第十八話:雨上がりの公園で ~向き合う覚悟~

『…すみません。俺、ちょっと、頭の中、整理してみます。弥生さんの気持ちも、俺の気持ちも…』

『…今日は、もう、ありがとうございました。おやすみなさい。また、連絡します』

あの雨の夜、航くんから送られてきた、あまりにも素っ気なく、そして何か大きな混乱を窺わせるメッセージ。それは、私の心に重たい不安の影を落とした。「私がヒロインだったら嬉しい」という、ほとんど告白に近い私の言葉は、やはり彼を追い詰めてしまったのだろうか。私の気持ちに気づき、どう応えればいいのか分からず、彼は心を閉ざしてしまったのかもしれない…。

その日以来、航くんからの連絡は、完全に途絶えた。

私からメッセージを送っても、返ってくるのは「すみません、今ちょっと忙しくて」という短い返事か、あるいは既読無視。図書館で見かけても、彼は私と目を合わせようとせず、足早に立ち去ってしまう。明らかに、避けられている。

(…やっぱり、ダメだったんだ…。私の言葉は、彼を混乱させただけだったんだ…)

胸が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。

私の、軽率な言葉が、彼を傷つけ、そして、私たちが時間をかけて築き上げてきた(と思っていた)関係を、壊してしまったのかもしれない。もう、以前のような、気軽に話せる「頼れるお姉さん」と「年下の男の子」にさえ、戻れないのかもしれない。

後悔と、自己嫌悪と、そして、彼を失うかもしれないという恐怖。様々な感情が渦巻き、私はすっかり気力を失ってしまっていた。大学の講義にも身が入らず、バイトでもミスを連発。美咲には「あんた、本気でヤバい顔してるよ? 大丈夫なの? あの彼と何かあったの?」と、本気で心配される始末だった。

「…もう、諦めた方がいいのかな…」

美咲に、弱音を吐いた。

「彼にとっても、私にとっても、このまま距離を置くのが、一番いいのかもしれない…。私じゃ、彼を支えられない…」

「…馬鹿じゃないの!?」

美咲は、いつになく真剣な顔で、私を一喝した。

「ここで諦めてどうするのよ! 何も確かめないまま、勝手に決めつけて、逃げるつもり!? 弥生が、本当に彼のことが好きなら、ちゃんと向き合いなさいよ! 自分の気持ちからも、彼の気持ちからも、逃げちゃダメ! 彼だって、きっと何か考えてるはずよ!」

美咲の言葉が、ぐさりと胸に突き刺さる。

そうだ。逃げちゃダメだ。

たとえ、どんな答えが待っていようとも。私は、ちゃんと、彼と向き合わなければならないのだ。自分の気持ちを伝え、そして、彼の気持ちを、確かめなければならない。彼が「また連絡します」と言ってくれたのだから、それを信じなければ。

(怖い。すごく怖いけど…でも、美咲の言う通りだ。このままじゃダメだ)

でも、このまま何もしないで後悔するよりは、ずっといい。

友人の言葉が、私の背中を押してくれた。

私は、心を決めた。

次に航くんに会ったら、必ず、話をしよう、と。

そして、私の本当の気持ちを、伝えよう、と。

その「次」は、意外とすぐにやってきた。

あの雨の夜から、一週間ほどが過ぎた、ある日の放課後。

意を決して、図書館へと向かう。彼がいるかどうかは分からない。でも、もしいたら…今日こそは、と。

閲覧室に入ると、窓際の席に、見慣れた背中があった。航くんだ。

PCに向かっているが、やはり指は動いていない。ただ、じっと画面を見つめているだけだ。その背中からは、深い苦悩と、そして孤独感が漂っていた。

私の心臓が、ドクン、と大きく鳴った。

緊張で、足がすくみそうになる。でも、ここで引き返すわけにはいかない。

私は、深呼吸を一つして、ゆっくりと、彼の元へと歩み寄った。

「…航くん」

震える声で、名前を呼ぶ。

彼は、びくりと肩を震わせ、ゆっくりとこちらを振り返った。その顔は、やはり憔悴しきっていて、目の下の隈も濃くなっている。そして、その瞳には、私に対する、戸惑いと、怯えのような色、そしてほんの少しの期待が浮かんでいた。

(…やっぱり、私が原因なんだ…。でも、彼も何かを期待している…?)

胸が痛む。でも、もう、目を背けない。

「…少し、話せるかな? 大事な話があるの」

私は、できるだけ、穏やかな声で言った。

彼は、一瞬だけ迷うような素振りを見せたが、やがて、こくりと小さく頷いた。

「…外で、話さない? ここじゃ、落ち着かないだろうから」

図書館の中では、話しにくいだろうと思ったからだ。

彼も、それに同意してくれた。

私たちは、無言のまま図書館を出て、すぐ隣にある、あの公園へと向かった。夕暮れの、少しだけひんやりとした風が吹いている。空には、うっすらと茜色の雲が広がっていた。雨上がりの匂いが、微かに残っている。

あの時と同じ、公園のベンチ。

私たちは、少しだけ距離を置いて、そこに腰を下ろした。

心臓が、うるさいくらいに鳴っている。何を、どう切り出せばいいのか。言葉が、うまく見つからない。

沈黙を破ったのは、意外にも、彼の方だった。

「…あの…弥生さん…」

その声は、か細く、震えていた。

「…この前の、メッセージ…俺…弥生さんからの連絡も無視するような、ひどいことして…本当に、すみませんでした…! それに、弥生さんにあんなこと言わせてしまって…」

彼は、深々と頭を下げた。

「…俺…弥生さんの言葉の意味、ちゃんと受け止めきれなくて…。それで、パニックになっちゃって…。どうしたらいいか分からなくて…勝手に、連絡、絶つみたいなことして…。本当に、すみませんでした…!」

彼は、顔を上げられないまま、謝罪の言葉を繰り返す。

その、あまりにも痛々しい姿に、私の胸は締め付けられた。

違う。謝るべきなのは、私の方なのに。

「…ううん。航くんは、悪くないよ」

私は、震える声で言った。

「悪いのは、私の方なの。…あんな、思わせぶりなこと言って…航くんを、混乱させて…。本当に、ごめんなさい…」

私も、頭を下げた。涙が、込み上げてくるのを、必死で堪える。

「…でも…」

私は、顔を上げた。そして、彼の目を、真っ直ぐに見つめた。一瞬だけ視線を逸らしそうになったけれど、ぐっと堪えて。

もう、逃げないと決めたのだから。

「…あの時、私が言ったこと…嘘じゃないの。航くんが、私に告白してくれたら嬉しいって思ったのは、本当の気持ちなの」

「え…?」

彼は、驚いたように顔を上げた。

「…航くんが、もし…もし、私に、告白してくれたら…。私は、本当に、すごく、嬉しいって思う…。それは、本当の気持ちなの」

涙が、頬を伝うのが分かった。でも、もう構わない。

「…だって…」

私は、言葉を続ける。もう、止まらない。止めたくない。

「…私も…航くんのことが、好きだから…! ずっと、ずっと前から、あなたのことが、どうしようもなく好きだったの!」

言ってしまった。

ついに、言ってしまったのだ。

私の、本当の気持ち。

彼の目が、信じられない、というように大きく見開かれる。その瞳が、激しく揺れている。

息を呑む音。

弥生が一瞬、彼の言葉を待つように黙った。

「…初めて図書館で会った時から、あなたのことが気になってた。あなたの真剣な眼差し、小説にかける情熱、そして、時折見せる優しい笑顔…その全部に、私は惹かれていったの」

「…ずっと…気づかないフリしてた。年上だし、航くんはまだ高校生だし…。それに、航くんは、私のことなんて、ただのお姉さんとしか思ってないって…。そう、思い込もうとしてた」

涙が、次から次へと溢れてきて、視界が滲む。

「でも、もう、誤魔化せないの…。航くんと一緒にいると、すごく楽しくて、ドキドキして…。航くんが、他の女の子と話してると、すごく、ヤキモチ妬いちゃう…。航くんが悩んでると、私も苦しくて…。あなたのことで、頭がいっぱいになっちゃうの…!」

感情のままに、言葉をぶつける。もう、格好なんてつけていられない。

「…こんな、年上で、面倒くさくて、嫉妬深い女だって、分かってる…! 航くんにとっては、迷惑かもしれない…! でも…!」

「…それでも…私は…あなたのことが、好きなの…! だから、航くん、あなたの本当の気持ちを、聞かせてほしいの…!」

言い終えると、私は、嗚咽を堪えるように、俯いた。

もう、彼の顔を見ることができない。

きっと、引かれただろう。気持ち悪いと思われただろう。

これで、本当に、終わりだ…。

長い、長い沈黙。

公園の木々が風にそよぐ音と、遠くで聞こえる車の音だけが、やけに大きく響いている。

やがて、隣から、静かな声が聞こえた。

「…弥生さん…」

彼の声だ。

恐る恐る、顔を上げる。

彼は、泣いてはいなかった。でも、その瞳は、驚きと、戸惑いと、そして…何か、強い感情で、潤んでいるように見えた。

彼は、一度、ぐっと唇を噛み締めた。

「…弥生さんが、俺のこと、そんな風に思ってくれてたなんて…全然、気づかなくて…本当に、馬鹿ですよね、俺…。でも、すごく…すごく、嬉しいです…!」

彼の声は、少しだけ震えている。

「…俺も…」

彼は、一度、言葉を切った。そして、深呼吸を一つしてから、続けた。

その声は、震えていたけれど、力強かった。

「…俺も、弥生さんのことが、好きです。初めて図書館で会った時から、ずっと。弥生さんのことを小説に書きたいと思ったのは、弥生さんのことをもっと知りたかったからです。弥生さんと一緒にいたかったからです」

…え?

いま、なんて…?

信じられない、という表情で彼を見つめる。彼の言葉が本物であることを確かめようとするように。

「…初めて、図書館で会った時から…ずっと、憧れてました。綺麗で、優しくて、聡明で…。俺なんかが、話しかけちゃいけないような、手の届かない存在だって、思ってました。でも、弥生さんのことを知れば知るほど、ただの憧れじゃなくて、本当に好きだって気持ちが大きくなっていったんです」

「でも、弥生さんは、俺のくだらない夢を、笑わずに聞いてくれて…応援してくれて…。アドバイスまでくれて…。本当に、女神様みたいだって…。いや、女神様よりもっと素敵な、俺だけの特別な人だって…」

女神様…? 私が?

「…一緒に過ごすうちに、ただの憧れじゃなくなってることに、気づきました。弥生さんの笑顔を見ると、胸がドキドキして…。弥生さんの声を聞くと、安心できて…。弥生さんの、ちょっとドジなところとか、怖がりなところとか…そういうのを知るたびに、ますます、愛おしいなって…思うようになって…。弥生さんと一緒にいると、毎日が、全然違って見えるんです。弥生さんの笑顔を見ると、それだけで、幸せになれるんです」

彼は、真っ直ぐに、私の目を見て、言葉を紡いでいく。その言葉一つ一つが、私の心に、温かく、深く、染み込んでいく。

「…でも、俺は、年下の、ただの高校生で…。弥生さんみたいな素敵な人に、釣り合うはずがないって…。この気持ちは、絶対に、伝えてはいけないんだって…。そう、思ってました。弥生さんを困らせたくなかったから…」

「…だから、告白シーンも、書けなかったんです。俺自身の気持ちと、重なりすぎて…。もし、小説の中で告白して、ヒロインに受け入れてもらえたとしても…それは、ただの、俺の都合のいい妄想だって…。現実の弥生さんの気持ちは、違うんだって…。そう思うと、苦しくて…書けなかったんです」

そうだったのか…。

彼も、私と同じように、悩んで、苦しんでいたのだ。

年の差や、自信のなさや、そして、私への想いに。

「…でも…」

彼は、そこで、ふっと表情を和らげた。そして、少しだけ、照れたように笑った。

「…今、弥生さんの気持ち、聞けて…すごく、嬉しいです。…信じられないくらい、嬉しいです。夢みたいです」

彼の、その心からの笑顔を見て、私の涙腺は、またしても決壊した。今度は、悲しみや不安の涙ではない。喜びと、安堵と、そして、どうしようもないほどの愛しさが溢れ出した、温かい涙だった。

「…俺、やっぱり、格好悪いし、頼りないかもしれないけど…」

彼は、涙でぐしゃぐしゃになっている私の顔を、優しく見つめながら言った。

「…それでも、弥生さんのことが、本当に、どうしようもなく、好きです。世界で一番、弥生さんのことが好きです」

「…だから…もし、よかったら…」

彼は、震える手で、私の手を、そっと、優しく握った。

あの、お化け屋敷の時と同じ、温かい手。でも、今度は、もっと確かな、強い意志が込められている。彼は、安堵の表情を浮かべ、繋いだ手にそっと力を込めた。

「…俺と、付き合ってください。弥生さんの、恋人にしてくれませんか」

真っ直ぐな、瞳。

震えているけれど、心のこもった、声。

不器用で、格好悪くて、でも、世界で一番、誠実な告白。

私は、もう、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、何度も、何度も、頷いた。

言葉なんて、いらなかった。

ただ、彼の想いを、全身で受け止めたかった。

「…はい…! 喜んで…! 私も、航くんの恋人になりたい…!」

ようやく、絞り出した声は、涙で震えていたけれど、今までで一番、幸せな響きを持っていた。

彼は、私の返事を聞いて、まるで子供のように、顔をくしゃくしゃにして、笑った。その笑顔は、太陽のように明るくて、私の心の中の、全ての不安や迷いを、一瞬で吹き飛ばしてくれた。

雨上がりの公園。夕暮れの優しい光。

不器用な二つの心が、ようやく、重なり合った瞬間。

たくさんのすれ違いと、誤解と、そして臆病さを乗り越えて、私たちは、ようやく、本当の意味で「向き合う」ことができたのだ。

繋いだ手の温もりが、じわりと、心に染みてくる。

私たちは、繋いだ手を見つめ合い、言葉なくとも互いの想いを確かめ合う。

もう、一人じゃない。

これからは、二人で、一緒に歩いていけるのだ。

「弥生さん…ありがとう…」

「ううん、私の方こそ、ありがとう、航くん…」

私たちのラブコメは、まだ始まったばかり。

きっと、これからも、たくさんの困難や、壁が待ち受けているだろう。

でも、もう、怖くない。

隣に、彼がいてくれるなら。

そして、私の隣に、彼がいてくれるなら。

私たちは、きっと、どんな物語だって、紡いでいけるはずだから。

最高の、ハッピーエンドを目指して。

雨上がりの空には、うっすらと虹がかかっていた。それは、まるで私たちの未来を祝福しているかのようだった。

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