さは攻撃にならない。
「君が死んだら困るかって? 困るんだよ! どうしてか僕だってわかんないけど! 君にそんな風でいられると、僕が困るんだよっ!!」
唾を飛ばしながら、膝を突く。
手を差し伸べるでもなく、顔を上げさせるでもなく。
まるで、懇願するようにして。
「……お願いだから、もうちょっとだけ頑張ってくれよ……。冷静で、頭が切れて、すぐに嫌味を言う……いつもの君に戻ってくれよ……。じゃないと、僕が……僕のほうが……死にたくなってくるんだよっ……」
こんなにも弱々しい声を、今までに発したことがあっただろうか。
いや、きっとない。自分がこんなにも弱い人間だったなんて、ウェルナーだって知らなかった。
泣いているエルシリアを、慰めて、元気づけてあげなければならないはずなのに。
なぜか、今のウェルナーには、こうすることしかできない。
暗闇の中、二人して、床に蹲っていた。
やがて、顔を伏せていたエルシリアがもぞりと動いて、少しだけ顔を上げる。
「なんて声……出してるんですか」
垂れ下がった黒髪が、顔を隠していた。
「全然、似合わないですよ……。本当、みっともない……」
ぎぎ、と、床に突いたエルシリアの手が床を引っ掻く。
「……ええ、そうです。わかってますよ。みっともないのは誰なのか……!」
白い手が拳を握り、ドン! といきなり床を殴りつけた。ウェルナーは驚いて顔を上げる。
何の容赦もなく全力で叩きつけられた拳は、赤く滲んでいた。髪間に覗くエルシリアの顔は痛そうに歪み、それ以上に、自分への怒りで歪んでいる。
ウェルナーは、決して可憐とは言えないその顔を見て……なぜだか、顔がほころんだ。
「まだ……終われない。まだ、逃げられません」
エルシリアはゆっくりと立ち上がり、跪いたままのウェルナーを見下ろす。
「ほら……さっさと立ってください、ウェルナーさん。そんな所にいると、鬱陶しいですよ」
手も貸さずにそう言うエルシリアを見上げて、ウェルナーは力を込めて立ち上がる。
「そう言う君は、相変わらず嫌味だよね」
「歯に衣を着せないと言ってください」
「衣どころか、ナイフでも仕込んでそうな感じだけど」
「仕込むなら毒です。ナイフは返り血がかかって汚いじゃないですか」
あっという間に調子を取り戻した舌鋒に、ウェルナーは思わず笑ってしまう。
こっちのほうがずっといいと、心の底から思った。
――ドンドンドンッ!! ドンドンドンッ!!
直後のことだ。扉を激しく叩く音が入口のほうから聞こえた。
壁越しに届くのはわけのわからない叫び声――暴徒達だ。街を徘徊しては破壊行為を繰り返す暴徒達が、ついにこの小屋を見つけたのだ。接近されているのを気取る余裕がなかった。
「……どうします?」
ちらりと視線を送ってくるエルシリアに、ウェルナーは答える。
「逃げるしかないだろう。ここはもうダメだ」
「走れる?」と訊くと、「当然」と答えが返ってきた。心配はなさそうだ。
暴徒達が扉を破るのに合わせて窓から飛び出すことにする。わずかだが、そちらのほうが距離を稼げる。
ドンドンドンッ!! と繰り返される暴力的な音に耳をそばだて、タイミングを計った。
口を噤み、エルシリアに向けて指でカウントダウンをする。
五……四……三……二……一――
ドガンッ!! と扉が破られた瞬間、二人は同時に窓から外へ飛び出した。
地面の上をごろごろと転がる。小屋内からどかどかと人間が雪崩れ込んでくる音が聞こえた。
ウェルナーはすぐさま顔を上げ、素早く周囲を確認する。直後に舌を打った。
(外にもいたか……!!)
一、二、三――五人。ふらふらと徘徊していた暴徒達が一斉にこちらを振り向いた。
わけのわからない奇声を上げ、手に手に持った武器を振り上げて突っ込んでくる。
「退がって!!」
エルシリアを退がらせ、一番に突っ込んできた暴徒の腹部に当身を入れた。気絶したそいつを蹴り飛ばし、二人目にぶつけて地面に倒す。
その間に三人目が棒のようなものを振り下ろしてきたので手首を掴み、軽く捻って投げ飛ばした。
もんどりうった三人目にトドメを刺す暇もなく、屈強そうな風貌の四人目が突進してきた。反射的に腰の剣を抜きそうになったが堪え、柄頭で腹部を打撃するに留める。
その後、起き上がりかけていた三人目の鳩尾を踏み砕いた。
確認したのは五人。あともう一人――と探した瞬間、真横を何者かが駆け抜けた。
五人目だ。右手に鉈を持った男が、ウェルナーを無視して後方のエルシリアに襲い掛かる。
「エルシリア!!」
急いで庇いに入ろうとしたウェルナーだが、直後、その足が止まった。
エルシリアが黒衣と黒髪をゆらりと揺らし、突進する男を待ち構える。その立ち姿に、危機にある少女の弱々しさは見て取れなかった。
エルシリアは振り下ろされる鉈を軽く避け、同時にその腕を掴んで強く引き寄せる。続いて男の首を押さえながら、鋭く足払いした。大の男が軽々と宙を舞い、背中を地面にしたたかに打ちつけて呻き声を上げる。
エルシリアは軽く手を払い、ウェルナーに振り返った。
「異端審問官は殺人者を相手にする職業ですよ。ルカみたいな運動音痴と一緒にしないでください」
「ああ、驚いた……。いや、頼もしい限りだよ」
苦笑混じりに言って、屋内の連中が出てこないうちにその場を離れていく。
「それより、さっき呼び捨てにしませんでした?」
「え? ああ、そうだった、かな……?」
「……まあ、別にいいですけど」
背後に無数の足音を聞きながら、街の中を駆け抜けていく。
後ろばかりに気を取られてもいられない。何せ暴徒はどこにでもいるのだ。いちいち相手するわけにもいかず、ウェルナーは暴徒に遭遇するたびにエルシリアの手を取り、道を迂回する。
少し見ないうちに、帝都はさらに酷い有様になっていた。無傷を保っている建物は一つとしてない。そこ彼処に血を流した人が倒れていて、まるで戦場だ。
助けてあげたいという衝動がウェルナーの中で暴れるが、今はそんな余裕がない。唇を強く噛みながら、苦悶の声に満ちた街を駆け抜けた。
「どうしてこんなことになったんだ、くそっ……!」
脈絡がなさすぎる。昼まで普通に暮らしていた人々が、いきなりこんな風になるなんて。
「……集団心理ですよ」
エルシリアが低く呟いた。
「人間の意思っていうのは、本人が思う以上に周囲の影響を受けるんです。同調圧力と言って、『みんながやってる』という事実は、ただそれだけで人間の意思を支配できるほどの威力があるんですよ」
「じゃあ暴れている人達は、ただ『みんな』に便乗してるだけだって言うのか……!?」
「有り体に言えば。……あなたに覚えがあるかわかりませんが、人間というのは何か気に喰わないことがあった時、わかりやすい悪役の存在を望む傾向にあります。誰か悪い奴が悪さをして、だから悪いことが起こったんだと、そう思いたがる人が一定数いるんです。
……イゾルデはそこに付け込んだ。私という悪役を立てることで、憎悪を煽りやすくした。そうして煽動された人達が同調圧力を生んで、暴動が伝播した……。とは言え、いきなりこんな規模になるなんて、幾らなんでも不自然ですよ、これは……」
それはウェルナーも同感だ。この現象が自然のものとはとても思えない。人為的に起こされたのだ――おそらくは、イゾルデ・イングラシアによって。
「止める方法はないのか!? このままじゃどれだけの犠牲者が出るか……!!」
「武力で鎮圧する……以外には、ないでしょうね」
エルシリアは苦々しげに答えた。
「群衆が膨らめば膨らむほど、一人一人の責任意識は希釈されます。もう歯止めは効きません……」
ウェルナーは歯を食い縛る。イゾルデ・イングラシアの企みがどんなものだったのかはわからない。それが命を犠牲にするほどのものだったのかどうかも。
だが、その責任の一端を、ウェルナーと、そしてエルシリアが担っているのはわかる。二人がイゾルデの告発を推し進めた結果、こんなことになったのだから……。
「とにかく、安全な場所が欲しい。どこか知らないか?」
エルシリアは数秒、思案げな表情を浮かべた。
「……一応……あると言えば、あります」
「本当か!?」
「はい。あそこには誰もいないと思います、けど……この際、四の五の言ってられませんね。指示した通りに進んでください」
ウェルナーは後ろから飛んでくるエルシリアの指示に従い、地獄の中を進んでいった。
「ここです」
そう言ってエルシリアが立ち止まったのは、何の変哲もない裏路地だった。あちこちで火の手が上がっているせいで灯りには事欠かないが、夜は夜だ。好ましい場所ではない。
エルシリアは壁際にしゃがみ込み、石造りの壁や床をぺたぺたと触り始める。
「確か、この辺に……あった」
エルシリアが壁のとある石ブロックを軽く押す。――すると、その傍の短辺一メートル長辺二メートルほどの範囲が切り取られ、扉のように壁から浮いた。
「な、なんだこれ……!?」
「石造りの壁に偽装された隠し扉です。行きますよ」
隠し扉の奥には、地下の闇へと呑まれていく階段があった。特に気負いなく足を踏み入れるエルシリアに続いて、ウェルナーも警戒しながら中に入る。
エルシリアに閉めろと言われたので扉を閉めると、ゴリ……と石がこすれる音がした。窪んだブロックが元に戻ったのだろう。
「……しまった。灯りがないですね。足を踏み外さないでくださいよ。下にいる私が巻き込まれますから」
わかった、と返して、そろそろと闇の中を降りていく。
何分暗かったので多少の時間はかかったが、階段自体はそう長くなかった。
「……広い……?」
階段の先は広い空間だった。闇に包まれていて全容を見渡すことはできないが、壁は見えないし、何より空気の流れを感じる。それほどの大空間だということだ。
「嘘だろ……? 地下にこんな大きな空間を作れるはずが……。エルシリア、ここはどこなんだ? 帝都の地下にこんな空間があるなんて聞いたことがない」
「当然ですよ。異端審問会の秘匿事項ですから。ともあれ、灯りを探しましょう。それから説明します。この駅は、確かあっちのほうに事務室があったはずです」
エルシリアの真っ黒な後ろ姿を見失わないようにしながら、ウェルナーは彼女の後を歩いた。
やがて小屋のようになった場所に辿り着き、扉を抜けて中に入る。エルシリアは壁際に置かれた机や棚をしばらく探し、カンテラを見つけ出してきた。
「とりあえず、ここについて説明します。いったん外に出ましょう」
カンテラに火を灯したエルシリアは、『事務室』と呼んでいた場所を出て、闇に閉ざされた広い空間を歩いていく。
その後をついていくと――やがて、闇の彼方に、何か大きな影が浮かび上がってきた。
「見えますか?」
エルシリアがカンテラをかざすと、よりはっきりとその姿が見て取れる。
ウェルナーは恐る恐る近付き、『それ』に手を触れた。硬くて……冷たい。これは……。
「大きな……鉄の、箱……?」
長方形の、途轍もなく大きな鉄の箱が、干上がった川のように一段低くなった場所に横倒しにされている。ウェルナーには、そうとしか言えなかった。
「これは、私達の間では『サブウェイ』と通称されています」
エルシリアが言った。
「由来は知りませんが、昔からそう呼ばれていたみたいです。地下に作られた空洞を、何十人も乗せて、馬なしで走る馬車――そう考えてもらえば大体合っています」
「は? 馬なしで走る馬車?」
ウェルナーは眼前に聳える『サブウェイ』を見上げる。
「こんなでかいの、どうやって走るって言うんだ……」
「原理は私達にもわかりません。新大陸先史文明の遺産なので」
「……なるほど」
この国で『古代文明』と言うと、それは二つの意味を持つ。
一つは人類が新大陸へ移住する前に栄えていたとされる『旧大陸魔法文明』。東の『隔世の大海』を超えた彼方にあるとされる旧大陸で『統一秩序アルカディア』を形成し、およそ千年間に渡り空前絶後の栄華を誇ったとされる。
もう一つは、この新大陸において今の人類が移住する以前に栄えていたらしい『新大陸先史文明』だ。
こちらも今の人類より遥かに高度な技術を有していたようで、各地の遺跡にはそれだけで人類を発展させるような宝が稀に眠っている。それを見つけ出して一攫千金を狙う職業が『冒険者』で、危険と隣り合わせにも拘らず有史以来後を絶たない。
この『サブウェイ』とやらも、そうした遺跡の一つであるようだ。
「パラドックス事件の時、私が事件の翌朝に旧都プネリトにいたのは覚えてますか?」
「ああ。……そういえば、君、事件のこといつ聞いたんだ? 事件が起こってから帝都で連絡を受けたんじゃ到底その翌朝にプネリトにいることはできないし……そもそも、情報が伝わるのにも何日かかるか……」
「上級異端審問官は連絡に伝令を使いません。先史文明の遺物を使います」
え? と、ウェルナーは目を丸くした。
「移動に使ったのは目の前のこれです」
エルシリアは『サブウェイ』の側面を触る。
「馬車なんて比較にならないくらい速い上、地下を走るので最短距離で移動できるんです。これを使えば、悠々と座っているだけで帝都からプネリトまで一晩かからずに移動できます」
「なっ……!」
ウェルナーはかつて、ファーネラからプネリトまで六時間で走った。これはファーネラが帝都よりもプネリトに近かったからで、帝都からプネリトまでなら八時間はかかるだろう。それも命を削るくらい力を振り絞ってようやく、だ。
なのに、この『サブウェイ』はそれより速いと言う。こんな大きさで、何十人も乗せられるくせに、どんな名馬よりも俊敏で、しかも休みいらず――滅茶苦茶過ぎる。
「異端審問会は、こういう風に幾つかの技術を秘匿して独占しています。魔法みたいにあからさまな超常現象を起こすものはないですけど、原理がわからないので似たようなものです」
「審問会が秘密主義なのは知ってはいたけど……これほどだったなんて……」
「まだ序の口ですよ。一般人に察せるものの中にも一つ、とんでもないのがあるでしょう?」
「……『十一番目』のことか?」
「口は災いの元ですよ」
エルシリアが人差し指を口の前に立て、ウェルナーは苦笑して肩を竦めた。いくら世間知らずのウェルナーでも『それ』を口にするほどではない。この国における最大のタブーだ。
「『サブウェイ』が走る『路線』は国中に張り巡らされています。とは言え、状況次第では使えないことも多いんですけど……もしかしたら帝都の外に出られるかもしれません」
二人は事務室に戻る。エルシリアはカンテラをウェルナーに渡すと、壁に据え付けられた絵のない額のようなものを見て、何事かぼそりと呟いた。
瞬間、何もなかった額の中に、図のようなものがひとりでに描き込まれていった。
「『路線図』です。どの道がどこに繋がっていて、今どこが使えてどこが使えないのか、一目でわかるようになっています」
ウェルナーには各部に意味不明の単語が付された複雑な図形にしか見えなかったが、エルシリアにはわかるらしい。ざっと全体を流し見て、訝しげに眉をひそめる。
「どうしたんだ?」
「なに、これ……。わざとらしい」
憎々しげに吐き捨て、
「帝都の外へ向かう路線が、全部使用中になってる……」
「今は使えないってことか?」
エルシリアは頷いた。
「この調子だと、路線そのものも潰されてそうですね……。歩いていくのも危険か……。帝都内を移動する路線は全部空いてるんですけど」
「それって……ずいぶんとわざとらしくないか?」
「だからそう言ったじゃないですか」
エルシリアは面白くなさそうな顔で振り返った。
「イゾルデの仕業に違いありません。異端審問官も含めて、誰一人帝都の外に出さないつもりなんです。たぶん、市壁の門も何らかの方法で封鎖してるんじゃないでしょうか」
ウェルナーは深刻な顔になって黙り込む。この街は今、巨大な閉鎖空間と化しているのだ。こんな地獄から、誰一人として、抜け出すことができない……。
「……でも、裏を返せば、イゾルデも帝都の中にいるということ……」
不意にエルシリアが漏らした呟きに、ウェルナーは思わず聞き返しそうになった。
「まだ生きているはず……。あの女が、あんな簡単に死ぬはずがない……」
零しかけた言葉を、かろうじて呑み込む。……生きているはずがない。偽物ということも有り得ない。あんな精巧な偽物がいたら、もう本物と同じだ。
だが、必要なのだ、今の彼女には。自分自身を支えるために、仇の無事を信じることが。
だったら、その欺瞞は許すべきものだと、今のウェルナーは思う。
「ともあれ、帝都の中なら自由に動けるんだろう?」
ウェルナーはこれからのことを考えた。
「それなら帝国騎士団と合流すべきじゃないか? これほどの事態だ、動いてないはずがない」
「……いえ、それは慎重になりたい所ですね」
エルシリアは細いおとがいに手を添える。
「ルカでさえあんなことになっていたんですよ? 騎士団だって信用できるかどうか……」
ウェルナーは裁判でのルドヴィカの様子を思い出す。確かに、彼女は明らかにおかしかった。まるで別人のようで――しかし、見た目は確かにルドヴィカなのだ。
「とにかく移動しましょう。考えるのは歩きながらでもできます」
「移動って、どこにだ?」
「帝都の中にイゾルデの隠れ家があります。あの女が帝都内に身を隠しているとしたら、そこの可能性が高い。いなかったとしても、この状況を作り出した目的を暴き出すヒントが見つかるかもしれません」
なるほど、とウェルナーは思った。イゾルデの目的が暴動を起こすことだけとは思えない。あの真っ黒な怪物は、何かもっととんでもない企みを秘めていた――そんな気がする。
「……あれ? 今、歩くって言った?」
「言いましたけど」
「あの走る鉄の箱――『サブウェイ』だっけ――は使わないのか?」
「さっき私がやったように、『サブウェイ』の利用状況はどの駅からでも確認できるんです。不用意に使うと、イゾルデに気取られてしまうかもしれません」
なるほど。イゾルデが死んでいるとしても、警戒するに越したことはない。
「車両を走らせなくても道は通っていますから、地下道をのんびり歩くとしましょう」
二人で一つずつ持ったカンテラを頼りに、闇の中を進んでいく。
『サブウェイ』が走る用の地下道には灯りがなかった。地下なのだから燭台くらい置いてほしいと思ったウェルナーだったが、燭台を置いても『サブウェイ』が走る時に起こる風ですぐに火が消えてしまうそうだ。以前は火を使わない照明器具があったようだが、時間の流れに伴って使えなくなっている。
暗いとは言え、暴徒が襲いかかってくるのを(街中ほど)警戒しなくていいので、気は楽だった。暗中の行軍にも少しだが慣れてきた頃、さっき覚えた疑問を声に乗せる。
「ルドヴィカは……一体、どうしちゃったんだろう」
カンテラの光で柔らかに照らされたエルシリアが、横目でこちらを見やった。
「いずれにせよ、普通の状態ではなかったと思います。洗脳か、よく似た変装か……」
「変装って、いくらなんでも似すぎだろう。それに、洗脳なんて本当にできるのか?」
「できるかできないかで言えば、どっちもできます。布教なんて一種の洗脳みたいなものですし、変装だって、究極を言えば魔法第四章〈ノーフェイス〉があります」
「布教が洗脳って、僕より怖いもの知らずだな、君……。でも、そうか……魔法か」
魔法全書に纏められた十一の魔法。そのうち四つ――〈リーパー〉〈パラドックス〉〈リライト〉〈エターナル〉――まではルドヴィカによって暴かれたが、残り七つはまだどこかに潜んでいるはずだ。
魔法第四章〈ノーフェイス〉は、基本的に詳細不明な魔法の中でも特にわかりやすいもので、他者の姿を精巧に真似る変身魔法だと言われている。
「まあ今考えても仕方がありません。もし本当に魔法が絡んでいたら私ではお手上げですし」
「おい、異端審問官」
「魔法なんて冗談みたいなものを相手にできるのはルカみたいな変態だけです。それより事件のことですよ。……あなた、本当にやってないんでしょうね?」
エルシリアは隣を歩きながら、こちらを半眼で見上げてきた。
ウェルナーは溜め息をついて肩を竦める。
「僕の無実は君が一番知ってるだろ……」
「できれば知らないでいたかったです。おかげで変な言いがかりをつけられました」
「それはお互い様だ」
「あなたは感謝してくださいよ。この私が相手なんですから」
「その発言がなければ喜んだかもね」
皮肉を込めて返すと、エルシリアは不思議そうな顔をした。
「……なんだか変わりましたね。あなたって、そんな憎まれ口を叩くような人でしたっけ」
「君とルドヴィカに躾けられたんだよ。君達に出会って以来、僕は価値観を壊されまくりだ」
エルシリアはくすくすと笑いを漏らし、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「その割には楽しそうに見えますけど? もしかして女の子に振り回されると喜ぶタイプの人なんですか?」
「そっちこそ。僕のこと嫌いなんじゃなかったっけ」
「嫌いな人間とでも和やかに会話できる技術を、俗にコミュニケーションスキルと呼びます」
「そう言うとあんまり欲しいと思えないけど、確かにそうかもな……。じゃあ僕も今、コミュニケーションスキルをめきめき鍛えられてるわけだ」
「将来、大いに役立ててください。あなたって出世できなさそうな性格してますから」
大きなお世話だよ、と不満げに言って、ウェルナーはかすかに笑った。
目的地付近の駅までやってくると、降りてきた時と似たような隠し階段で地上に出た。
「あの家です」
二人で路地裏の角に潜み、通りの向こうにある家を観察する。よくある木造の三階建てで、特筆するべき所はない。
「……人の気配はないね」
「あったら今頃とっくに暴徒の餌食です」
「それもそうか」
あの家にイゾルデがいるにせよいないにせよ、中に入って確認しなければならないわけだ。
二人は人影が絶えたタイミングを見計らって通りを素早く横切り、隠れ家に接近した。ウェルナーが先行し、玄関に罠の類がないか確認する。その間、エルシリアが見張りを担当した。
何も仕掛けられていないとわかると、ウェルナーは扉のノブを握る。施錠されていた。
「どうする?」
「窓のほうが目立たないでしょう」
破壊が前提の答えだった。事ここに至ってはウェルナーも拘泥せず、二人は隠れ家の裏手に回る。
窓を見つけた。一般的な木板の窓だ。やはり施錠されている。ウェルナーは剣を抜いた。
音もなく木板が切断される。四分の一ほど残ってしまったが、通る分には支障ない。
中は台所のようだ。大きな竈がある。人影がないのを確認してウェルナーが先に入り、それからエルシリアが素早く入ってきた。
闇の中、エルシリアと目配せし合う。彼女は無言で上を指差した。少なくとも一階には誰もいそうにない。だが上の階は別だ。
エルシリアに背後を見張ってもらいながら、音を立てずにそっと階段を上る。二階は居間と寝室だ。人影どころか家具すらほとんどない。警戒しつつ一通り回ってみたが、そもそも物が少ないのでこれでは隠れようもない。
居間には上へ向かう梯子があった。エルシリアを下に残し、ウェルナーが上る。屋根裏部屋に出た。何分暗いのではっきりは見えないが、何も置かれていない空白の空間だったので、誰かいれば否応なくわかる。人影はなかった。
「……やっぱり、誰もいないな」
無人なのを確認し終えてようやく声を出す。エルシリアは思案顔で口元に指を添え、
「むしろ何もなさすぎでしょう、これは……。隠れ家としての用を果たしているかも怪しいですよ。と、すると……この家自体に意味はない?」
エルシリアの視線が足元を向く。そして「一階に戻りましょう」と彼女は言った。
二人は再び一階に戻ってくる。やはり誰もいない。切断した窓もそのままだ。エルシリアは台所をぐるりと見回し、土間に設置された竈に目を留めた。
「……ここ、でしょうか」
エルシリアは竈をどかそうとする。重そうだったのでウェルナーがそれを請け負って(珍しく素直に助けられてくれた)、エルシリアはその下の土間を手で掘り始めた。ウェルナーには彼女が何をしようとしているのかわからなかったが、何か意味があるのだろうと、一緒になって土を掻き出していく。
そして、土があらかた排除されてしまうと、
「ドンピシャです」
エルシリアが笑みを浮かべた。
土間の底から、木の扉が現れたのだ。
「隠し扉――地下室か」
「この家は、この扉を隠すためだけにある大きな蓋だったわけですね」
「事件現場と言い、『サブウェイ』と言い……最近、妙に地下と縁があるな」
「その調子でお墓の下にまで行ってしまわないよう注意しましょう」
縁起でもない。……しかし、この隠れ家の本当の意味がこの扉の向こうにあるのだと言うなら、本番はこれからだ。エルシリアの言葉は、あながち冗談とも言い切れない。
気を引き締め直し、そうっと隠し扉を開ける。
案の定、地下に続く深い穴が現れた。側面に梯子が取り付けられている。
「梯子か。ちょっと危ないな……。下りてる時に襲われたら対処できない」
「そこはあなたが身を張って何とかしてくださいよ、聖騎士さん」
まあそれがウェルナーの役目だ。特に議論はなく、先んじてウェルナーが下りていく。続いてエルシリアが梯子に足をかけ、
「わかってると思いますが、決して上を見ないように」
「え? なんで――ぶッ!」
上げかけた顔を靴裏に踏み潰された。それでようやく彼女の言葉の意味を察する。
「下から丸見えなんだな、その黒衣……」
「……そうですよね。梯子なんて使わなくても落ちたほうが早いですよね」
「ちょっ、いたっ……痛い! げしげし蹴らないで!」
気を引き締め直した端から間の抜けたやり取りをしつつ、二人は無事に穴の底に辿り着いた。
光源が皆無なので完全に真っ暗だ。二人がずっと持っていたカンテラの覆いを取ると、柔らかな光が闇を遠ざける。いちいち火打石を使っていられるとは限らないので、火を点けっ放しにして光だけ遮っていたのだ。蝋燭は予備が何本かあるので問題ない。
壁や天井を石のブロックで固められた道が、奥にまっすぐ伸びている。床は土だ。地下特有の冷たい空気が、背筋をそろりと撫で上げる。
一体何のための空間なのか……現状では予想がつかない。だが得体の知れなさで言えば魔女以上のイゾルデ・イングラシアが用意した場所なのだ。ただの地下室とは思えない。
ウェルナーはエルシリアと一度だけ視線を交わし、一歩前に出て奥に進み始める。カンテラは左手に持ち、右手には剣を握った。
動悸が早まっているのを感じた。剣を握った手にじわりと汗が滲んでいるのに気付き、顔を顰める。お願いだから滑ったりしないでくれよ――そう思いながら、先の見えない闇を進んでいく。後ろをついてくる足音だけが、ウェルナーの精神を支えてくれた。
永遠に思えるほどの時間――しかしおそらくは数分程度で、前に伸びていた道が途切れた。
(部屋……?)
中に誰かいるとしたら、自分達が訪れたことはカンテラの灯りでバレている。罠の存在を確認しつつも、半ば開き直った気持ちで部屋のような空間に足を踏み入れた。
場の空気を肌で感じ、色んな方向をカンテラで照らすと、ウェルナーは認識を修正した。
部屋ではない。もっと大きな空間だ。それこそ『サブウェイ』の駅のような……。
「見てください、ウェルナーさん。かがり火台がありますよ。薪も入ってます」
後ろでエルシリアが言った。振り返ると、確かに入口脇にかがり火台があった。
「点けますか? こういう状況はあなたのほうがプロですし、判断は任せますが」
「そうだな……」
ウェルナーは少し考えた。
「点けようか。この空間に誰かいるとしたら、この暗さは向こうが有利なばかりだ。いないとしたら、暗いままにしておく理由がない」
カンテラ内の蝋燭から紙縒りを使って火を移す。お椀状の受け皿にくべられた薪が大きく燃え上がり、カンテラより広い範囲を明るく照らしてくれた。
すると、少し奥に移動した場所にもかがり火台が置かれていた。燃える薪を一本取ってカンテラと持ち替え、そちらにも火を点けに行く。当然二人で移動し、ウェルナーは周囲の警戒を怠らない。
同じ作業を繰り返し、空間の様子が徐々に明かされていく。
丸い柱が無数に林立していて、まるで森の中だ。そのせいで狭く感じるのか、『サブウェイ』の駅ほど広くはないように思える――と、そんなことよりも、ウェルナーには気になることがあった。
「……なあ、エルシリア」
「……なんでしょう、ウェルナーさん」
「この部屋……なんか変な匂いがしないか?」
「奇遇ですね。……私も、そう思っていた所です」
ウェルナーとエルシリアは、揃って空間の奥を注視した。……奥に移動すればするほど、匂いは強くなる。匂いの源は間違いなく、あの闇の奥にある。
一〇個目のかがり火が、大きく燃え上がって闇を制圧した。
真っ黒な影が、最奥の壁で怪物のように揺れる。
影は、その手前にあるものが実体である証だ。だから、ウェルナーもエルシリアも、眼前に出現した光景を、現実のものとして認めざるを得ない。
影の本体は、一つの『山』。
漂う匂いは、その腐臭。
ウェルナーはそこに、無数の手を、無数の足を、無数の頭を――無数の身体を見る。
秘されていた地下空間の終点。そこで待ち構えていたのは――
――乱雑に積み上げられた、大量の、死体の、山だった。
「……ぐっ」
「これは、また……」
仕事柄、死体を見慣れているはずの二人が、顔を顰めて声に詰まる。一般人がこの光景を見たなら、悲鳴も上げられずに泡を吹くかもしれない。そして未来永劫、消えない傷として記憶に刻まれることだろう。
そこにあるのは、ただの物体だった。こんな扱い方をされるものが人間であるものか。彼らは魂を失ってなお、その人格を否定され続けているのだ。
死体の多くはすでに白骨化している。しかし一部はまだ肉が付いていた。比較的最近に死亡した――否、殺害されたということだ。
(……待て。あの顔は……?)
たまたま目についたまだ原形を留めている死体。朽ちかけたその顔を見て、ウェルナーの脳裏に引っ掛かるものがあった。
だが、すぐには出てこない。なんだ……? 何が引っ掛かっている? もどかしく思っていると、エルシリアが鼻と口を押さえて死体の山に近付いた。
「……この死体」
エルシリアはまだ顔つきのわかる死体の一つを見つめる。
「もしかして……でも、そんなわけが……ですけど、この顔は……」
ウェルナーもまたその死体の顔を見て――あっ、ともどかしさが解消した。
(いや、でも――)
しかし、エルシリアと同様に自分で否定する。そんなはずがない。この死体は、どう見たって死後何日か経過している――あの人の死体であるはずがないのだ。
「……ウェルナーさん」
エルシリアは別の死体を見ていた。
「あの死体と、あの死体……それにあれも。あっちのも。……似ていると、思いませんか」
似ている、どころではない。
エルシリアが指差した四つの死体――最初の死体も含めて五つ。その全部について、ウェルナーは、フルネームを諳んじることができるのだから。
ドロテア・バルディ、ステファン・バッソ、フレッド・アゲロ、ベッペ・ブラージ――そして、ダニエレ・ボネット。
全員、今回の事件の関係者だった。
だが、そんなはずはない。被害者ダニエレ・ボネットを除けば、他の四人は証人として生きて法廷に出ているのだ――こんな所で死体になっているはずがない。この死体は偽物だ。
――いや、違う。
直感が否定する。だって――
「――こんな精巧な偽物があるはずありません。あるとしても、せっかく用意した死体をこんな所で腐らせているはずがありません」
ウェルナーの思考を先回りしたように、エルシリアが言った。彼女はありもしないものを探すように、両の瞳を虚空に彷徨わせ、
「だとしたら――だとしたら。この死体が本物だとしたら――」
恐怖を帯びた震え声で、その謎を言葉にする。
「――今日、裁判で証言していたのは、誰だったの……?」
これは、気付いてはならない謎だったのではないか。
ウェルナーの脳裏に、そんな、出所のわからない危惧が走った――直後。
「そんなもの、導き出される結論は一つだろう?」
背後から声がした。
その声色に脳髄を射抜かれたようになり、二人は同時に振り返る。
柔らかに照らされた闇の空隙、その白い少女は影のように立っていた。足元までの白衣と枝毛だらけの白髪が、かがり火を赤く照り返している。
「至極簡単な解答だ。オマエにだってわかる程度の、な」
「ル、カ……」
かがり火の灯りを横ざまに浴びるルドヴィカは、不敵な笑みを口元に刻んだ。
「どうした、リア。幼馴染みが無事だったのがそんなに嬉しいか?」
「あなたは……あなたは――」
エルシリアはガリッと歯噛みし――ルドヴィカの形をしたそいつに叫んだ。
「――あなたはルカじゃない! 一体誰ですか!!」
響き渡った誰何の声に同調し、ウェルナーもまた白い少女を睨み据える。
もう騙されはしない。こいつはルドヴィカではない。よく似た他の人間だ……!
「くくっ」
白い少女は口の端から笑い声を漏らす。
「わかってるじゃないか。とは言え、まだ五〇点という所だな。わたしはルドヴィカ・ルカントーニだ。何の欺瞞もなく、何の語弊もなくな。――なあ、そうだろうウェルナー?」
自分が呼ばれたのだと、そう思った。
だが、直後に違うと悟る。
白い少女の背後から――新たな影が――闇から染み出すようにして――現れたからだ。
シルエットを目に捉えた瞬間、正体不明の悪寒が全身を粟立たせた。見てはいけない。だが、見なければならない。相反した欲求が自分の中でぶつかり合い、軋みを上げている間に、そいつは灯りの中にその全容を曝け出す。
高めの背丈。切り揃えられた茶色い髪。腰に剣を佩いた――少年騎士。
どうして、とは思わない。
ウェルナーはきっと、心のどこかで察していた。
そう――荒れ果てたルカントーニ邸で、こいつの声を聞いたあの時から。
いつか、対峙せねばならないのだろうと。
いつか、直視せねばならないのだろうと。
「よう――元気そうだな、オレ」
そいつは口の端を上げ、不快さを喚起する声を発する。
そこにあるのは、決して鏡ではない。
闇から現れたのは――もう一人の、ウェルナー・バンフィールドだった。
「ウェルナーさんが、二人……?」
エルシリアが二人のウェルナーを頻りに見比べる。
まったく同じ人間が二人存在する、という異常。理屈では現実だとわかっていても、やはり直感が混乱するのだろう。当のウェルナーは、混乱こそしていないが、別の感覚が頭の中でざわめいていた。
「……ドッペルゲンガー、っつったか?」
偽ウェルナーは苛立たしげに片眉を上げる。
「自分の分身を見たら死ぬって都市伝説。……死にゃあしねぇが、あながち間違いでもねぇな。自分自身を他人として見るってのは、死にたくなるくらい不快だ」
ウェルナーもまったくもって同感だった。
その姿。その顔。その声。相対するそいつの、ありとあらゆる要素が気に喰わない。今すぐ殴りつけたくてしょうがない。やはり、ルカントーニ邸での謎の声はこいつだったのだ。
「なんなんですか……」
低い声で、エルシリアが問いを放つ。
「あなた達は、一体なんなんですか! どうしてそんなにもそっくりなんですか!」
「思いつかないか? 信じられないか? ……だとしたら、答えは一つだろう」
挑発的なルドヴィカの言葉に、エルシリアは歯を軋ませた。
「……魔法」
忌々しさを声に宿し、彼女は言う。
「おそらくは――第七章〈ルーラー〉」
●魔法第七章〈ルーラー〉
神を僭した支配の法。人為は偽り。故にこそ真。
「よくできました」
にやりと、偽ルドヴィカは頬を裂いた。
「魔法第七章〈ルーラー〉――その効果は見ての通り、『人間の複製』だ。しかも、人格面に細工を施し、特定の感情を増幅したり削除したりできる――くっくくく! あの女らしい悪辣な魔法だろう?」
(あの女、だって……?)
偽ルドヴィカの言葉に刺激され、ウェルナーの脳髄に思考が閃く。
人間を複製する魔法。そんなものを持つのだとしたら、法廷で死んだのは……!
「イゾルデ……なんですね」
エルシリアが、確信の声音で、告げた。
「イゾルデ・イングラシアが、第七魔女〈ルーラー〉なんですね!?」
「ご明察」
偽ルドヴィカはあっさり認める。そんな真実に、今更価値はないとでも言うかのように。
「ここまで知れば、オマエにだってわかるだろう、リア? オマエが必死こいて証拠を集めたあの事件が、なんだったのか――」
ギギ、と、エルシリアの歯が鳴った。
改造を施した複製人間を生み出す魔法〈ルーラー〉、背後に積まれた事件関係者達の亡骸、イゾルデこそが魔女であるという事実――ここまで情報が揃えばウェルナーにだってわかる。
「お察しの通り!」
芝居がかった仕草で、偽ルドヴィカは告げた。
「犯人、被害者、被告、証人、弁護人、裁判長、傍聴人! あの法廷の――あの事件のすべてが! イゾルデ・イングラシアこと第七魔女〈ルーラー〉に用意された舞台だったのさ!! わたし達はそのキャストに過ぎなかったんだよ!!」
誰が犯人か、真実はなんなのか――そんな次元で戦っている限り、勝機などなかったのだ。
すべてが、偽り。
しかし、真実。
〈ルーラー〉によって完全に支配された舞台の上を、踊っているだけでしかなかった……。
「いやあ、ははは!! オマエの道化ぶりは実に見物だった! よくもまあ、あんなでっち上げを思いつくものだ!! 事件そのものが作り物だとも知らずになあ!! くッきアはは!!」
エルシリアは額を押さえ、見開いた目で床を見つめていた。同じステージに立ててすらいなかった――その事実に、絶望するように。
ルドヴィカの紛い物は、そんな彼女を痛めつけるように嘲笑し続ける。それは、エルシリアと本物のルドヴィカ、両方を貶める行為だった。だから――
「知ったことか」
ウェルナーは、エルシリアを庇うように間に入り、剣を抜く。
「作り物だろうがなんだろうが――ここでそっちの偽物を捕えれば、僕の濡れ衣は晴れる。ただそれだけのことだろう」
剣の切っ先は、自らの複製へ向けて、ひたと。
偽ルドヴィカは眉をひそめ、再び口を開きかけた。だがその前に、ウェルナーを真似るようにして偽ウェルナーが前に出る。
「たまにはいいことを言うじゃねぇか」
口元には、本物とは似ても似つかない獰猛な笑み。
「そうだ、斬り合って勝ったほうが勝つ。単純でいい。事件がどうこう、真実がどうこうなんてのはお利口さんだけでやってやがれ」
「オイ、ウェルナー! キサマ、わたしの許しもなしに――」
「死にたくなきゃ退がってな」
偽ウェルナーに額を小突かれ、偽ルドヴィカは尻餅をつく。彼女は強く舌打ちし、「勝手にしろ」と吐き捨てた。
「やる気が出るよう、こっちの目的を教えておいてやるぜ」
偽ウェルナーが剣を抜き――ウェルナーの後ろに向けた。
「オレ達の目的は、エルシリア・エルカーンの抹殺。オレ達の大将――イゾルデの奴が、もう用済みだと仰せでね。生かしておいても邪魔でしかねえってわけだ」
ウェルナーは表情を険しくし、剣の柄に左手を添えた。拒絶するように切っ先をまっすぐ据えながら、背後に向けて言う。
「エルシリア、考えるのは後にしよう」
「…………」
「あいつらを、何としてでもここで捕まえる。それから、不出来な偽物で僕と君の友達を汚したイゾルデに報いを受けさせればいい。そうだろう?」
少しの間、空白があった。
「…………はい」
答えは、ぽつりと呟くように。
「あなたの見た目に似合わない馬鹿力だけは、私、信用してますから」
「そいつはどうも」
微苦笑と共に返すと、正面の偽物が口笛を吹いた。
「少し見ねぇうちにずいぶんと仲良くなってんじゃねぇの。やっぱりあれか? 危険な状況に置かれた男女は、恋愛感情が芽生えやすいってヤツ――」
「軽口はそこまでにしろ。複製の癖に似てなさすぎるんだよ、お前」
「結構なことじゃねぇか、お互いによ――何せ余計な躊躇をしなくて済む」
ビリッ――と、不意に緊迫感が漲った。
戦闘態勢に入った二人の気迫が、中点で衝突して火花を散らす。
合図は不要だった。
同一人物たる二人は、完全に同じ論理をもって、完全に同じ計算をし、完全に同じタイミングで――
肉迫した。
「「!!」」
至近距離で視線が衝突する。あまりにタイミングが重なりすぎたためにお互いに虚を突かれ、コンマ一秒の硬直を揃って許す。達人でなければ認識もできない空白の後、白刃が同じ速度で閃いた。それこそ複製したかのような二つの軌道は、その終端において自らの分身に出会い、甲高い音だけを残して弾き合う。
ウェルナーは弾かれた反動を殺さずその場で回転した。遠心力を乗せた横薙ぎの一撃――と見せかけて、足払いを放つ――ような素振りを見せたが、これもフェイントだ。相手が踏ん張った所に本命の斬撃をお見舞いする――予定だった。
またしても金属音が響き、長剣が弾かれ合う。偽ウェルナーもまた同じフェイントを挟んでいたのだ。結果として、またしても同タイミングで斬撃がかち合った。
お互いに舌打ちし、打ち合わせたかのように間合いを取る。
構え直して相手を見据えながら、ウェルナーは薄気味悪く思っていた。
人格がこんなにも違うのに、騎士としての実力は完全に同じ。それだけではなく、思考までもが見事なまでに被っている。まるで鏡像と戦っているような気分だ。
このままではまず間違いなく決着がつかない。実力も思考回路も同じ敵を相手に、如何にして差をつけるか。これはそういう戦いだった。
体調、装備、それに精神状態。自分と相手にどんな差がどのくらいあるか――それにいち早く気付いたほうが勝つ。
ウェルナーは不快さを堪え、じっと偽物を観察した。装備にさしたる違いはないように思える。一見でわかる彼我の差は、やはり表情だ――鏡で確認したことはないが、ウェルナーはあんな風に、余裕を見せつけるような笑い方はしない。少なくとも今はしていない。
「突破口は見つかったか?」
偽ウェルナーが挑発するように言った。
「せいぜい足りない頭を使うんだな。……おっと、てめえにゃ無理な相談か」
「頭の出来はお前だって――」
言い返そうとした、まさにその瞬間。
偽ウェルナーが、至近距離に踏み込んでいた。
ウェルナーは慌てて長剣で斬撃を防ぐ。が、手応えが弱い。陽動だ。片手で剣を振るっていた偽ウェルナーは、空いたもう片方の手でボディーブローを叩き込む。
「――そうだ、同じだ」
身体がくの字に折れた所を膝蹴りが襲った。顎をしたたかに打たれ、ふっと意識が揺らぐ。
「てめえがオリジナルで、オレがレプリカ」
近すぎて剣は使えない。代わりに激烈な肘鉄が放たれ、
「それでも」
衝撃が背中に抜けて、
「――てめえより、オレのほうが強い」
ウェルナーの身体が飛翔した。
かがり火台を巻き込み、エルシリアの横を通過して、何かの中に突っ込む。鼻が曲がるほどの腐臭と、ガシャガシャと何かが崩れ去る音で、ウェルナーは自分の状態を察した。
(これ……死体の山!?)
ウェルナーは部屋の奥に積み上げられた死体の山に突っ込んだのだ。反射的に怖気が走る。しかし吐いている暇はない。早く外に出て、視界を確保しなければ――
直後、ウェルナーはその異常に気付いた。パキパキと何かが弾ける音――そして、
(熱い……!?)
即座に状況を察する。巻き込まれて一緒に突っ込んだかがり火から死体に火が燃え移ったのだ。こんな地下空間で火事にでもなったらあっという間に煙に巻かれて死ぬ……! 消火のためにも急いで這い出そうとしたウェルナーだったが、
バッゴン!! と――その前に、弾けたように視界が開けた。
「よお――死体のベッドの寝心地はどうだった?」
死体の山を暴力的に吹き飛ばした偽ウェルナーが、眼前で、剣を振り被っている。
ウェルナーは半ば以上勘で背中を逸らした。振るわれた剣先が薄皮一枚、喉を裂く。命を拾った。そう考える傍ら、間合いを取って仕切り直そうと身体が動く――しかし。
「どうしてオレのほうが強ぇのか、教えてやろうか」
鋭く伸びた偽ウェルナーの左手が、ウェルナーの胸倉を掴んだ。
「それはな――てめえが、自分を信じてねぇからだよ!!」
目の前に火花が散った。
偽物が全力でウェルナーの額に頭突きを喰らわせたのだ。
お互いの額から血がしぶく。だが、それで隙を晒したのは本物たるウェルナーだけだった。複製人間は口元に伝った血を舐め取る余裕すら見せて、
「なあ、オリジナル――オレは前に訊いたよな? 『てめえは本当に、助けになるべき人間を見定めたのか』ってよ」
足裏がウェルナーの腹にめり込み、掴まれた服が破れた。壁に叩きつけられ、呼吸が止まり、それを取り戻す暇もなく――
「この期に及んで、てめえはまだその答えを示してねぇ。だから遅れを取るのさ」
偽ウェルナーが肉迫して、顔面に向けて刺突を繰り出した。ウェルナーは散り散りになった意識を掻き集め、首を傾けることでギリギリかわす。
「もう一度訊いてやるよ――ウェルナー・バンフィールド。てめえは本当に、エルシリア・エルカーンを――平気で人を冤罪で殺すあの女を、助けてやりてぇと思うのか?」
「――そんなのッ……!」
法廷での冷徹な彼女が一瞬脳裏にチラつき、ギリ、と歯を軋ませる。
「お前だって、同じだろ! 帝都をこんな状態にしたイゾルデに協力している癖に……ッ!!」
「ああ、そうだな。だが、オレはもうとっくに決めている――イゾルデ・イングラシアには助ける価値がある。何より、オレがそう感じている!」
ギャリッ! と顔の横に刺さった剣が滑った。ウェルナーを壁ごと割れたヤシの実のようにしようとするそれを、咄嗟に屈んで回避する。髪の毛が数本持っていかれて痛みが走った。
「どうかしてる……!!」
「ははっ! そうだろ!? どうかしてんだ、ウェルナー・バンフィールドって人間は!!」
剣より速いと考え、ウェルナーは左で拳を放った。岩すらも砕きかねない威力のそれは、しかし読まれていたかのように掌で受け止められ、衝撃だけを周囲に撒き散らす。
「オレはてめえで、てめえはオレだ。改造されてるとは言え、てめえの中にないものはオレの中にもねえ――この意味がわかるか?」
「……っ!!」
「てめえだって、一歩間違えればオレになってたってことだよ――いや、もうとっくになっちまってるかもなァ!? 何せあんな性悪女を気にかけちまってんだから!!」
瞬間的に胸の中で灼熱が渦巻き、ウェルナーは刺突を放った。偽物は拳を放して距離を取り、悠々と刺突を回避したが、あまりの威力に撹拌された大気がその全身を煽る。一〇メートルは余分に距離が空き、だがウェルナーは直後にその間合いを消し去った。
ウェルナーの追撃は長剣に迎い撃たれる。鍔迫り合いながら、偽ウェルナーは唇を曲げた。
「おいおい、怒ったのか? らしくねぇな。温厚なのがてめえの取り柄だろうが」
「彼女は、違うんだよ……っ!!」
剣にさらなる力を込めながら、
「帝都をこんな風にする奴とは、全然違うんだ! 一緒にするなッ!!」
「いいや、一緒だね!!」
偽ウェルナーもまた押し返し、
「むしろ訊きたい! 一体何が違う!? 他人を貶めることを何とも思わねぇって点に関しちゃ、まったく同じだろうが!!」
「違うッ!!」
「違わねえッ!!」
ギャリッ!! と一際高く刃が鳴り、二人はお互いを弾き合った。
火が移った死体がそこら中に飛び散り、空間全体を赤く燃やしている。その中央で、二人は一歩あれば充分な間合いを空けて、床に長く黒い影を落とした。
「てめえはさっきから違う違うと繰り返すだけで、オレの問いにこれっぽっちも答えてねぇ」
見下げ果てたような調子の声に、ウェルナーは咄嗟に言い返せない。
「はーあ。がっかりだぜ――
言葉を返す代わりに、ウェルナーは足を踏み出した。
一歩先んじた。そう確信する。喋ることにかまけて、相手はまだ動けていない――!!
選択は刺突。最も防ぎづらい攻撃。ぺらぺらとよく働くその喉を、ウェルナーは容赦なく貫きにかかる――
「オレはてめえで、てめえはオレだ」
――その、寸前。
極めて余裕ある動きで、偽ウェルナーは横に回避した。
「だからこういう時、てめえがどう行動するかも、簡単にわかるぜ」
(まずっ――)
冷感が背筋を貫く。それは殺意の触覚。確定的な死の予感。
刺突を完全に外したウェルナーは、敵にこれ以上なく無防備な姿を晒している。
視界の端に、偽ウェルナーが刺突の姿勢を取ったのが見えた。狙いもわかる。喉だ。ウェルナーがやろうとしたことを、そのままやり返そうとしている。
回避は不可能だった。それでも命を拾おうとした。無理やり身を捻り、どう考えても間に合わない剣の代わりに、左腕を――差し出す。
左下腕を、鮮烈な熱が貫いた。
真っ赤な飛沫が炎の光に舞う。腕を貫いた剣先は筋肉に堰き止められ、喉までは届かなかった。それでもウェルナーは背中から倒れ――ようやく、激痛が追いついてくる。
「――ぁ――がッ――!!」
悲鳴すら上げられない。左腕の激痛は言うに及ばず、それ以上に――
(……負け、た……?)
偽物に敗北した、というその事実が、重く重く圧し掛かってウェルナーを打ちのめす。
――これじゃあまるで、こいつのほうが正しいみたいじゃないか。
――これじゃあまるで、僕のほうが偽物みたいじゃないか。
真上から見下ろしてくる自分と同じ顔は、憐憫の表情を浮かべていた。
「あばよ、ウェルナー・バンフィールド――あとはオレに任せて、ゆっくり眠っとけ」
ウェルナーの目は、振り上げられる剣ではなく、自然と彼女のほうを向いていた。
炎に赤く照らされていてもわかる蒼白な顔で、こちらを見ている黒衣の少女。
(僕は、結局……彼女の何を、守りたかったんだろう)
最後まで、曖昧なまま。
それでも、内から湧き上がる欲求に従い――三音の言葉を、絞り出した。
「…………逃げ、ろ…………」
◆ ◆ ◆
――逃げろ、と。
蚊が鳴くようなか細い声で、しかしはっきりとウェルナーがそう言ったのを、エルシリアは聞き逃さなかった。
腕を貫かれ、力なく地面に横たわり、己が死を前にして――それでも、他人のために。
――― わたしがいなくなっても、ずっと仲良しでいてね ―――
……どうしてあなた達は、そんな生き方ができるの?
あの時だって、あなたにはもっと他に言いたいことがあったはずなのに。痛いとかつらいとか、色んなものが胸に詰まっていたはずなのに。
私達は、それを吐き出させてあげることすらできなかった。
あなたには、泣いて叫んで、助けを求める権利があったはずなのに――そんなものすら、私達は与えてあげられなかった。
そういう、当然にあるべきものごと、あなたは笑って踏みにじられたんだ。
どうしてそんな生き方ができるのか。
どうしてそんな生き方をさせてしまったのか。
その後悔が――復讐心と一緒に、ずっと燃え盛っている。
忘れないように。惑わないように。
あの時の無力な自分を、誰よりも早く踏みにじってやるために。
そう、最初からわかっている。
一番最初に殺すべきは、仇などではなく、弱かった自分自身なのだと。
だから――
「――ここで尻尾を巻いたら、あの時に逆戻りなんですよっ……!!」
エルシリアは一歩踏み出し、黒衣の中からあるものを取り出す。
円柱状の筒。底面には紐でできた輪があり、エルシリアはそれを躊躇なく引っ張った。底が抜ける。底面には土がへばりついていた。底が抜けた筒を即座に偽ウェルナーに放り投げ、エルシリア自身は両耳を塞ぐ。
偽ウェルナーが振り返った直後に、それは起爆した。
光や炎ではない――撒き散らされたのは、音。
世にもおぞましき悲鳴だった。
マンドラゴラ音響手榴弾――異端審問官が異端者鎮圧用に携帯している武器の一つだ。
精神侵蝕効果を持つ大音響をまともに受けて、偽ウェルナーと偽ルドヴィカが揃って怯む。
その隙にエルシリアは走った。ウェルナーのもとまで行き、両脇に腕を入れて引きずっていく。
燃えた死体がそこら中に飛び散ったせいで、地下空間内は悪臭と共に煙が充満していた。それが視界を遮ってくれるのを期待して、エルシリアは無数に林立する柱の陰にウェルナーを引っ張り込む。
真っ先に腕の傷を確認した。完全に貫かれている。だが傷口は極めて鋭い。彼は聖騎士だ、完治は不可能ではないだろう。
とにかく止血しようと、肌着の裾を引き裂いた。
「……どう、して……」
二の腕に布をぐるぐる巻きつけながら、たわけたことを言っている馬鹿男に言ってやる。
「本物のあなたが死んだら、どうやって複製人間の存在を証明するんですか。あなたに死なれると、イゾルデの告発が難しくなるんですよ」
ウェルナーはかすかに笑った。それが何の笑いなのか、考える余裕はエルシリアにはない。
「ははは、健気だな!」
煙の向こうから、嘲りを含んだ偽ルドヴィカの声が響いた。
「そんなに復讐が大事か!? いっそ感動さえ覚える怨念だ!」
「うるさいんですよ、偽物が!! 人形は人形らしく、大人しくしていたらどうです!?」
「偽物ぉ? ……くっくく……アッはははははははははははははははははははッ!!」
聞き慣れた声で、聞き覚えのない哄笑が炸裂する。それはどこか、不吉な響きを帯びていた。
「偽物! 偽物か! 確かになあ、わたしは偽物だよ。ルドヴィカ・ルカントーニの複製だ!! ……だがなあ、リア――それはお互い様だろう?」
え? と、思考が空白で埋まった。
――― お互い様 ―――
決して大きくはない声で紡がれた言葉が、
――― お互い様 ―――
なぜだか頭の中で繰り返し、
――― お互い様 ―――
反響、
――― お互い様 ―――
する。
(お互い……様? それって、どういう……)
ウェルナーがハッと何かに気付いた顔になり、
「聞いちゃダメだエルシリア! 耳を塞ぐんだ!!」
剣を手放し、右手を伸ばしてくるが、エルシリアにはもう、その姿すら見えていない。
「ほんっと、都合のいい仕組みだよなあ、オマエの脳味噌は。少し頭を使えば辿り着くはずの真相を、自分に都合が悪いからって気付かない振りをするんだからなあ!!」
煙の向こうからやってくる偽ルドヴィカの声だけが、頭の中を支配して、
ぐいっ――と、
耳を引っ張られるまで、
彼女の接近にも、気付かなかった。
幼馴染みの紛い物は、耳に声を流し込むように、囁く。
「犯人も被害者も被告も証人も弁護人も裁判長も偽物なのに――どうして自分だけ本物だと思うんだ?」
◆ ◆ ◆
――パキリ、と。
何かに亀裂が入る音を、確かに、ウェルナーは聞いた。
「思えば、他の誰よりも怪しい立ち位置じゃないか。イゾルデの弟子にして、作られた法廷の『悪役』、最重要ポジション! そんな役どころが、どうして『仕込み』だと思わない?」
ピキ、パキ、ポキ。
音は、偽ルドヴィカが声を流し込むたび聞こえてくる。
「思い出せよ。昔のオマエはどんなヤツだった?
それは、目の前の少女が壊れる音。
その心に入った亀裂が、蹂躙するように広がっていく音。
「さあ、おさらいだ。覚えているよな? 魔法第七章〈ルーラー〉は人間を複製するだけでなく、その人格を改造できる! ほら考えろよ!! これらの事実が導き出す真実はなんだ!?」
自分の人生、手に掛けた無辜の命――すべてを犠牲にした復讐心。
それが、実は――
「――全部、憎い仇に植えつけられた紛い物だったんだよ!! エルシリア・エルカーン、オマエは魔法で作られた偽物だ! 本物はとっくに死んでいる!!」
ガラスの割れるような音が、けたたましく響き渡ったような気がした。
「――ァあァああぁああああああぁあぁぁァアああぁああっあああアアアァアアアあああああァァああアあああアあああッあアァアああッあああアアアアアあああアああアアあッッッ!!」
甲高く迸ったそれは、断末魔だった。
エルシリアは脳を引き裂こうとするかのように頭を掻き毟り、その場に崩れ落ちる。
崩壊――だった。
一人の人間が、完膚なきまでに、瓦礫となって崩壊するのを、ウェルナーは間近で目撃した。
「はッ――はッははははははははははははははははははははッッ!!」
崩れ落ちたエルシリアを見下ろし、偽ルドヴィカが誇らしげに哄笑する。
「今度もわたしの勝ちだな、リア!! オマエは真実に屈服した!!」
元々ないものは複製できない――偽ウェルナーのその言を容れるのなら、彼女もまたルドヴィカの一側面ではあるのだろう。
ルドヴィカの信念の暗黒面。否定しようのない裏側。この考え方に、かつてはウェルナーも賛同し、力を貸した。
だが。
「……離れろよ」
ウェルナーは、立ち上がる。
左腕の痛みも無視して、立ち上がる。
「彼女から……離れろ」
「んん? オイオイ、話を聞いてなかったのか?」
偽ルドヴィカが呆れたような目を向けてくる。
「コイツは偽物だったんだよ。復讐心を増幅された複製で――」
「離れろって言ってるのが聞こえないのかッッ!!」
憤怒の大音声が大気をビリビリと震わせた。
硬直した偽ルドヴィカを、ウェルナーは右手でぞんざいに突き飛ばす。彼女はあっさりと地面に倒れ、怯えを含んだ目でウェルナーを見上げた。
ウェルナーはもう、そちらには頓着しない。頭を抱えて蹲る黒衣の少女に歩み寄り、跪いた。
(ようやく……わかった)
どうして、彼女を助けようと思うのか。
それは、正義とか信念とか、そんな難しいことではなく――
弱く。
繊細で。
間違いながらもひたむきな。
ウェルナーなどより、ずっと正直で真面目な彼女に。
――ただ、憧れていただけなのだ。
(だったら……僕のやるべきことは、決まってる)
考えろ――そして怯えるな。
ただ、自分のありのままを――
彼女に。
目の前にいる、『彼女』に。
◆ ◆ ◆
沈んでゆく無限の深淵。堕ちてゆく底なしの闇。感覚はすでに虚無で、落下感だけが止め処なく私を分解する。じき、手も足も身体も心も、すべてが虚無に還るだろう。
死ぬ、というのはこういうことなのだろうか。私が手に掛けた二十二人も、こんな感覚の中消えていったのだろうか。
なんて、寂しい。
光にすら見放された究極の孤独。潰れてしまいそうな心細さ。あまりに独りで……ああ、泣いたって見られることもない。
でも、どうでもいいことだ。どうせこれも紛い物――全部全部、植えつけられた偽物だったんだから。
……くだらない。本当にくだらない。
私は今まで、何をしていたんだろう。大事な時間を湯水のように注ぎ込んで……それで成したのは、無実の人々を貶めて殺しただけ。本当に殺したい相手とは戦えてすらいなかった。
結局、私はただの凡才だったんだ。
ルカのような天才でもなく、イゾルデのような異常でもなく――ただただ普通の凡才で、だから、彼女達と同じステージに上ることもできなかった。
(……がんばった、つもりだったのになあ……)
未練のような思惟が、砕けて闇に溶けていく。
努力したって届かないものはある。口にすれば簡単なのに……気付くのが、遅すぎた……。
身体から次々と剥がれて消えていくきらきらした何かに、私は手を伸ばす。
手の中は、結局は空白で。ただ血に塗れただけで。
ああ――納得だ。
血塗れの手じゃ、掴めるものも掴めない。
きらきらした何かは、指に引っ掛かることすらなく、闇の向こうへと、溶けて消えた――
――瞬間。
伸ばした手が、暖かな何かに掴まれる。
落下感が消えた。
剥離したきらきらが周囲に留まった。
消えていたはずの感覚が復活し、闇の中にわずか、シルエットが浮かび上がっている。
「『君』は、ここにいる」
シルエットが言った。
「複製だとか偽物だとか、そんなの知ったことか。誰が何をどう言おうと――」
曖昧だった輪郭が像を結んでいき、彼の姿をかたどった。
「――僕は、『君』の姿を尊いと思ったんだよ!!」
真っ暗闇の世界で、ウェルナーさんが、私の目の前に立っている。
目の前に立って、私の手を、握っている。
「ここにいるのは他の誰でもない、『君』だ! ここにいるのが『僕』であるように、ここにいるのは『君』なんだ!! そして僕は、『君』をこそ守りたいと思ったんだ!!」
ウェルナーさんの叫びが、波紋となって闇に広がっていった。
その波紋の中心で……彼は、私の手を取ったまま跪く。
「君が折れそうになったなら、僕が並んで支えよう」
どこまでも真摯に。
「君が止まりそうになったなら、僕が引っ張って連れていこう」
誰よりも力強く。
「何も、全部一人でやらなくたっていいんだ。過去も、復讐も、罪悪も――重くて背負い切れないなら、僕が一緒に背負ってやる」
だから――と言って、ウェルナーさんは、私の手の甲に唇を近づけた。
それは、忠誠の儀式。
騎士にとって最上級の誓い。
それでも彼は、欠片も迷うことなく、確固たる声音で告げる。
「――この剣を預けよう、我が主君よ」
手の甲に唇が触れた瞬間、闇を光が塗り替えていった――
気が付いて、まず最初に感じたのは苦しさだった。
見ると、ウェルナーが身体をぎゅっと強く抱き締めていて――それはまるで、エルシリアを捕まえているような格好だった。
エルシリアは、自分の頬を熱い雫が伝っているのに気付く。
ぼろぼろと、はらはらと、貯め込んでいた分を解放したように、止め処なく。
こんな風に泣いたのは、一体いつぶりだろう。
この涙は、怒りでも悲しみでも悔しさでもなく、思い出すためのもの。
心を覆った錆を洗い流すための、浄化の涙だった。
「……いいんですか?」
囁く声は、震えを帯びて。
「私……きっと、すごく重いですよ?」
それでも、背負うと?
それでも、支えると?
その問いを発すること自体、あまりにも現実味がない。……だが、同時に確信もする。
彼ならば、こう答えると。
「上等だ」
ウェルナーは力強く告げた。
「重いものを持つのが、男の仕事だろう?」
エルシリアは涙を流したまま、くすり、と微笑を漏らした。
「――ッは! ははははは!! ははははははははははは――――ッ!!」
嘲りの哄笑が横合いから聞こえてくる。
偽ルドヴィカが立ち上がり、お腹を抱えていた。
「さすがだよ……ああ、さすがだよウェルナー!! そう言えばわたしの時もこんな感じだったよなあ!! 女を言いくるめるのは大の得意というわけだ!!」
ウェルナーが何か言い返そうと口を開きかけ、それをエルシリアがさらに密着することで制した。
エルシリアはウェルナーの胸の中に収まったまま、
「嫉妬は見苦しいですよ。悔しかったら――」
おもむろにウェルナーの顔を両手で掴む。そして目を丸くする彼の顔を強引に引き寄せ、
唇を重ねた。
のみならず、唇の間から舌を捻じ込む。やり方なんて知らなかったがほぼほぼ勘で、舌を絡ませ唾液を交換した。
「……!? っ!? ~~~~っ!?」
戸惑うウェルナーを押さえつけて口の中を蹂躙し、呼吸が苦しくなってきた辺りで「ぷはっ」と口を放す。粘ついた唾液が二人の唇の間で糸を引いた。
そして、偽ルドヴィカに笑いかける。
「――このくらい、してみることですね」
妖精のような美貌が見る見るうちに赤く染まっていく。それは羞恥ではない。憤激だ。予想通り、この紛い物はウェルナーへの感情に細工をされている。きっとウェルナーを犯人として追いつめるためのチューニングだろう。感情の削除ではなく増幅をもって攻撃性を付加する辺り、イゾルデがやりそうなことだ。
「こっ……こっ……こッ―――コイツを、コイツらを殺せッ!! ウェルナぁあぁああああああああああああああああああああああああッッ!!」
「やれやれ……わかってるっつーの」
絶叫を受け、偽ウェルナーが近付いてきた、その時だった。
「――まったくもって、見苦しい限りだな」
まったく違う方向から声が飛んできた。
偽ルドヴィカのそれに似ているようで、まったく異なる――声が。
ゴッ!! と不意に豪風が吹きすさび、充満していた煙が散らされた。
丸い柱が無数に林立する地下空間。
その入口に、彼女がいた。
純白の長い髪。薄汚れた白衣。サファイアのような碧眼に、妖精めいた美貌。小柄ながらも圧倒的な存在感。
何より、偽ルドヴィカを射抜く鋭い視線が、彼女がルドヴィカ・ルカントーニであることを告げていた。
彼女の背後には二人の男性が控えている。一人はジルベルト・ビェーラー。ルドヴィカに仕える壮年の執事だ。そしてもう一人は――
「あ、兄上……!?」
ディープキスの衝撃から復帰したウェルナーが、その人物を見て瞠目する。
最後の一人は、屈強に鍛え上げられた大柄な騎士。ウェルナーの兄にして、帝国騎士団最強の呼び声高い聖騎士、ヴィクトル・バンフィールドだった。
彼の厳格な視線が偽ウェルナーが貫いている。終始余裕を崩さなかった偽ウェルナーが、たったそれだけで冷や汗を流した。
二人の男を従えた本物のルドヴィカが、無造作とも言える足取りで歩き出す。
「こんなものがわたしの複製だとはな」
忌々しげな視線は、自らの模造品へ。
「作るなら作るで、もう少し精巧に作ってほしいものだ。これでは贋作としての価値もあるまい」
「……たかがオリジナルが」
複製人間は己を鼓舞するように不敵に笑う。
「キサマなんぞただの鋳型でしかない。本物だから優れているとでも思うのか? たとえ偽物であろうと――」
「何か勘違いしているようだが」
対して、ルドヴィカは笑みを浮かべなかった。
ただただ無感動に、己が複製に声を放る。
「誰が紛い物と競ったりするか。オマエはここで処分されるんだよ、不良品」
瞬間、偽ルドヴィカの顔が複雑に崩壊した。
憤怒、憤激、激発、激昂――様々な怒りの形がそこに煮しめられ、表現し切れずに破綻する。
「ウェルナァあぁあああッ!! 全員殺せッ!! ヤツも、リアも、全員ぶッち殺せえッ!!」
爆発する偽ルドヴィカに対し、偽ウェルナーの様子は冷めていた。
「……残念ながら、そいつは無理な相談だ。ここは撤退だぜ。兄上相手は分が悪すぎる」
「知ったことか!! 人殺しがオマエの仕事だろうが!! いいからつべこべ言わずに――」
言葉は、最後まで続かなかった。
なぜなら。
その小さな胸から、長剣の切っ先が生え伸びたからだ。
こふっ、と口から血を漏らし、偽ルドヴィカは、ゆっくりと背後を振り返る。
「ウェル、ナー……オマ、エ……!!」
「あんたの言う『ウェルナー』は、オレじゃなくてオリジナルのほうだろう?」
皮肉に唇を歪めた偽ウェルナーが、偽ルドヴィカを背後から長剣で突き刺していた。
「悪く思うな。裁判が終わった時点であんたも用済みだったんだ」
「オマエ……オマエ……!! 二ヶ月前、は……!!」
「それはもう終わった話だ。今のオレが守ってるのはイゾルデの奴でな」
違う、とエルシリアの耳元でウェルナーが呟いた。
「違う――こんなのは、僕じゃない」
であれば、この人と彼は、もう違う人間だ。
少し前のウェルナーであれば、あれも有り得た姿だったのかもしれない。だが今はもう違う。同じものから分岐した、まったく違う二人の人間。
ずるり、と剣が引き抜かれると、偽ルドヴィカは力なくその場に倒れ伏した。赤い血だまりが地面に広がっていく――どう見ても、助かる傷ではない。
偽ウェルナーは平然と剣を血振りし、鞘に納める。
「こいつの死体は勝手にしな。死体でも、人間複製魔法の実在を証明するにゃ充分だろ。その代わり、オレはトンズラさせてもらうがな」
「――許すと思うか」
ヴィクトルが重々しい声を放ち、身の丈以上ある大剣を抜いた。
偽ウェルナーは飄々と肩を竦め、
「許してもらうしかないな。でないと命がない」
「当然だ。弟を貶めた罪、この場で支払ってもらう――!!」
ヴィクトルが地面を震わせて飛び出すと同時、偽ウェルナーも動いた。
納めた剣は、やはり抜くことなく。
足元に倒れた偽ルドヴィカの死体を、鋭く真上に蹴り上げる。
その行動に、誰もが虚を突かれた。生まれた一瞬の空白で偽ウェルナーの思惑は達成される。
蹴り上げられた偽ルドヴィカは、小柄とは言え一人の人間。その重量は、砲弾としての役目を果たすのに十二分だった。
人型の砲弾を撃ち込まれた天井が、けたたましく瓦解する。粉塵が瞬く間に視界を塞いだ。
「――殺しに来い、ウェルナー・バンフィールド」
一寸先も見えない土色の闇。その彼方から声が届く。
「どっちが本当のウェルナーか――次こそケリをつけようじゃねぇか」
直後、ヴィクトルが大剣を振るったのだろう、豪風が吹き荒れて、粉塵は飛び散った。
跡に残っていたのは、天井に空いた巨大な穴と、散らばった瓦礫――そして、無残な有り様となった偽ルドヴィカの死体だけだった。
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