第一幕 たとえどんなに正しくても


 今日の帝都は朝から雨が降り続いている。

 だが、この街は雨程度では休まない。店の外では、傘を差した人々が早足で行き交っていた。

 本来なら、ウェルナーもあの中に混ざらなければならない。何せ平日なのだ。監督官が外れ、準聖騎士から少聖騎士になって二ヶ月ほど経つが、まだまだ新人の域は出ない。何の仕事だろうと、新人は働くものである。

 だが、今日は例外だ。理由は目の前にあった。


「オマエには雨が似合うなリア。じめじめしている所がそっくりだ」

「いえいえ、あなたほどじゃありませんよルカ。カビにでも転職されたらどうです?」


 右にいるのが、純白の長髪と丈の長い白衣が特徴的な少女、ルドヴィカ・ルカントーニ。長い白髪は相変わらずぼさぼさだが、不健康なくらい白い肌やサファイアのような瞳は、雨下の薄暗さの中でも輝くようだ。


 左にいるのが、漆黒の長髪と影みたいな黒衣の少女、エルシリア・エルカーン。流麗な髪に整った顔立ち――見目麗しさで言えばルドヴィカにも引けを取らない。ただ一つ違うのは、彼女はたぶん、きちんと手入れをしているだろうということだ。


 この二人が左右に並んでいるのを見ると、ウェルナーはなぜだか鏡を連想してしまう。正反対ではあるのだが、やはり似た者同士でもあるのだろう。ウェルナーは紅茶に口をつけた。


「何を」「落ち着いて」「紅茶なんて」「飲んでいる!」「んですか!」


 左右から同時にツッコミを受けた。こういうのをシンクロと言うのだったか。


「いや、仲良く喋ってるから僕は黙ってようと思って」

「「仲良く? どこが!」」

「ほら」


 ルドヴィカとエルシリアは鬱陶しげに横目で睨み合う。そして再びこちらを見て、


「大体、オマエのせいだろうが、ウェルナー。突然やってきたと思ったら腕を引っ張って、どこに連れていくのかと思えば……どうしてリアと茶など飲まねばならんのか」

「そこだけは同意です。たまたま事件を抱えていなかったとは言え、私、一応今日も仕事あるんですけど」

「ルドヴィカが珍しく帝都に来るって言うからさ、これはいい機会だと思ったんだよ。ルドヴィカは出不精だし、エルシリアさんは仕事があるし、君達、なかなか会えないだろ?」

「会えないんじゃなくて会いたくないんです!」

「オマエには空気を読むという機能が備わっていないのか!」


 空気を読んだからこそ集めたのだ。本当に会いたくないならそもそもこうして集まれていないし、集まれたとしても早々に立ち去っているはずだ。


(結局、意地っ張りなんだよな、二人とも)


 ウェルナーにはこういう関係の友人がいないので、何とも微笑ましくなってしまう。


「まあまあ、ここのパンケーキだけでも食べていってくれ。オススメなんだ。……あ、ちょうど来た」


 ウェイトレスがやってきて、三人の前にそれぞれパンケーキが乗った皿を置く。

 ルドヴィカは憮然と頬杖を突いたまま、エルシリアはどこか訝しげに、フォークを取ってパンケーキを一切れ、口に含んだ。


「……くっ、旨い……」

「美味しいのがなんか腹立ちます……」

「なんでだよ……」


 まあ嫌味の応酬をやめてくれたので良しとしよう。ウェルナーもフォークを取りつつ、


「それで、ルドヴィカ。今回は何の用で帝都まで来たんだ?」


 もぐもぐやっていたルドヴィカが顔を上げる。彼女はこの帝都ユニケロスから馬車で二日くらいの場所にあるファーネラという地方の領主だ。当然、普段はそこに住んでいる。


「ん……いや……」


 ごくんと口の中のものを飲み込んで、


「少しばかり、所用でな」

「それはまた、研究関係の?」

「ああ……まあな」


 ルドヴィカの肩書きは二つある。『魔女狩り女伯』と『魔法研究者』だ。古代より残るたった十一種類の『魔法』と、その担い手たる十一人の『魔女』。それが彼女の研究対象である。尤も、十一人の魔女のうち四人は、すでに判明、もしくは死亡しているが。


「それならさっさと図書館にでも行かれたらどうです?」


 エルシリアがナプキンで口を拭いて言った。


「この雨ですから、そろそろ本が湿気ている頃合いですよ。あなたみたいに」

「ふん。確かに、オマエに比べれば図書館のほうがまだ明る――」

「あ、ほっぺにクリーム付いてるよ」

「どわっはぁあああーっっ!!」


 手を伸ばしてルドヴィカの頬を拭ったら、予想以上の反応で逃げられた。

 ルドヴィカは紅潮した頬を手で押さえ、


「おまっ、オマエなあ! そういうことを平然とするな!」

「ああ、ごめん。確かにちょっと不躾だったか。君が相手だとどうも気が抜けて……」

「それはバカにしているのか! バカにしているんだな!」


 ぷんぷん怒るルドヴィカを笑っていなしていると、横合いから「はあ」と溜め息が聞こえた。


「……そういうのは私のいない所でやっていただけますか?」

「ごめん。騒がしかったね」

「そうじゃなくて……」


 エルシリアはこめかみを押さえる。雨が降ると頭痛がするタイプなのだろうか。


「……はあ。もういいです。とにかく、これ食べたら仕事に戻りますから」

「そうだね。僕もそんなに余裕があるわけじゃないし――」

「――お嬢様」


 不意に、ルドヴィカの背後にすっと人影が現れた。誰かと思えば、ルドヴィカの執事であるジルベルト・ビェーラー氏だ。執事服に身を包んだ壮年の紳士である。

 ルドヴィカは視線を後ろにやり、


「どうした?」

「そろそろお時間かと」

「ん……そうか」


 珍しく歯切れ悪く答え、残ったパンケーキをバクバク食べ始めた。一切れ残さず食べ切ってしまうと、彼女は立ち上がり、


「予定の時間だ。今日はこれで失礼する」

「そうか。仕方ないな。帝都にはまだしばらくいるのか?」

「ああ、そのつもりだ」


 言って、ルドヴィカが自然と伝票を取ろうとしたので、ウェルナーは横取りした。


「僕が無理言って集めたんだ。ここは奢りにしておくよ」

「……ふん。格好付けおって」


 奢ると言って不機嫌そうにされたのは初めてだ。だが伝票を奪い返す気配がない所を見ると、不機嫌そうなだけで不機嫌ではないのだと思う。

 ジルベルトを伴って、白く小さな背中は店を出ていった。窓越しに見送っていると、いつも目立つ純白の長髪は、傘が行き交う雑踏の中にあっさりと消えていった。

 店内に目を戻す。テーブルには自分と黒衣の少女。二人きりになってしまった。


「……ほんと、お節介ですよね」


 唐突に、呟くようにしてエルシリアが言った。


「どうせ今日だって、いらない気を回したんでしょう」

「いらないかどうかを決めるのは君達だよ」


 ウェルナーは苦笑する。


「僕がやるのは、その機会を作ることだけだ。どんな結論が出るにせよ、機会もないのは寂しいじゃないか」


 エルシリアは視線を落とし、パンケーキを一切れ口に運んだ。

 顔を合わせては嫌味を言い合い、二ヶ月前は本気で殺し合いすらしたルドヴィカとエルシリアだが、かつては気の置けない親友同士だったと言う。……いや、きっと今でもそうなのだろう。色々とあったせいで、お互い素直になれないだけだ。

 二人の間で複雑に縺れ合っていた糸が、二ヶ月前の事件を切っ掛けに少しだけほどけた。だったら今が昔に戻る絶好のチャンスだと、ウェルナーはそう思うのだ。


「知ったことじゃありませんよ。寂しいとかどうとか。兎じゃないんですから」


 エルシリアは雨よりも冷えた声で言う。


「大体、こんなに嫌われててよく世話を焼く気になりますよね。もしかして冗談か何かだと思ってますか? 私があなたのこと嫌いだっていうの」


 彼女は基本、帝都に住んでいるので、ルドヴィカよりは会う機会が多い。だがそのたびに鬱陶しげに対応されていた。如何なウェルナーでも、あまりよく思われていないことはわかる。


「そりゃ、むっとすることくらいはあるけどさ。知り合った以上、無視はできないんだよ」

「それはまた、結構な博愛主義で。…………そういう所が嫌いなんです」


 エルシリアは小さな声で吐き捨てた。ウェルナーは、曖昧に苦笑しておくしかない。

 遠くから鐘の音が聞こえてきた。教会が鳴らす午前十一時の鐘だ。外を見ると、ちょうど雨が止んでいた。街から傘が消えている。

 頃合いだと思ったのか、エルシリアはフォークを再び動かし始めた。そのまま一気に食べ終えてしまうと、即座に席を立つ。


「ご馳走様でした。自分の分は払っておきますので」

「いや、だから勘定は僕が――」

「お断りです。あなたなんかに奢ってほしくありません」


 視線を合わせることもなく、エルシリアは去っていく。

 ウェルナーはその黒い背中を眺め、


「……はあ」


 珍しく、溜め息をついた。








 帝国騎士団本部の仕事場に戻ると、書類が山のように積まれていた。

 聖騎士は、平時においては導騎士相当――つまり管理職であり、それは新人のウェルナーも例外ではない。戦時中は華々しく活躍することになる聖騎士だが、普段はむしろ地味なのだ。


 年上の部下達が持ってくる仕事をやっつけつつ、ウェルナーはルドヴィカとエルシリアのことを考える。ウェルナー自身、お節介だとわかってはいるのだが、あの二人は何だか放っておけないのだ。その衝動の源がどこにあるのか、自分でもわからない。


「あ……晴れてきたな」


 ふと外を見ると、雲間から青空がまばらに覗けていた。陽も充分に射していて、雨でぬかるんだ地面もじきに乾くだろう。

 午後は部隊の訓練ができそうだな――と騎士らしいことを考えていると、部下の一人が急ぎ足でやってきた。


「どうした?」

「ご報告致します。市街北区より通報がありました」

「通報?」


 ウェルナーは表情を引き締める。


「……殺しか?」

「そのようです。被害者は六十三歳男性。職業は画家です。今は手隙の者が少ないらしく、バンフィールド隊に向かってほしいと。担当の異端審問官はすでに現場へ行かれたそうです」

「わかった。すぐに行く」


 部下の敬礼に敬礼を返し、ウェルナーは急いで準備を始めた。








「…………」

「…………ま、また会ったね」


 現場へ急行すると、物凄く見覚えのある姿があった。

 というか、ついさっきまで顔を合わせていた人物だ。

 上級異端審問官エルシリア・エルカーンは、駆けつけたウェルナーをゲテモノを見るような目で出迎えた。


「……なんであなたが来るんですか」

「なんでと言われても……」


 異端審問官は担当事件をある程度選べるらしいが、騎士は行けと言われたら行くだけなのだ。

 異端審問官はアルシア教の教義に反する異端者を取り締まる職業だが、実質的には殺人事件専門の捜査官である。現在のアルシア教の正統教義において、殺人のような度の過ぎた悪行は悪魔に唆された異端者にしかできないとされているからだ。

 だから、殺人が起こればまず異端審問官が捜査につき、その下の実働部隊として騎士がつくという形になる。それが今回は偶然にも顔見知り同士だったというわけだ。


 エルシリアは本当に嫌そうな調子で溜め息をつき、


「余計なことはしないで下さいよ」

「大丈夫だよ。こっちも仕事なんだからさ」

「ただの護衛任務が行き過ぎて異端審問会と敵対した人の発言とは思えませんね……」


 あれはあれ、これはこれだ。

 現場となった家はなかなかの屋敷だった。貴族のそれほど大きくもなければ豪奢でもないが、二階建ての家屋と走り回れるほどの庭があれば、充分に富裕層と言えるだろう。

 被害者の名前はダニエレ・ボネット。この屋敷の主だ。


「被害者は画家だって聞いたけど、この屋敷に一人で住んでるのか?」

「使用人が何人かいますが、基本的には一人だそうです」


 エルシリアは意外にも素直に答えてくれた。口を利いてくれないほどではないようだ。

 彼女の後ろについて、屋敷の中へ入っていく。と、玄関で中年女性が出迎えた。


「お待ち申し上げておりました……。ダニエレの娘のドロテア・バルディと申します」

「異端審問官のエルシリア・エルカーンです。ご遺体はあなたが……?」

「はい。おかしな物音がしたものですから……」

「詳しいお話は後で。現場に案内していただけますか?」


 無言で頷き、バルディ夫人――父親と姓が違うので、おそらく既婚者だろう――は屋敷の奥へと歩いていく。エルシリアがついていき、さらにウェルナーが続いた。

 廊下を歩いていくと、奥まった場所に扉があった。開くと、地下へと続く階段が姿を現す。三人で下っていくと、ミシリと軋む音がした。かなり古そうだ。

 そう長くはない階段を下り終えると、右側の壁に木製の扉がある。ちょうど目線の辺りに格子の入った覗き窓があった。部屋そのものは石造りのようだ。


「この扉に鍵は?」


 エルシリアがバルディ夫人に訊ねる。


「ございません。ここに限らず、玄関以外に鍵は……」

「そうですか」


 ウェルナーは少しだけ安心する。また密室だったらどうしようと思っていたのだ。

 エルシリアが扉を開け、中に入る。続いてウェルナーも入り、部屋の様子を見回した。

 石造りなこともあって寒々しい部屋だ。しかし天井は高く、圧迫感はあまりない。地下室の宿命として暗くはあったが、正面奥の天井に近い位置にある窓から光が射しているので、これもマシなほうだろう。地下室というか、半地下か。

 室内は物が少ないが、荒れている。右奥の隅に置かれた本棚は本をことごとく床にぶちまけ、水が入っていたのだろう木桶が蹴飛ばされたように転がっていた。


「……あれ? 遺体は……」

「ここですよ」


 エルシリアは開かれた扉の裏――戸口の横の空間を覗いていた。

 そこに、一人の老人が横倒しになっていた。眼はカッと見開かれ、色の抜けた灰色の髪に赤い血が滲んでいる。身体の周りには陶器か何かの破片が散らばっていた。


「おおよそは伝え聞いていますが、もう一度確認させていただきます」


 エルシリアがそう言うと、バルディ夫人は神妙に頷いた。


「被害者――ボネットさんのご遺体は、発見時、入口の扉に背中からもたれかかっていた。そうですね?」

「はい……そうです。扉を開けようとしたら、妙に重かったので……覗き窓から見下ろすと、そこに血だらけの頭があって……」

「遺体ごと無理やり扉を押し開け、室内に入って確認すると亡くなっていた、と」


 それで遺体が扉の裏に移動したのだ。見ると、扉や床にはきちんと血痕が残っている。


「ありがとうございます。後で改めてお話をお伺いしますので、上でお待ち下さい」


 エルシリアが言うと、バルディ夫人は会釈して階段を上っていった。

 ウェルナーは扉を閉め、そこに残った血痕と遺体とを再び確認する。


「これってさ、もしかしてだけど……この扉、使えなかったってことか?」

「もう少し詳しく調べなければ何とも言えませんが、まあ、そういうことでしょうね」


 遺体は扉を塞ぐようにして座り込んでいた。その状態では、犯人は扉から外に出られない。

 ウェルナーは遺体の上を見た。戸口の左上辺りに板を取りつけただけの簡素な棚がある。


「これ、事故なんじゃないか? あの棚に置かれていた壺か何かが落ちたんだとしたら……ほら、ちょうど扉の前だ。被害者の頭の上に落ちることになる」

「視力はご無事ですか?」


 唐突に暴言が飛んできた。ウェルナーが振り返ると、エルシリアはテーブルを指差した。


「ティーカップが二つあるでしょう。ここには被害者以外にもう一人いたんですよ。大体、なんでそんな危ない所に壺なんか置いてあるんですか」

「ってことは、そのもう一人の誰かは、あの窓から出ていったってことか?」


 ウェルナーが視線を向けたのは、扉の反対側にある窓だ。半地下の部屋なので、ジャンプしても届かないような高さにある。


「そういうことになりますね。それ以外ありませんから」

「あそこから出るには梯子が要りそうだな……。この壁、石造りの割に取っ掛かりがないし。どうしてあんな面倒な場所から出ていったんだ? 死体を動かせば扉から出られたのに」

「死体に触りたくなかったんじゃないですか? 上には人もいたわけですし」


 ウェルナーの疑問にはおざなりに答え、エルシリアは部屋の中を歩き回っていた。


「この桶」


 エルシリアは床に転がっている木桶の傍にしゃがみ込む。


「空なのに、中が濡れてますね」

「被害者と犯人がもみ合ってる最中に蹴飛ばされた?」

「可能性は高いでしょう。雨が止んでから結構経ってますし、床に広がった水は陽光で乾いたんでしょうね」


 木桶は窓から射す光の中に転がっている。木桶内部は木桶自体の陰になって陽が当たらない。

 立ち上がったエルシリアが次に目を留めたのは、戸口から見て左のほうにあるイーゼルだった。ここは被害者ボネット氏のアトリエだったようだ。


「……イーゼルはあるのにキャンバスがないですね」

「今はたまたま何も描いてなかったのか」

「いえ……パレットには絵の具があります。……犯人に持ち去られたと見るべきでしょう」


 キャンバス――つまり絵を?


「物取りの犯行……? 画家って言うくらいだから、絵画一枚にもかなりの値がつくんだろうし……」

「ダニエレ・ボネットと言えば、業界ではそこそこの有名人らしいですよ。風景画や人物画においてはトップクラスの水彩画家で、何より速筆にして多作。ここ数年で何千作という作品を立て続けに発表したとか。昔は法廷画家なんかもやっていたらしいですし」

「へえ……ずいぶん詳しいね」

「被害者の経歴を調べるのは基本です。時間がなかったので、さわりだけですが」


 ウェルナーは内心で感心する。真面目だ。パラドックス事件の時のことがあるので、そういう人格的な部分には無頓着なのだと思っていた。

 エルシリアはウェルナーの顔を半眼で見やって、


「……何だか不本意な感想を持たれている気がします」

「いやいや、見直してるんだよ」

「それが不本意だと言ってるんです」


 難しいなあ、とウェルナーが首を傾げていると、窓の外から蹄の音が聞こえてきた。

 窓のすぐ外には柵があり、その向こうは大通りだ。馬車でも走っているのだろう。

 蹄の音が、最も近くなった時だった。


「おっと」


 部屋全体が軽く震動した。テーブルのカップがカタカタと鳴る。ウェルナーは反射的にエルシリアを支えようとしたが、彼女に危なげは欠片もなく、訝しげに窓の外の馬車を見ていた。

 揺れが治まると、エルシリアは足元に視線を移す。


「どうやら、地盤が緩いみたいですね……」


 言って、彼女は懐から銅貨を一枚取り出した。そして、それを床の上に縦向きに置く。

 コロコロコロ……と、銅貨は戸口から見て左の壁目指して転がっていった。


「部屋全体が傾いてるのか」


 となると、ますます棚から壺が落ちて頭に当たった説が怪しく思えてくるのだが。

 エルシリアは銅貨を拾い上げると、ことりと小首を傾げ、流麗な黒髪を揺らした。


「……まあ、後は部下に任せましょうか。次は事情聴取です。行きますよ」








 第一発見者である被害者の娘、バルディ夫人の事情聴取が始まった。

 一階の応接室でエルシリアとバルディ夫人がテーブルを挟んでいる。いたずらに威圧しないため、ウェルナーを含めた騎士や下級審問官は部屋の隅に数名いるのみだ。


「このお屋敷、なかなか年季が入っていますね。築何年になるんでしょうか?」


 発見時の様子を訊くのかと思いきや、エルシリアはにこやかに遠回りな話題から入った。

 バルディ夫人も面食らいつつ、


「え、ええ……三〇年ほどでしょうか」

「三〇年ですか! それはまた……。あの地下室もそのくらい前から?」

「最初からあったものと聞いています。実は……」


 そう言いかけて、バルディ夫人は口を噤んだ。


「……いえ、すいません。これは事件とは関係ありませんでした」

「構いません。何でも話して下さい。お父上を手に掛けた憎むべき異端者を捕えるために、私達は一つでも多くの情報を求めているんです」


 エルシリアに柔らかな声音で言われると、バルディ夫人は少しの逡巡の後、「では……」とおずおず話し始めた。


「この家……実は、曰く付きなんです」

「曰く付き?」


 エルシリアは可愛らしく首を傾げる。


「と、言いますと?」

「伝え聞いただけなので、詳しいことは知らないのですが……昔、あの地下室に異端者が逃げ込んだことがあったそうです。騎士の方が周囲を完全包囲した上で、捕まえようと中に踏み込んだらしいのですが……なぜかもぬけの殻で」

「出られないはずの部屋から、まるで煙のように消えてしまった、と」

「以来、あの部屋のどこかにはまだその異端者が隠れ潜んでいる、と言われています。事実、外を馬車が通ったわけでも地震があったわけでもないのに部屋が揺れたり、不気味なことが何度かあり……その上、今日こんなことになって、私はもう……」

「落ち着いて下さい。あの地下室に隠れられる場所なんてありませんよ。お父上を襲ったのは別の異端者です」

「で、ですが……だったらどうやって……!」


 バルディ夫人は少しだけ声を荒げた。すぐにハッとなって口を噤んだが……何やら事情がありそうだ。


「……そろそろ本題に入りましょう。ゆっくりでいいので、今日あったことを順番に話してくれますか?」


 バルディ夫人は黙然と頷いて、ぽつぽつと説明を連ねていった。

 彼女の説明をまとめるとこうだ。


 彼女は普段この家には住んでおらず、他の家で夫と子供と三人で暮らしていると言う。しかし、使用人がいるとは言え、高齢な父親を一人で暮らさせるのも不安で、ときどき様子を見に来ることがあるそうだ。今日がたまたまその日だった。


 午前中、雨が降るなか屋敷を訪れたバルディ夫人は、まず地下のアトリエで父親と会った。この時、地下室には確かに他に誰もいなかったそうだ。

 その後、いつもの習慣として食糧庫を確認したが、中身がほとんど残っていなかったため買い物に出かけた。

 そして二時間ほどで戻ってきて、使用人達の分も含めて昼食を用意していた時のことだ。地下室のほうからガタガタッという物音と、何かが割れるような大きな音が聞こえてきた。


 恐る恐る地下へ向かったバルディ夫人は、まず扉越しに声をかけた。だが返事がない。中に入ろうとしたが、扉が妙に重い。覗き窓から室内を見ると部屋が荒れていて、驚いてさらによく見回した彼女は、扉の真下に血まみれになった父を発見した。そして死体ごと無理やり扉を押し開け、父親の死を確認したというわけだ。


 これが午前十一時の鐘が鳴った頃――ちょうど、ウェルナーがエルシリアと二人きりでいた頃のことだった。


「あなたが最初にボネット氏と会った時、地下室には他に誰もいなかった……。つまり、犯人――異端者が侵入したのはあなたが買い物に行って以降、ということですね?」

「はい……」

「あなたが買い物に行っている間、使用人の方々は何をしていたんでしょうか。窓から忍び込んだのならともかく、玄関から入ってきたのなら誰かが気付いていそうなものですが」

「屋根の修理をしていたみたいです」

「屋根? と言いますと……雨漏りか何かですか?」

「はい。何分古いお屋敷なので……。雨にも拘らず梯子で屋根に上っていらっしゃいました」

「……梯子」


 エルシリアがぽつりと繰り返す。ウェルナーの首筋が、なぜかひやりと冷えた。


「それはいつからいつまでのことですか?」

「私が買い物に行っている間に始めたようなので、いつからなのかは……。少なくとも、帰ってきた時にはすでに。それから私が悲鳴を上げて外に飛び出すまではずっと……」

「……ずっと、梯子は使われていた、と?」

「はい。……ですから、おかしいんです」


 バルディ夫人の声が震えを帯びる。


「地下室の窓は、梯子がないととても届かない高さにあります。ですが、この家にある梯子は、使用人の皆さんが使っていたものだけなんです! ……審問官様。父が何者かに殺されたと言うなら、異端者は梯子もなしにどうやってあの窓から脱出したのでしょう? 私には、あの話のように、まるで煙のように消えてしまったとしか……」








 使用人達からも事情聴取を行ない、大体共通した証言を得た。

 屋根の修理を始めたのは、雨が止む少し前――午前一〇時半頃のことだと言う。それからバルディ夫人に家主の訃報を伝えられるまで、ずっと梯子を使っていたと言う。

 侵入者の有無についても質問したが、作業中は言うに及ばず、それ以前でも地下室の窓から侵入されたなら気付けなかっただろうと口を揃えた。何分雨だったので、不審な音があっても聞き取れないのだ。


「犯行時刻はバルディさんが何かが割れた音を聞いたっていう時だろう?」

「……そうですね。遺体の周りに散乱していた壺の欠片から血痕が見つかりましたし」

「でもその時は梯子が使えなかった……。窓の下に足場になるものなんて置かれてなかったよな……?」


 エルシリアは口元に手を当て、しばらく考えた後、


「――仕事です、ウェルナーさん」

「なに?」

「この屋敷の梯子が使えなかったなら、外から持ち込んだだけのことです。こんな街中、しかも雨の中で梯子やそれに準ずるものを持ち歩いている人間がいたら、相当に目立つはず……。聞き込みに聞き込みまくって下さい。足を使った人海戦術はあなた達の十八番でしょう?」

「……ちょっと馬鹿にされてる気もするけど、わかったよ。そのために騎士がいるんだしね」


 指示を受けた部下達は素早く街に駆け出していく。ウェルナー自身も足を使い、周辺住民や通行人から聞き込みを続けた。


 夕方になって一度戻り、情報をまとめてエルシリアに伝える。


「今の所空振りだ。梯子を持って歩いていた人間は見つからない」

「そうですか。一応、続けておいて下さい。私は別のアプローチで考えます」


 エルシリアは現場にいた。詳しい現場検証を行なっていた下級審問官や騎士はすでにおらず、冷たい地下室にウェルナーと彼女の二人きりである。


「別のアプローチ? って……室内の何かを踏み台にしたってことか?」

「そのほうが自然でしょう? 犯人は凶器にたまたま部屋にあった壺を使っています。わざわざ梯子を持ち込むほど計画的なら、ナイフなり何なり、もっと使いやすい凶器を用意できたはずです。衝動的の犯行だったのではないかと、私は推理します」


 エルシリアは地下室をぐるりと一周し、戸口から見て右奥にある本棚の前で立ち止まった。


「……これが怪しいですね」

「確かに踏み台にはしやすそうだけど」


 中身の本は、半分ほどは残っているが半分ほどは床に散らばっている。奥の板がないタイプで、向こう側の壁が疎らな本の間から垣間見えていた。


「結構デカいな……。重さも相当だろう。本が幾らか抜いてあるのは動かしやすくするためか」

「強盗に見せかけるため、という線もありますが。……どちらにせよ、窓から外に出た後、踏み台にした本棚をこの位置に戻す手段が必要です」


 本棚は窓がある位置から一メートルほど右にある。高さ的に窓から腕を伸ばしても届かないし、棒の類で動かせる重さではない。縄などをどうにか使うにしても……。


「こっちに動かすには壁にフックみたいなのが必要だよな……」


 動かしたい方向の壁にフックがあれば、そこに縄を経由させることで本棚を引っ張り動かすこともできるだろうが、そんなものは痕跡すら存在しない。


 エルシリアは本棚と窓をしばらく見上げると、無言で地下室を出ていった。ウェルナーもついていく。彼女はそのまま外に出て、屋敷を壁沿いに回り、地下室の窓がある場所まで来た。

 ガラス窓である。横に開けて固定できるようになっている。中からでは手が届かないからか、錠はないようだ。大きさは、一人なら余裕で通り抜けられるが、二人だと厳しいだろう。


 エルシリアは窓を開けて中を覗き込んだ。ウェルナーも後ろから覗くが、上から見ると輪をかけて高く感じる。あまり掃除はされていないのか、窓枠は埃で覆われていた。


「やっぱり、ここから本棚を動かすのは無理そうですね」


 言って、エルシリアが振り向いた。黒い髪がふわりと揺れて、胸の辺りを撫でる。

 顔が近かった。


「あっ、ごめん」


 ウェルナーは急いで身を離す。また嫌味なり皮肉なりを言われるだろうと覚悟していたら、


「何を謝ってるんですか」


 冷めた顔と声でそう言って、エルシリアは立ち上がった。


「男性が至近にいた程度のことで、仕事中に無駄な動揺をするような人間に見えますか?」


 見えるか見えないかで言えば、見えない。

 エルシリアが瞳に宿した光はどこまでも冷たく、とても感情ある人間のものとは思えなかった。


「……ごめん。僕の気が抜けていたみたいだ」

「わかればいいんです。次から気を付ければ――」




「――ははっ。相変わらず君は青春してないねえ」




 瞬間、冷え切っていたエルシリアの瞳が業火を宿した。

 エルシリアは弾かれたようにして声の方向に向き直り、目を見張る。


(……え?)


 同じ方向に視線をやり、ウェルナーは一瞬、当惑に囚われた。

 屋敷の裏。赤い夕焼けから切り取られたような真っ黒な影の中に、一人の女性が佇んでいる。

 ……そう、影だ。影の中にいるから、そう見えた。それだけのはずだ。

 ウェルナーの目には、一瞬だけ、彼女の姿が深い虚のような暗黒に見えたのだ。


「そこそこ久しぶりだなあ、エルシリア? どうだい、元気にしてたかい?」


 陽気に話しかけてくる女性に、エルシリアは矢のような視線を向けながら問い返す。


「どうしてあなたがここにいるんですか―――師匠」


 師匠。

 エルシリア・エルカーンは、聞き間違いの余地なくそう言った。








「いやいや、なかなかに驚いたよ。ボネットの爺さんが死んだって言うから飛んできたら、担当が可愛い弟子だってんだから。奇縁もあったもんだ」

「……よく言います。あなたのことですから、私がいるのもわかっていたんでしょう」

「ふふん。やっぱわかる? いいねえ、私の教えは失われていないよーだ」


 ウェルナーが面食らっていると、師匠と呼ばれた女性はこちらを見て眉を上げた。


「おっと、そちらは噂のウェルナー・バンフィールド君。お初にお目にかかるね。私の名前はイゾルデ・イングラシア。ほどほどによろしくしておくれ」

「は、はあ……ウェルナー・バンフィールド、少聖騎士です」


 態度を決めかねながら握手に応え、


「あの……彼女とはどういうご関係ですか?」

「不肖の師匠さ。異端審問官としてのね。私自身は異端審問官の末席を汚す身だよ」

「と、特級……!? 『四槌しつい』の方でしたか! これは失礼しました!」


 ウェルナーは慌てて敬礼した。

 特級異端審問官。

 その名の通り、上級異端審問官のさらに上位に位置する役職だ。つまるところ異端審問会の幹部のことで、上級審問官の中でもずば抜けた実力を持つ者だけが任命される。その席数はたったの四つで、俗に『四槌』と通称されていた。


「ははは! 今更畏まらなくてもいいよ。そういうのは得意じゃないし、君は二ヶ月前に私らの本拠地に殴り込んだばかりじゃないか」

「あの時は本当に失礼しました! 施設も壊してしまいまして……」

「壊したのは君の兄上のほうだよ。防壁ももう直ってるし、気にしない気にしない」


 笑いながらひらひらと手を振られて、ウェルナーは拍子抜けする。もっと露骨に煙たがられるものと思っていたが……。あの時のことは、今無事に社会生活が送れているのが不思議なほどの事件だったのだ。


「それより、どうかな、白馬の王子様君?」


 イゾルデは何やらにやりと笑い、顔を寄せて囁いてきた。


「ウチの可愛げのない弟子は。見てくれはいいのに、この通り仕事人間なんだ。嫁の貰い手がつくかどうか、師匠として心配だよ」

「はあ。僕に言われましても……」

「……もうすぐ三〇の独身女が何をほざいているのやら」


 エルシリアが冷たく言い捨てると、イゾルデは「ぐはっ!」と大袈裟に仰け反った。


「で、弟子から精神的苦痛を受けた……! け、結婚できないんじゃないやい! 結婚しないだけだい!」

「それで、被害者とはどういう関係なんですか?」


 エルシリアはまるで取り合わなかった。冷たい。ウェルナーに対するより遥かに。


(でも、さっき……)


 彼女の瞳に、苛烈なまでの熱が宿ったように見えたのは、気のせいだったのだろうか?


「昔の仕事仲間さ」


 スルーされたのを気にも留めず、イゾルデは言った。


「ボネットの爺さんが法廷画家をやってたのは知ってるかな? それで昔、一緒に仕事をしたことがあってね。今でもときどき会ってたのさ」


 法廷画家、というのは、法廷の様子を絵に描く画家――ではなく、現場の様子などを精妙に描きとめて、法廷で証拠として使えるようにする役職のことだ。異端審問官が自ら筆を執ることも多いが、審問会の認定を受けた画家が駆り出されることもままある。


「……要するに」


 エルシリアが鋭い視線を師匠に向けた。


「立派な関係者ですね」

「そういうことになるねえ。聞いとく? アリバイ」

「ええ。とりあえず確認だけ」

「ははっ! 聞く立場になってみると、めっちゃくちゃ白々しいなあ、その台詞」


 さすがは異端審問官同士と言うべきか、前置きを飛ばして話が進んでいく。イゾルデは特に気負った風もなく、腰に手を当てて片足に体重を預けた。


「犯行時刻はいつかな?」

「午前十一時頃と目されます」

「十一時かあ。その時間なら南区の劇場にいたな。楽しみにしていた演劇があってね」


 南区と言うと、現場からは湖を挟んで反対側だ。馬を飛ばしても一〇分はかかる。


「筋書きだってきちんと覚えている。ここで諳んじてもいいけど、君はその程度のものを証拠とは認めない。だよね?」

「当然です。そんなものは誰かから聞けばいい」

「うん。私がそう教えた。となると……アリバイの証明は無理だねえ。あの日の劇場は大盛況で、私のことを覚えてる人間なんかいないだろうし。君と違って存在感がないのさ、私は」


 自嘲的に言うイゾルデには、やはり深刻そうな様子は見られない。自分は容疑者の一人だと認めているにも拘らず。


「……では、もう一つだけ質問を」

「ん、いいよ。聞いてあげよう」

「ボネットさんを恨んでいる人間に心当たりはありますか?」

「はは! そんなの、ありすぎて困るくらいだよ。何せこの私と仕事してたんだからね」

「……でしょうね」

「じゃあもういいかな? それとも場所を変える?」

「いえ。今日はひとまず帰っていただいて構いません」

「それじゃ私は、娘さんに一言お悔やみ申し上げて退散するとするよ。引き続き頑張ってくれよエルシリア。私の弟子の中じゃ、君は一番の出世頭なんだから」


 明るく言って、イゾルデは踵を返す。彼女が屋敷の影から夕焼けの中に出ようとしたその時、


「――どうしてここに娘がいると知っているんですか?」


 その背中に、エルシリアが鋭く問いを放った。

 完全に不意打ちだったはずのそれに、イゾルデは人懐っこい笑みで返す。


「さあ? どうしてだと思う?」

「…………」


 答えないエルシリアに、イゾルデはにっこりと笑いかけた後、ひらひらと手を振りながら、屋敷の角に姿を消した。

 エルシリアは、師匠が消えた角を、ずっと睨みつけるように見つめていた。


「なんだか、底知れない人だったな……」


 ウェルナーはぽつりと感想を零す。

 イゾルデ・イングラシア。四人しかいない特級異端審問官『四槌』が一角。

 そして二ヶ月前のパラドックス事件で、不世出の天才たる『魔女狩り女伯』ルドヴィカ・ルカントーニをあと一歩の所まで追い詰めたエルシリアを、異端審問官として育て上げた師匠――


 こうして並べてみると穏当さは欠片も見当たらないのに、本人のあの気さくさはなんだろう。それに、最初に見えたあの怖気の走るような錯覚は……。

 ウェルナーは物思いを頭から追い出す。今は仕事中だ。事件に集中しなければ。


「現場から出た方法はともかく、容疑者が絞り込めないのが難儀だな。君の師匠の話じゃ、恨んでる人間なんて幾らでもいたらしいし――」

「――いえ」


 ふと見やると。

 エルシリアは、イゾルデ・イングラシアが消えた方向をまだ睨んでいた。


「犯人は、もう決まりました」








 翌日から、ウェルナー達騎士は大いにこき使われた。

 主に任されたのは、被害者の娘、バルディ夫人の身辺の洗い出しだ。エルシリアに従い、ウェルナー達は彼女の経歴をできる限り調べ上げた。結果、色々な事実が浮上してきた。


「バルディさんは元修道女だ」


 中央異端審問所の資料庫で調べものをしているエルシリアに、ウェルナーは報告する。


「今の旦那さんと結婚するために辞めたらしい。アルシア教の修道女は基本、結婚できないからね。ここまでならときどき聞く話だけど……ちょっと気になる所がある」

「と言いますと?」


 エルシリアは相槌を打ちながら資料のページをめくった。


「修道女を辞めた時期と子供を産んだ時期が、どう考えても近すぎるんだ。修道女だった頃から妊娠していたと考えないと計算が合わない。……だから、自分から辞めたんじゃなくて、妊娠がバレて破門されたんじゃないかと思う」

「なるほど……。授かり婚ですか。さぞ肩身が狭かったでしょうね。夫のほうの職業は?」

「まあ、商人だね。油やインク、紙なんかをバルディさんが勤めていた教会に売っていて、それで知り合ったらしい」


 内部で自給自足の生活を送る修道院に比べ、教会は外部の人間の出入りが多い。必然、異性との接触が増えるので、こうした事情で辞める修道女も多く、教会の修道女と修道院の修道女はまったくの別物だと言う者もいる。事実、教会の修道女はどちらかと言えば『ライト』な信者が多いようだ。


「わかりました」と言って、エルシリアは手に抱えた分厚い資料をめくった。


「……何を調べてるんだ?」


 我慢できずに訊ねると、薄暗い資料庫の中でダークブラウンの瞳がちらりとこちらを見て、


「昔、あの地下室であったって言う事件のことを調べてるんですよ」

「ああ……隠れた異端者が煙のように消えたとかいう……。そんなの調べてどうするんだ?」

「密室破りの参考になるでしょう。同じ場所で起こったことなんですから」


 ウェルナーは首を傾げる。それなら現場を直接調べるべきではないのだろうか?

 エルシリアは細い指でページをめくり、その指をぴくりと震わせた。


「……ありました」


 瞳と指が文字を追い、薄い唇からぶつぶつと声が漏れ始める。


「扉、窓を含めた屋敷の全出入り口に二人以上の見張り……屋内の地下階段への扉にも見張り……捜査隊は騎士主導で、審問官はわずか……突入直前に窓から対象の姿を確認……実際に突入したのは上級審問官……室内には家具を含めて何もなし……およそ四日間、飲まず食わずで潜んでいたと思われる……」


 エルシリアは開きっ放しにしていた瞼を閉じ、ふう、と息をついた。


「ダメですね……。これは参考にならなそうです。こんな状況から脱出する方法なんて魔法以外にあるわけないですし、そもそも現場の状態が違いますし。……でも、裏を返せば、当時と今回の差異となる部分に仕掛けを設定すれば、反論は難しくなる、か……。この究極的な密室環境から反例を提示しなければならなくなるんですから……」


 仕掛けを設定? ウェルナーがその独り言に違和感を覚え、質問しようとした時、エルシリアの部下の下級審問官が資料庫に入ってきた。


「失礼します。例の法廷画が完成したのでお持ちしました」

「ありがとうございます」


 エルシリアは資料を閉じて書棚に戻し、部下から一枚の絵を受け取った。

 たまたま視界に入ったが、それは現場の本棚周辺を描いたものだった。床に散らばった本と、半分ほど埋まっている本棚――そして、本棚を真横に引きずった跡のようなものが、仔細に描かれていた。


(あんな跡、あったかな……?)


 エルシリアやルドヴィカに比べれば劣る記憶力を駆使し、現場の様子を思い浮かべていると、確認を終えたエルシリアが絵を部下に返した。


「問題ありません。この方向で行きましょう」

「了解しました」


 部下の下級審問官は絵を抱えて資料庫を出ていく。続いてエルシリアも出ていこうとした。


「待ってくれ。エルシリアさん、今の法廷画はなんだったんだ? 現場の絵は最初に描いていたはずだろう?」


 振り返る手間すら厭わしいと言うように、エルシリアは肩越しに視線だけを寄越す。


「さらに焦点を絞った絵が欲しかっただけですよ。何かおかしいですか?」

「じゃあ、もう一つ答えてほしい。どうしてバルディさんを調べさせるんだ? 彼女を疑っているのか? 今の所、あの人に動機は見つかってないのに」


 エルシリアは煩わしげに眉をひそめた。……その瞳は、冷たさを感じさせながらも熱を持つ、青い炎のような輝きを放っている。


「騎士は、黙って指示に従っていればいいんです」


 そう告げ、彼女は黒髪を揺らして去っていった。

 ウェルナーの心に生まれたしこりは、より一層の存在感を持ち始めていた。








 帝国騎士団本部。多くの騎士が行き交うこの施設の中でも、例外的に人通りが少ない一角で、ウェルナーは友人と待ち合わせをしていた。


「やあウェルナー! 親友のご到着だっ!」

「うおっ!?」


 後ろからかなりの重量物がいきなりぶつかってきた。汗ばんだ脂肪の塊が肩を組んでくる。


「ジーク……このじめじめした季節に君が他人に密着するのは殺人とほぼ同じだぞ」

「はっはっは! 大丈夫大丈夫。加減はしてるからさ」


 快活に笑うのは、ウェルナーの騎士学校時代の同期、ジークフリート・ガブリエリ――通称ジークである。首も肩も腰もすべてひっくるめて脂肪で真ん丸にした、トマトのようなシルエットの少年だ。

 今回、ウェルナーは情報通な彼にあることを依頼していた。


「(……頼まれてたやつはこれだよ)」


 声を潜めてそう言いながら、ジークはウェルナーのポケットに畳んだ紙を放り込む。


「(なかなかのスリルだったよ。異端審問会って組織は度を超えた秘密主義だからね。たったこれだけの情報を得るのにも大立ち回りさ。読んだ後は燃やすか飲み込むかするように)」

「(ありがとう、ジーク。今度何かで埋め合わせする)」

「それじゃあご飯でも行こうか! キミも昼食はまだだろう?」


 ことさら大きなその声に、ウェルナーは仕方がないと苦笑した。見た目通り、ジークはとんでもない大食漢だ。だが頼み事を聞いてもらった手前、奢るのは嫌だとは言えない。


 ジークに財布の中身を食い尽くされた後、ウェルナーは誰もいない場所で紙を広げた。

 そこには、イゾルデ・イングラシアに関する個人的な情報が記されていた。

 家族構成や趣味・特技、恋愛遍歴や――異端審問官としての経歴に至るまで。


『四槌』に上り詰めるだけはあって、それは一見して華々しいものだった。

 数は言うに及ばず、恐るべきはその検挙率。取り逃した異端者が一人もいないという、到底信じ難い実績だった。

 四年ほど前に特級異端審問官に任命されてからは多くの弟子を取り、その優れた審問技術を後進に伝えていると言う。これだけ見ると絵に描いたような成功者だが――


 これまでに処刑した異端者のリストを確認した時、ウェルナーは自分が破砕されたような衝撃を味わった。


「まさか、そんな……! だとしたら、彼女は……!!」


 ウェルナーの視線が注がれる先には、一つの人名がある。

 イゾルデ・イングラシアが、異端審問官として処刑した者の一人。


 ――マリア・マッツカート。


 かつて濡れ衣を着せられて殺された、エルシリアとルドヴィカの親友である。








 次にエルシリアと会ったのは、その日の夕方だった。

 彼女は中央異端審問所の専用執務室で事件の資料に目を通していた。

 ノックを経て中に入ったウェルナーは、捜査が始まってからは定例となっている報告を終える。取り立てて目新しい情報はなく、エルシリアも特に感想なく静かに退室を命じた。

 だが、ウェルナーは動かない。


「……何をしてるんですか? まだ他に報告が?」


 資料から顔を上げるエルシリアに、ウェルナーは一歩、二歩と近付いて――訊いた。


「――『犯人』は、誰なんだ?」


 エルシリアは無言で、座ったままウェルナーを見上げてくる。


「君は言った。『犯人は決まった』と。あれは犯人が誰かわかったってことじゃなくて、が決まったってことじゃないのか! 君は、イゾルデ・イングラシアを――親友の仇を! 冤罪で処刑しようとしてるんじゃないのか!?」


 バン!! と執務机を叩きつけると、積み上がっていた資料がばらばらと床に落ちた。

 エルシリアは、ピクリとも表情を動かさない。

 酷薄なまでの無表情のまま、あっさりと――


「だから、どうだと?」


 ――ウェルナーの指摘を、認める。

 直後、頭と胸の中で、瞬間的な爆発があった。


「ふざけるなッ!! 僕達は殺人犯を捕まえるために働いてるんだ! 無実の人間を貶めて殺すためじゃない!!」

「無実の人間?」


 エルシリアはくっと口角を上げる。


「面白い冗談ですね。その様子だと、調べたんでしょう? あの女――イゾルデの経歴を。真っ黒ですよ、あいつは。罪悪をアクセサリーみたいにじゃらじゃら着けて歩いているような人間です。あの女が、一体どれだけの謂れなき屍を積み上げたと思ってるんですか?」

「それなら正当な手続きを踏めばいい! 無関係な事件を、勝手に君の道具にするな!!」


 エルシリアは、はあ、とこれ見よがしに溜め息をついた。


「……まだそんな夢を見ていたんですか。二ヶ月前のパラドックス事件で、多少はわかってもらえたものと思っていたんですけど」

「なんだって……?」

「――この国に、正義なんかありゃしないんですよ」


 双眸に凍えるような炎を宿らせて、エルシリアは吐き捨てる。


「あなたご自慢のお兄様だって、上の命令で一人の人間の命を見捨てました。私一人の働きかけで、民衆はあっさりと『悪』の断罪を認めました。

 この国を動かしている人間は、誰一人、真実の価値も正義の意味も理解していない。二ヶ月前のあの日、希望島でルカがやったのは、そのどうしようもない流れをどうにか無難な方向に誘導しただけのことです。今度同じことがあれば、民衆は以前あったことなんか綺麗さっぱり忘れて、ルカを糾弾し始めますよ」


 反論しようと思い、しかし言葉が出ず、ウェルナーは歯を食い縛る。

 その通りだと、ウェルナーの理性は同意していた。あの時、情勢を引っ繰り返ったのはほんの気の迷いみたいなもので、二度と同じことは起こらないだろうと。

 それでもウェルナーは、その現実を認めたくない。世界にはもう少し救いがあるのだと、信じたいのだ……。


「大体、それじゃあ復讐になりません」


 エルシリアの声に、明らかに怨嗟が混じった。


「マリと同じように、マリが味わった苦痛を味わわせてから殺す。……そうでないと、復讐にはなりません」

「……まさか……君は、そのために……!」


 思い至った真実に、ウェルナーは戦慄した。

 親友の仇であるはずのイゾルデ・イングラシアに、あえて師事した理由。それは――


「奴と同じ技術を身に付けないと、マリの苦痛を再現できないじゃないですか」


 薄く笑みすら浮かべて、エルシリアは告げた。

 彼女は……そのためだけに、憎むべき仇の教えを受けることを選んだのだ。誰よりも身近で、復讐心を燃やし続けたまま……。


(それは……一体……どれほどの、意思なら……!)


 彼女は幾度となく寝首を掻くことを考えただろう。殺したいほど憎んでいる仇敵がすぐ傍にいて、しかも弟子としてへりくだらなければならないのだ。ひと思いに殺してやりたいと、思わなかったはずがない。

 それでも、彼女は耐えた。何年もの間、自らの殺意に打ち勝ち続けた。すべては、理想の復讐を遂げるためだけに……。


 恐ろしい――恐ろしいほどの、意思力。

 ウェルナーは、その凄まじさを理解する。

 理解するからこそ――認められない。


「……そんなの、おかしいだろ……!」


 執務机に身を乗り出し、頭の中の灼熱を吐き出す。


「だったら君は、復讐のために、仇と同じ存在になったって言うのか! 無実の人間に罪を着せ……容赦なく処刑して……肩書きだけじゃなく、人格まで含めてすべて! 生き方として異端審問官を選んだわけじゃなくて、全部復讐のために……!!」

「両方ですよ。私はあの出来事を通じて、異端審問官になるのが最も生き方だと感じました。だからなった。そして同時に、復讐のための手段でもあった――いざ実行しようという段になって、冤罪を吹っ掛けた経験がありませんじゃ不安じゃないですか。予行演習ですよ、言わば」

「そんなの本末転倒だ!!」


 思わず胸倉を引っ掴んで引き寄せた。

 エルシリアは抵抗せず、椅子から腰を浮かす。

 息がかかるほどの距離で、エルシリアは冷めた目で激昂するウェルナーを見ていた。


「相手と同じになってどうする! 君はイゾルデを否定しなきゃいけないんだろ!! だったら同じものになっちゃダメだろう!!」

「そう思うのはあなたの勝手です。人それぞれですよ、価値観なんて」

「違う! そんないい加減な言葉で逃げるな!! 君だってわかってるんだろう! こんなやり方じゃ誰も幸せにならないって! 事実、マリアさんは言い残したらしいじゃないか! 自分がいなくなっても君達が仲良く――」


 瞬間、強く突き飛ばされた。

 不意を打たれたウェルナーは踏ん張り切れず、バランスを崩して尻餅をつく。

 そして、見上げた先。

 立ち上がったエルシリアが、強くこちらを見下ろしていて。

 堰を切ったかのように突然に、くしゃりと表情を歪めていた。


「そんなの――わかってますよっ!!」


 弾けた叫びは、かがり火のように揺れ、


「そうですよ、マリだってこんなこと望んでない! 私がやろうとしてることは何にもならない! 正しいです、あなたの言うことは逐一何もかも全部正しい!! ……それでもっ……!!」


 溢れた雫は、鉄錆のように光り、




「――正しさじゃ! 恨みは晴れないんですっ!!」




 込められた苦悩は、足枷のように重かった。

 ウェルナーは、複雑に歪んだ少女の泣き顔を、呆然として見る。


 自分は、クソ真面目で、バカ正直で、世間や人の機微がよくわからなくて。

 それでも……その涙の責任が、誰にあるのかくらいはわかる。


 彼女は、何年もの間、自分の心の中にあるそれと向き合ってきた。

 だから、わかっていないはずがなかったのだ。人から事情を聞きかじっただけのウェルナーがすぐにわかるようなことを……わかっていないはずが、なかったのだ。


 彼女が、自分の中で整理して、誤魔化して、都合をつけてきたものを……想像力を欠いた不用意な発言で、めちゃくちゃにした。

 責めて、追い詰め、暴き立てた。

 これの、一体、何が――正義だと言うのか。


 固まったウェルナーの前で、エルシリアは黒衣の袖で涙を拭い、背を向ける。


「……出ていってください」

「で、でも――」

「出ていけ!!」


 ウェルナーには、その言葉の通りにすることしかできなかった。

 廊下に出ると、声が聞こえていたのか、集まっていた審問官達が急速に散っていく。

 ウェルナーだけはその場に残り、扉に背中を預けて、天井を見上げた。

 無機質な天井に、エルシリアの泣き顔が重なって――


「……くそ」


 ――女の子を泣かせたのは初めてだったのだと、それからようやく気が付いた。








 バタバタバタ――と、雨が窓を叩き続けている。物の少ない私室は、その小さな音を抱え込んでよく反響させた。

 ウェルナーは実家ではなく騎士団の寮に住んでいる。基本的には寝て起きるだけの場所だ。いつもはそれで構わないのに、今はこの殺風景な空間に、呑み下しようのない空虚感を覚えた。


 ベッドの上に寝転がり、雨の音を聞きながら、蝋燭がぼんやりと照らす天井を見つめる。

 微睡んだような頭の中に、夕方のエルシリアとのやり取りが浮かんでは消えた。……そしてそのたびに、自分を殺してやりたくなる。


 ……何を、調子に乗っていたのか。二ヶ月前、ルドヴィカを助けることができて、だから彼女も――そんな風に考えたのか? あの事件で、自分の未熟さを痛感させられたばかりなのに。


 知らず、唇を噛んで、腕で両目を覆っていた。世界は雨の音だけになる。真っ黒な闇の中で、エルシリアの泣き顔がずっとこちらを睨みつけていた。


 ウェルナーはずっと、周囲の人すべてに優しくしてきたつもりだった。

 だが、それは優しさなどではなかったのだ。ウェルナーは、ただむやみやたらに正しくしていただけで――それは、優しさなんて暖かなものではなかったのだ……。


 ――コン、コン、と。

 不意に、ドアがノックされる音が聞こえた。


「……誰だ? こんな時間に」


 ウェルナーは起き上がり、ドアを見る。同僚の誰かだろうか?

 独り言のつもりだった声が聞こえたのか、ドアの向こうから声が返ってきた。


「わたしだ。開けてくれ、ウェルナー」

「え!?」


 その声に聞き覚えがあって、驚きで心臓が跳ねる。慌ててベッドから降り、入口に駆け寄ってドアを開けた。

 廊下には、よく知る純白の少女がいた。


「る、ルドヴィカ……!? どうしたんだ、こんな夜更けに……!」

「いや、日が落ちるなり急に雨が降ってきたのでな。オマエの寮が近くにあるのを思い出して、雨宿りでもしようと思ったんだ」

「確かに、住所を教えた覚えはあるけどさ……」


 見れば、ルドヴィカの背後には執事のジルベルト・ビェーラーが影のように控えている。ルドヴィカの頭が濡れていないのを見ると、傘はちゃんと持っていたようだ。


「とりあえず上がってくれ。ビェーラーさんも――」

「いえ、お言葉は嬉しいのですが、私はここで」


 ジルベルトはなぜか固辞した。執事には他人の部屋に上がってはいけないというルールでもあるのだろうか?


「ジルベルトはいいんだ。さっさと入れろ、ウェルナー。この廊下は結構寒い」


 入れろと言いながら、ルドヴィカは勝手に中に入ってくる。ウェルナーは仕方なく、ジルベルトを外に残してドアを閉じた。


「物が少ないな。ずいぶんとオマエらしい、面白味のない部屋だ」

「そりゃ悪かったな」


 ルドヴィカは当たり前のようにベッドに座っていた。勝手知ったる他人の家という言葉があるが、彼女の場合、勝手も知らないのに自分の家のようだ。

 ウェルナーは文机の椅子を持ってきて、そっちに座る。ルドヴィカはいつの間にか靴と靴下を脱いで素足をぷらぷらさせていた。

 今となっては見慣れたルドヴィカの姿だが、それが自分の部屋にいるというのは、何というか違和感が激しい。元々浮世離れした容姿が、さらに現実感を失っている気がする。


「こんな夜中に外で何をしてたんだよ。ビェーラーさんもいるとは言え、危ないだろう」


 そのふわふわした感覚を誤魔化して、無難な小言を言った。

 ルドヴィカはごろんとベッドに転がって、


「野暮用だ。だが、それもそろそろ区切りがつく頃合いだろう……」


 曖昧なことを言いながら、うつ伏せになって足をぱたぱた動かす。白衣があるので助かったが、それがなかったらスカートが大変なことになっていただろう。


「なんなんだ、野暮用って。この前会った時も教えてくれなかったけど」

「野暮用は野暮用だ」

「また何か厄介事なら、僕も力を――」


 唐突にバタ足が止まり、ルドヴィカが枕に顔をうずめたままこちらを見たので、ウェルナーは言葉を切ってしまった。

 サファイアのような瞳でこちらをまっすぐに見て、ルドヴィカは言う。


「わたしには、むしろオマエのほうが参っているように見えるがな」

「えっ……」

「気付かれないと思ったか? そんなあからさまに覇気のない顔で隠せているつもりだったなら、わたしも舐められたものだな」


 ルドヴィカは起き上がってベッドの縁に座り直し、ウェルナーと向き合った。


「さあ、きりきり話せ。どうせリアと喧嘩でもしたのだろうが」

「えっ!? な、なんで……」

「オマエほどの能天気をそこまでヘコませられるのはアイツくらいだ」


 本当に、彼女には隠し事ができない。……それは、エルシリアにも通じることだ。彼女達と関わると、誤魔化し、見逃してきたことに向き合わされてしまう。

 それは、正しいことだろうか? それとも、優しいことだろうか?


 ……結局のところ、ウェルナーはまだ自分だけで何もかもに答えを与えられるほど、成熟してはいないのだ。人の言うことにだけ従って生きてきたツケが、痛烈に回ってきている。

 泳ぎ方を覚えるのと同じだ。泳げないうちは、誰かに手を取ってもらって、必死に練習する他にない。


 ウェルナーは、ぽつぽつとだが、エルシリアとの間にあったことを話し始めた。

 一応、イゾルデのことは伏せる。イゾルデ・イングラシアはルドヴィカにとっても仇だ。本来は話すのが筋なのだろうが……それでも、ウェルナーは話せなかった。

 きっと、怖かったのだ。ルドヴィカまでもが、憎悪に取り憑かれてしまいそうな気がして……。


「……僕は一応、エルシリアさんのためを思って言ったつもりだった。こんなのは間違ってる。こんなのは、君自身を不幸にするだけだって」


 我ながら言い訳めいていると思いながら、最後に胸に蟠る気持ちを言語化した。


「当たり前のことなんだ。そんなの、誰もがわかり切っていることなんだ。それでも、彼女はその正解を選べない――こういう時、僕はどうしたらいいんだろう? どうにかしないと、と思うのに、何をどうすればいいのか、さっぱりわからないんだ……」


 言いながら、自分の状態が明確な形を成していく。

 自分は今、途方に暮れているのだ。ルドヴィカに喝破されて、自分に意思というものがないことを知ったあの時のように。


「相変わらず、オマエは奇特なヤツだな、ウェルナー」


 すべて聞き終えて、ルドヴィカは呆れた調子で言った。


「わたしからすれば、そもそもどうしてリアを救おうとしているのかがわからん。別に仲がいいわけでもない。むしろ敵に等しいだろう。アイツのせいで、オマエはアルカトス・スクードの槍使いに殺されかけたんだぞ?」

「それは……」


 知らず、声が揺れる。


「……僕が、ウェルナー・バンフィールドだからだ」

「声に自信がないぞ。中央異端審問所の壁をぶち壊した時の元気はどうした?」


 ……心のどこかではわかっている。今回に限れば、それは便利な建前に過ぎないのだ。

 エルシリアの破滅的な在り方を許せないと思う理由が、別に何かある。


「……やれやれ。思ったより重症だな」


 そう言って、ルドヴィカはちょいちょいと指で手招きした。


「ちょっとこっちに来い」


 首を傾げながら立ち上がり、言われた通りベッドに座ったルドヴィカの前まで来ると、「もうちょっと頭を下げろ」と言われる。その通りにした。


 瞬間。

 頭をぐっと抱き寄せられて、顔面がルドヴィカの細いお腹に埋まる。


「…………!?」

「暴れるな。くすぐったい」


 押さえつけられて、ばたつかせていた手足を落ち着かせた。

 だがまだ鼻が服越しにルドヴィカの臍に突っ込んだままだ。息が苦しい。何とか横を向いて、呼吸を確保した。何だか、母親の膨らんだお腹に耳を当てる子供のようになる。


「どうだ」


 頭の上でルドヴィカの声がした。


「どうだと言われても……君、もうちょっと肉を付けたほうがいいよ」

「そういうことじゃない!」

「いだだだだだ!」


 頭を抱えられたまま、つむじを顎でぐりぐりされる。意外と痛い。


「だったらどういうことなんだよ……。もっと凡人にもわかるように行動してくれ……」


 頭が良過ぎるせいなのか、ルドヴィカはいちいち行動や発想が飛躍する。しかも、やろうと思えば他の人間でも同じことができると思っている節がある。振り回されるほうとしては、夜道を灯りもなく馬で全力疾走しているような気持ちだ。

 ルドヴィカはウェルナーの頭に顎を乗せて、囁くように言う。


「ウェルナー……わたしはさ、結構、オマエに救われたんだよ」

「え?」

「顔を上げるな!」


 また無理やり頭を押さえつけられる。今のはなんで怒られたのだろう。頭を抱えるルドヴィカの手が、少し熱い気がした。


「……パラドックス事件の時、異端審問所に、助けに来てくれただろう?」


 この距離でなければ聞こえないような声で、ルドヴィカは言う。


「リアに捕まって、牢獄に入れられて……寒かったよ。ああ、凍えるくらい寒かった……。そんな時なんだよ、オマエが壁をぶち壊したのは。あの時、オマエの手が、オマエの胸が、どんなに暖かかったか……オマエにはたぶん、わからないだろうな」


 ……あの時は、ただ無我夢中だっただけだ。ウェルナーの欲求とルドヴィカの状況が、たまたま噛み合っただけだ。

 それでも、彼女の言葉は染み込んだ。

 じんわりと、かじかんだ手を繋ぎ合ったように、染み込んだのだ。


「なあ、ウェルナー……今のわたしは、どうだ?」


 二度目の問いに、今度は正しく答える。


「暖かいよ。……すごく暖かい」

「そう思うのは、たぶん、オマエがそれを求めていたからだ。……冷たすぎれば凍りつくし、暖かすぎれば今度は腐る。どちらがどの程度必要なのかは、状況と人によって違うんだよ。それを見定められないうちは、正しさも優しさも余計でしかない」


 ぽんぽん、と。

 ルドヴィカは、まるで子供をあやすように、ウェルナーの背中を叩いた。


「考えろ――そして怯えるな。オマエから無鉄砲さを取ったら、ただのバカだろう」


 ……考えろ、と。ルドヴィカは出会った時からずっとそう言う。

 だが、考え込んでいるうちは何も行動に移せない。だから言うのだ。怯えるな、と。


 思考停止は逃避だが、思考終了は勇気の結果だ。

 幾度となく思考を終了し、答えを出してきたのだろうルドヴィカだから、ウェルナーの背中を押すことができる。


「……何だか不思議だな。今のルドヴィカは、まるでお姉さんみたいだ」


 ふふ、と、ルドヴィカは身体を揺らした。


「わたしにとっては、オマエは最初から手のかかる弟だったよ」


 ルドヴィカの弟か、とウェルナーは想像してみる。


「……うーん。違和感だらけだ……」

「オイ! せっかく優しくしてやったのになんて言い草だ!」


 頭をべしべし叩かれたので、身を離して退避した。

 ルドヴィカはぶすっとしてそっぽを向いている。ウェルナーの頭の上でどんな顔をしていたのか、今となっては知る由もなかった。


「ありがとう、ルドヴィカ。どうすればいいか……なんとなく、わかった気がする」

「ふん。これっきりだぞ。柄じゃないんだ、こんなのは」

「はは。わかってるって」

「ナチュラルに頭を撫でるな!」


 しまった。無意識に感謝の念が発露していた。

 ルドヴィカは靴を履き直して立ち上がる。雨で濡れているのか、靴下は丸めて白衣のポケットに突っ込んだ。


「そろそろ雨も弱まってきた頃だ。宿に戻る」

「もう夜も遅いし、泊まっていってもいいけど」

「たわけ。こんな男臭いベッドで寝れるか」


 めちゃくちゃごろごろしてたのに……と釈然としない気持ちになりながら、部屋を出ていくルドヴィカを送り出す。


「……おそらく、もうすぐ会えなくなるだろう」


 廊下に出てから振り返り、ルドヴィカは言った。


「家に戻るのか?」

「ああ、まあな。……だから――」


 ジルベルトを連れて歩き出しながら。

 まるで、言葉を置いていくように。

 ルドヴィカは告げる。




「――リアを、頼む」




「え?」


 リア――エルシリアを?

 それはさっきの話の続きなのか、それとも――


 問い返す前に、ルドヴィカは足早に廊下の角に消えた。

 その白い背中を探すように、しばらくの間、ウェルナーは無人の廊下を見つめていた。








 翌日。当人達にどんな事情があろうと、仕事である以上は会わざるを得ない。定例報告のため、ウェルナーはエルシリアの執務室を訪れる。道ゆく審問官達に注目されているような気がしたが、無視することにした。


 ノックをし、返事を待ってから中に入る。

 エルシリアは、昨日と同じように資料に目を通していた。扉の前で名乗ると、ちらりと資料からこちらに目を移し、すぐにさっと逸らされる。

 彼女も彼女で気まずいのかもしれない。性格的に、他人に泣き顔を見せること自体、珍しいのだろうから。


 エルシリアの手は、いつまで経っても次の資料を取らなかった。こちらの言うことを気にして、内容が頭に入らないのだ。

 ……理解できないと思っていたのに、こうして見ると、わかることが幾らでもある。ウェルナーは思わず口元を綻ばせ、すぐに引き締めた。


「捜査の状況だけど――」


 努めていつも通りに報告を済ませていく。エルシリアは資料を持った手を下ろし、驚いたような表情でこちらを見上げていた。

 一通り報告が終わると、少しの沈黙を挟んだ後、


「……ボイコットでもするかと思ってました」


 エルシリアが、探りを入れるように言った。

 ウェルナーは苦笑を漏らし、


「そこまで自分勝手じゃないよ。これでも一応、隊長だからね」

「私に与するつもりですか? ……正直、あなたがそう考えるとは思えないんですけど」

「そういう意味では信頼してくれてるんだな」


 エルシリアは不愉快そうに沈黙する。基本、こっちが好意を示すようなことを言うと、彼女は嫌そうにするのだ。嫌っている相手に好かれても鬱陶しいだけだということだろうか。


「君に与しようとは思わない。やっぱり僕は、君のやり方を認められない。……でも、その拒否感が、人生すべてを賭けた君の意思を覆せるほどのものかと言われたら、それは否だ。どうしたって君は止まらないし……止められたとしても、君はたぶん、幸せにはならない」


 エルシリアは嘲るように唇を曲げた。


「私を幸せにしたいんですか?」

「不幸でいられると寝覚めが悪いだけだよ。無関係と言うには関わりすぎたんだ」


 エルシリアはふっと視線を斜め下にずらし、背もたれに体重をかける。


「……そうですね。私とあなたは無関係でいるべきでした。そのほうが、お互い円滑に生きていけたでしょうね」

「でも、今更どうしようもないことだ。……だから僕は、黙って見届けることにした」


 エルシリアの整えられた眉が上がった。


「見届ける?」

「僕が君に口出ししたって大した意味はない。だから、僕は君の尻拭いをすることにするよ。具体的には、結果として君が見逃すことになる本物の殺人犯を、僕が捕まえる。君は君で勝手にすればいい。仕事の範囲内でなら付き合うからさ」


 帳尻を合わせるのだ。パラドックス事件の時、ルドヴィカの代わりに観衆を説得した時のように。……何とも地味な役回りだが、自分らしい立ち位置だとも、ウェルナーは思う。


 エルシリアはぱちぱちと瞬きを繰り返し、唖然としたようにウェルナーを見つめる。

 そして、心底疑問げに言った。


「あなた……どうかしてるんじゃないですか?」


 ウェルナーは笑みを返し、


「最近、自覚が芽生えてきたよ」


 エルシリアは小さく息をつき、不満げに頬杖を突く。


「私にとってはすこぶる都合のいい話なので受け入れますが……何だか、とても腹が立ちます」

「何でだよ……。前から思ってたけど、君、不機嫌になるポイントがわからないよ」


 やはり、仲良くなれはしないようだ。

 だが、自分達はきっとこのくらいがちょうどいいのだろうと、なんとなく思った。








「証拠が一つ足りません」


 一応参考程度に、と現在の捜査状況を訊いた所、こんな答えが返ってきた。


「動機や密室についてはあらかた準備が整っています。しかし、あと一つ――事件当時、現場にイゾルデ・イングラシアがいたのだと主張するための証拠が、まだ用意できていません」

「どうせ捏造だろう。できるもできないもあるのか?」

「ありますよ。証拠っていうのは、説得力がないと意味がないんです」


 当たり前の話だった。冤罪をでっち上げるのにもそれなりの苦労があるようだ。


「現場にいたっていう証拠……不在証明アリバイの逆か。普通なら目撃証言かな」

「証人にあからさまな嘘を証言させるのは避けたい所です。誘導尋問で印象をすり替えることならできますが」

「うわっ……」


 ウェルナーは引いた。この少女は、本当にそんな技術ばかり磨いてきたのだろう。

 エルシリアは天井を見上げて呟く。


「こんな時、ルカならすぐに思いつくんでしょうけど……」


――― リアを、頼む ―――


 その名を聞いて、昨夜あったことを思い出した。


「そういえば、昨日の夜ルドヴィカが部屋に来たんだけど――」


 本題に入る寸前、エルシリアがジト目を向けてきた。


「……そんな惚気話はこれっぽっちも訊いてないんですけど」

「え? 惚気? なんで?」

「そうじゃないですか。夜に女の子が訪ねてきたとか……突然何の自慢なんですか、それは」


 はあ、と彼女は溜め息をつく。


「そもそも、あなた達、いつ結婚するんですか?」

「……は?」


 頭が追いつかなかった。結婚? 誰と誰が?


「それって……もしかして僕とルドヴィカのことか?」

「それ以外に誰がいるんです?」

「いや……婚約した覚えはないんだけど」

「えっ」


 エルシリアは目をぱちくりと瞬いた。


「婚約……してないんですか?」

「逆に訊きたいよ。なんでそんな話になってるんだ」

「だ、だって、あなた達の雰囲気とか……家族ぐるみの付き合いもあるみたいですし……」

「確かにルドヴィカと出会ったのは兄上の仲介でだけど、別に縁談があったわけじゃないよ」


 そう言うと、エルシリアの白い顔が見る見る赤く染まっていき――それを隠すように、書類だらけの机に突っ伏した。


「……もしかしてだけど」


 その様子から浮かんだ推測を、ウェルナーは口にする。


「この前、三人で集まった時に不機嫌だったのって、その勘違いも理由だったのか?」


 無言だけが返ってくる。どうやら図星らしい。

 婚約者の逢引きの場にどうして自分が呼ばれてるんだ当てつけか――などと、彼女は思っていたのだろう。そう思い込んでしまった理由はおそらく、


「君ってさあ……実はルドヴィカのこと、めちゃくちゃ好きだろう」

「だ、誰がっ!」


 エルシリアはガバッと顔を上げ、にやにやしたウェルナーを見るなり、ばつ悪げにそっぽを向いた。

 つい二ヶ月前、ルドヴィカを殺そうとしていた彼女だが、あれも可愛さ余って憎さ百倍というか、何らかの強い思い入れがなければあんなことにはならないと思うのだ。

 そんな屈折した想いを抱えていた彼女だから、ぽっと出のウェルナーにルドヴィカを取られてしまったと思い込むのも無理はない。ルドヴィカと同じで友達少なそうだし。


「……なんですかその訳知り顔は……。ものすっっっごく鬱陶しいんですけど」

「ごめんごめん」

「その顔が鬱陶しいって言ってんですよ!」


 この調子なら、彼女達が再び屈託なく付き合えるようになる日も近いかもしれない。その日が来ることを、ウェルナーはたぶん、当人達よりも強く祈った。


「……はあ。こんな無駄話をしている場合じゃありません。とにかく最後の証拠をですね――」


 誤魔化すように、エルシリアが話を戻そうとした時だった。


「ウェルナー! ウェルナーはいるかい!? ……ああ、やっぱりここにいた!」


 横に大きな巨体が、ノックもなしに執務室に駆け込んできた。

 だらだら汗を流しながら肩で息をする彼を、ウェルナーはよく知っていた。


「……誰ですか、そのぶよぶよは。誰か! その男をさっさとつまみ――」

「ごめん、僕の友人だ! ……ジーク、どうしたんだ? そんなに急いで」


 ジークはいつも陽気で飄々としている奴だ。こんなに焦っている姿はほとんど見ない。

 彼は少しだけ息を整えると顔を上げ、


「さ、さっき……『噂』を聞いたんだ……」

「『噂』……?」


 ジークは本職顔負けの情報通だ。その彼が『噂』と言う時、それは一般には知られていない情報を意味する。


「ふぁ……ファーネラから来た友達から……」


 ファーネラ。

 その単語に、背筋が粟立った。


「――ルカントーニの……ルドヴィカちゃんの家が、何者かに襲撃を受けたって……」








 それが起こったのは、もう何日も前のことだと言う。

 そう――帝都でウェルナーとエルシリアがルドヴィカと会った日よりも前だ。

 草木も眠るような真夜中に、不審な影がルカントーニ邸に侵入。それからしばらくの間、戦闘するような音が断続的に聞こえたのだと言う。


「裏を取ったわけじゃないから、確かな話だとは言えない。でもキミの耳には一刻も早く入れておくべきだと思ったんだ」


 ウェルナーは親友に礼を言って考え込んだ。

 ルカントーニ邸への襲撃――それが本当だとしたら、もしかしてルドヴィカは、帝都まで逃げてきたのか? そしてそれをあえて隠し、ウェルナー達と接していた?

 そんな状態で、ウェルナーの相談に乗ってくれたと言うのか?


――― 家に戻るのか? ―――

――― ああ、まあな ―――


 今となっては、あの言葉が真実だったとはとても思えない。だが――


「……僕はファーネラに行く」


 ウェルナーは考えを打ち切って言った。


「思い過ごしの可能性だってあるんだ、確認しないことには始まらない」

「そうだね。そいつがいい。ボクは帝都のほうでルドヴィカちゃんの行方を探ってみよう」


 頼む、とジークに言い、ウェルナーは着の身着のままで飛び出した。

 ルカントーニ邸があるファーネラまでは馬車で二日の距離。だがウェルナーは聖騎士だ。聖騎士特有の常人の数倍の身体能力をもってすれば、道なき道を突っ切って最短距離を行くことで、三時間とかけずに踏破することができる。


 エルシリアは、ついてこようとはしなかった。


「……そんな時間はありません」


 と、すげない態度で言って、仕事に戻ってしまったのだ。

 だが、気になってはいることはウェルナーから見ても瞭然だった。それでも彼女は、千載一遇の復讐の機会を優先したのだ。

 親友の安否と、自分の復讐。その二つが、少なくとも天秤に載せられる程度には対等であることがわかって、ウェルナーは少しだけ安心した。


 夢中で走り続けていると、いつの間にか周囲一面に畑が広がっていた。ファーネラの特徴的な光景だ。今の時期は何を植えているのだろうか。思い出している余裕すらない。

 小高い丘の上に立派な屋敷が建っている。あれがルカントーニ邸だ。ウェルナーは丘を一気に駆け上り、門の前まで来て一旦立ち止まった。


 外観に異常はない。門はきっちり閉められているし、その向こうの庭園にも荒らされた様子はない。屋敷も同様だ。戦闘があったような痕跡はなく……不気味なまでに、静かである。


 ウェルナーは唾を飲み、走り通して乾いた喉を潤した。

 取り越し苦労ならそれでいい。……そう、それでいいのだ。


 門をするすると上って越える。そして警戒しつつ、生垣が連なる広い庭園を抜けた。

 観音開きの玄関扉に手をかけ……鍵がかかっていないことに気付く。

 家に戻ると言っていたルドヴィカの言葉が、嘘にせよ真実にせよ、馬車で移動しているならまだ帰り着いていないはずだ。執事のジルベルトも同行していた以上……今、鍵が開いているのは……明らかに、おかしい……。


 ウェルナーは――ゆっくり、と――扉を、開く。

 玄関ロビーを一見し――


 それで、充分だった。


「……これ、は……っ!」


 調度として置かれていた胸像が引き倒されて砕けている。毛の長いカーペットには荒々しい足跡が無数に残り、壁に刻まれているのは明らかに剣の痕だ。血痕も幾つかあり、この場で行なわれた戦闘の凄まじさをまざまざと想起させた。


 以前訪れた時には見なかったが、この屋敷にも警備の騎士がいたのだろう。彼らと襲撃者の間で、紛れもなく、殺し合いが起こったのだ。

 おそらくは、屋敷の主人たるルドヴィカを巡って。

 もっと調べるべきだと、さらに屋内へと足を踏み出した時。


『――こんな所で何をしていやがる、ウェルナー・バンフィールド』


 どこからともなく、声が響いてきた。

 ウェルナーは急いで周囲を見回す。だが人影は見当たらない。気配すら感じられない。


「誰だ、お前は! どうして僕を知っている!」

『オレが誰か、だって? 間の抜けた質問もあったもんだ。二つ目の質問はさらに輪をかけてお笑い種だな。このオレが、てめえを知らないはずがないだろう』


 眉間にしわが寄っていく。なんだ、この声は。聞いているだけで酷く不快になる……。


『てめえはこんな所にいちゃあいけねぇはずだ。そうだろう? てめえはあっさりと手の平を返して、あの女の味方になることを選んだんだからな』

「あの、女……?」

『エルシリア・エルカーン』


 声は突きつけるように告げた。


『どのツラ下げて、とはこのことだな。パラドックス事件の時にアイツが何をやったのか、忘れたわけじゃねぇだろう。だっていうのに、てめえは当たり前みたいにアイツを救おうとしている。その上、冤罪を吹っ掛けるのに協力しようとしている始末だ。まったくもってどうかしてるぜ』


 ウェルナーの中で何かが揺れる。せっかく止まっていた振り子が外力を得て、大きく――大きく――揺れていく。

 なぜだ。この声の主は、どうして――


『ああ、安心しろ。てめえらの動向を逐一見張ってるわけじゃあねぇよ。ただ、オレにはわかっちまうのさ――てめえがどんな思考のもと、どんな結論を選んだのかがな』

「お前は……お前は誰なんだ……! 姿を現せ!!」

『誰かの助けになる。その正義は、結局のところエゴでしかない』


 ウェルナーの言葉を無視し、声は続けた。


『てめえは本当に、その正義とやらに照らして助けになるべき相手を見定めたのか? 泣き落としでもされてほだされただけじゃあねぇのか? エルシリア・エルカーンは、本当にてめえが助けるに値する人間なのか?』


 ……わからない。

 わからない。

 ――わからないから、こんなに苦しいんだ……!!


『……答えられないか』


 声は嘲るように笑い、


『だったら、ちょっとだけ手伝ってやるよ――そして知るがいい、てめえ自身の答えを』


 背後からだった。

 ヒュン、と風を切る音が聞こえた。


 ウェルナーは反射的に首を横に避ける。直後、頬に鋭い熱が走り、前方の壁に何かが突き刺さった。

 熱い液体が、頬を伝っていく。

 ――一本の鋭い傷が、肌を薄く裂いていた。


 急いで後ろを振り返ったが、開けっ放しの玄関扉以外には何もない。謎の声も、もう響いてはこなかった。

 視線を前に戻し、壁に突き刺さった飛来物を確認する。


 それは、剣だった。

 そしてその剣は、あるものを壁に縫い留めていた。


 警戒しながらゆっくりと、ウェルナーはそれに近付いていく。

 剣に縫い留められているのは、一枚の絵画――肖像画だ。

 水彩の繊細なタッチで描かれた一人の女性を見て、ウェルナーの目が見開いていく。

 ウェルナーは、その女性のことを、知っていた。


 肖像画に描かれていたのは、イゾルデ・イングラシアだった。

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