第十二話:帰り道と、残されたもの、そして日常へ

夕暮れの観覧車。二人きりの密室で過ごした、あの特別な時間。言葉にはならなかったけれど、触れ合った肩から伝わる温もりと、見つめ合う瞳の中に、確かに通じ合った(と信じたい)想い。それは、私の心に、甘美で、そして少しだけ切ない余韻を残していた。

観覧車を降りた私たちは、閉園を告げる「蛍の光」のメロディーと、夜空を彩るイルミネーションの光に包まれながら、名残惜しさを胸に、遊園地のゲートへと向かっていた。周りには、同じように帰路につく人々。楽しかった一日の終わりを惜しむ声、子供たちの眠そうな顔、寄り添って歩くカップルたちの幸せそうな囁き……。そんな喧騒の中で、私たちの間には、昼間とは違う、穏やかで、どこか親密な空気が流れていた。観覧車を降りた後、航くんが「弥生さん、寒くないですか?」と気遣ってくれ、自然とまた手を繋いで歩いていた。

「……終わっちゃったね。あっという間だった」

ゲートをくぐり抜け、光り輝く遊園地を振り返りながら、私がぽつりと呟くと、隣を歩く航くんも「……そうですね。でも、本当に楽しかったです、弥生さんと一緒で」と、小さな声で応えた。その声にも、私と同じように、隠しきれない寂しさが滲んでいるように聞こえて、胸がきゅっとなる。

「なんだか、夢みたいだった。……ちょっと、寂しい、かも。明日からまた、普通の毎日に戻るんだなって思うと」

「……俺も、です。すごく……。でも、今日のことは、絶対に忘れません。最高の思い出になりました」

彼の素直な言葉が、嬉しくて、そして切ない。

「……今日は、本当に、ありがとうね、航くん。私のわがままにもたくさん付き合ってくれて」

駅へと向かう道を歩きながら、私は改めて彼に向き直って言った。

「コーヒーカップとか、ごめんね? 本当に気分悪くならなかった? それに、お化け屋敷も、私ばっかり怖がっちゃって…」

「い、いえ! 大丈夫です! あれも、貴重な『取材』になりましたから! それに、弥生さんの色々な表情が見られて…その…すごく、ドキドキしましたし、楽しかったです!」

彼は、少し顔を引きつらせながらも、笑顔で答えてくれた。本当に、優しい子だ。そして、彼の言葉の端々に、私への好意が感じられて、また胸が高鳴る。

「俺の方こそ、ありがとうございました! 弥生さんが一緒じゃなかったら、こんなに楽しめなかったと思います! 最高の『取材』になりました! これで、最高のラブコメが書けそうです!」

彼もまた、深々と頭を下げて、感謝の言葉を口にする。その真摯な態度に、また心が温かくなる。

「ふふ、そっか。『取材』、大成功した? どんなラブコメになるのか、すごく楽しみだな。でも、あんまり私を美化しすぎないでね?」

私が悪戯っぽく笑うと、彼は「はい! 大成功です! でも、弥生さんは、俺が書かなくても、そのままで最高に魅力的ですよ!」と、自信に満ちた表情で、しかし顔を真っ赤にしながら答えた。その笑顔が、頼もしくて、眩しい。そして、またしても甘い言葉。

私たちは、駅までの夜道を、ゆっくりと歩いた。

遊園地の喧騒はもう遠く、代わりに虫の声と、時折通り過ぎる車の音だけが聞こえる。街灯のオレンジ色の光が、私たちの歩く道をぼんやりと照らしていた。

隣を歩く彼との距離は、観覧車の中や、お化け屋敷で手を繋いだ時よりも、少しだけ開いている。それが、現実に戻ってきた証のようで、少しだけ寂しい。でも、決して遠いわけではない。意識すればすぐに触れられる、そんな、もどかしいけれど、心地よい距離感。さっきまで繋いでいた彼の温もりを思い出しては、無意識に自分の手のひらを握りしめてしまう。

帰り道は、どちらからともなく、無言になる時間が多かった。

何を話せばいいのか、言葉が見つからなかったのかもしれない。あるいは、言葉にしなくても、今日一日で共有したたくさんの感情や記憶が、私たちの間に満ちていて、それで十分だったのかもしれない。

ただ、時折、ふとした瞬間に視線が合っては、どちらともなく、はにかむように微笑み合う。そんな、穏やかで、温かい時間が流れていた。

駅に着き、ホームで電車を待つ。私たちの家は途中まで同じ路線だ。ベンチに隣同士で腰を下ろす。さっきまでの非日常的な高揚感が、少しずつ落ち着きを取り戻し、代わりに、心地よい疲労感と、やはり名残惜しさがじわじわと広がってくる。

電光掲示板が示す時刻が、夢のような一日の終わりを告げている。あと少しで、私たちは別々の電車に乗り、それぞれの日常へと帰っていくのだ。

やがて、ホームに電車が滑り込んできた。土曜日の夜。車内は思ったよりも混雑していて、座ることはできなかった。私たちはドアの近くに立ち、吊革に掴まる。自然と、また肩が触れ合う距離になる。

ガタン、ゴトン……。電車は、夜の街を走り抜けていく。窓の外を流れる景色を眺めながら、私は今日の出来事を反芻していた。メリーゴーランド、コーヒーカップ、ジェットコースター、お化け屋敷、昼食、そして観覧車……。その全てが、彼と一緒だったからこそ、特別な思い出になったのだ。

(……本当に、楽しかったな……。航くんも、楽しんでくれてたらいいな)

そして、楽しかっただけではない。

彼の、色々な表情を見ることができた。無邪気にはしゃぐ顔、怖がる顔、真剣な顔、照れる顔、そして、観覧車の中で見せた、あの大人びた表情……。そのどれもが、私の心を掴んで離さない。私は、確実に、彼に惹かれている。それも、かなり深く。

(……これから、どうなるんだろう、私たち。今日のことで、少しは進展したのかな…)

今日のデート(取材)で、私たちの距離は、間違いなく縮まったはずだ。でも、それは、恋人としての距離なのだろうか? それとも、まだ、「頼れるお姉さん」と「年下の男の子」の範疇なのだろうか?

観覧車での、あの特別な空気。触れ合った肩の温もり。言葉にはならなかったけれど、通じ合った(と信じたい)気持ち。あれは、私の願望が生み出した幻だったのだろうか?

「……弥生さん、疲れてないですか? 大丈夫ですか? 俺のせいで、無理させちゃってませんか?」

隣で、彼が心配そうに私の顔を覗き込んできた。窓ガラスに映る自分の顔は、確かに少し疲れているかもしれない。でも、それ以上に、様々な感情で胸がいっぱいだった。

「うん、大丈夫だよ。楽しかったから、全然疲れてない。航くんこそ、大丈夫? 私に振り回されて疲れちゃったんじゃない?」

私は、笑顔で答えた。それは、強がりではなく、本心だった。

「そっか、良かったです。俺も、全然疲れてません! むしろ、アドレナリンが出てるのか、まだ興奮してます! 弥生さんと一緒だと、時間があっという間です」

彼は、少しだけ子供っぽい言い方で、元気に言った。その様子が、また可愛い。

「……今日の『取材』の成果、早く読みたいな。航くんの書く、遊園地デートのシーン。きっと、すごくドキドキするんだろうな」

私がそう言うと、彼は「は、はい! 頑張って書きます! 弥生さんに、一番に読んでもらいたいです!」と、少しだけ緊張した面持ちで頷いた。

「でも、あんまり期待されると、プレッシャーが……。弥生さんにガッカリされたくないですし…」

「ふふ、大丈夫だよ。航くんの才能なら、きっと乗り越えられるって信じてるから。航くんが感じたままを、正直に書けば、きっと素敵なシーンになるよ。私も、航くんの読者として、全力で応援するから」

私は、心からの言葉で彼を励ました。彼の才能を、私は信じているのだ。

「……ありがとうございます。弥生さんにそう言ってもらえると、すごく勇気が出ます。弥生さんは、俺にとって、最高の読者であり、最高のミューズです」

彼は、照れたように、でも嬉しそうに笑った。その笑顔が、また私の心を温かくする。「最高のミューズ」なんて、そんなこと言われたら、また期待しちゃうじゃない。

そんな会話をしているうちに、無情にも、私が乗り換えるべき駅が近づいてきた。「次は、〇〇〜、〇〇〜」というアナウンスが、別れの時を告げる。

「あ……じゃあ、私、ここで」

私が、名残惜しそうな声で言った。彼も、寂しそうな顔をしている。

「……うん。そっか……。弥生さん、今日は本当にありがとうございました」

電車がホームに停車し、プシューという音とともにドアが開く。

「……こちらこそ! 私も、最高の一日だったよ! 航くんのおかげで、忘れられない思い出ができた」

私も、笑顔で答える。

「……あの、弥生さん」

彼が、何かを言い淀むように、視線を少し泳がせた後、意を決したように口を開いた。

「……また、『取材』、行きましょうね? 今度は、俺が弥生さんをエスコートできるように、もっと色々調べておきますから!」

彼は、少しだけ照れたように、でも、真っ直ぐな目で、そう言った。

その言葉に、私の心臓が、また大きく跳ねた。

「……うん! もちろん! 今度は、私が航くんを取材する番かもしれないけどね!」

私は、満面の笑みで、力強く頷いた。

「じゃあ、気をつけて帰ってくださいね。……おやすみなさい、弥生さん。また、連絡します」

「航くんも、気をつけて。……おやすみ。連絡、待ってるね」

ドアが閉まり始める。私は、彼に手を振った。彼も、少しだけぎこちなく、手を振り返してくれる。

電車がゆっくりと動き出す。窓越しに、彼の姿がだんだんと小さくなっていく。見えなくなるまで、私はずっと、その姿を目で追っていた。

一人になった乗り換えのホームで、私は、ふう、と大きな息をついた。

夢のような一日が終わってしまった、という寂しさ。でも、それ以上に、胸の中に広がるのは、温かくて、満たされたような、確かな幸福感だった。

(変わった。確実に何かが変わった。彼も、私と同じように、何かを感じてくれてるはずだ)

彼との距離。私の気持ち。そして、おそらくは、彼の気持ちも……?

観覧車での沈黙。触れ合った肩の温もり。そして、別れ際の「また行こうね」という約束。

それは、言葉にはならなかったけれど、確かに、私たちの関係が新しいステージへと進んだことを示しているような気がした。

だが、同時に、拭いきれない不安も、まだ心の片隅に残っていた。

年の差。立場の違い。彼の、あの致命的なまでの鈍感さ。そして、まだ見ぬライバルの存在……? ラブコメのセオリー通りなら、きっとこの後、何らかの波乱が待ち受けているはずだ。

(まあ、いいか。今は今日のこの幸せをしっかり噛みしめよう。彼との未来を、信じたい)

私は、スマホを取り出し、彼とのメッセージ履歴をそっと開いた。今日の思い出を反芻するように、一つ一つのやり取りを読み返す。自然と、顔がにやけてしまうのを止められない。

家に帰り着き、ベッドに倒れ込む。

心地よい疲労感。そして、胸を満たす、甘くて切ない余韻。

今日の出来事を、早く小説に書き留めたい、という衝動に駆られるが、さすがに今日はもう限界だ。明日にしよう。

眠りにつく直前、スマホが震えた。航くんからだった。

『弥生さん、無事に家に着きましたか? 今日は本当にありがとうございました! 最高の一日でした! まだドキドキしてます。弥生さんと過ごした時間、全部宝物です。ゆっくり休んでくださいね! P.S. 次の『取材』の約束、指切りはしてないけど、絶対ですからね! 俺、頑張って弥生さんをドキッとさせられるようなプラン、考えます!』と、少しふざけた感じの追伸も添えられていた。

指切り……! あの時のことを、ちゃんと覚えていてくれたんだ! しかも、「絶対」とまで。そして、私をドキッとさせようとしてくれるなんて。

そのメッセージを、私は何度も何度も読み返した。スマホを胸にぎゅっと抱きしめ、思わず「ばか…嬉しいじゃない…」と小さく呟いてしまう。顔が熱い。心臓がうるさい。もう、完全に、恋する乙女だ。

(うん。大丈夫。きっと大丈夫。彼も、私と同じ気持ちでいてくれるはずだ)

漠然とした不安よりも、今は、彼との未来への期待の方が、ずっと大きい。

私たちのラブコメは、まだ始まったばかりなのだから。

私は、幸せな気持ちに包まれながら、ゆっくりと目を閉じた。

夢の中でも、きっと、彼と遊園地を歩いているのだろう。そんな気がした。



翌日からの日常は、あの遊園地での一日を経て、明らかにその色合いを変えていた。

航くんとのメッセージのやり取りは、さらに頻度を増し、その内容も、以前よりずっと親密で、パーソナルなものになっていった。「おはよう」「おやすみ」の挨拶はもちろん、互いの日常の些細な出来事を報告し合い、時には、電話で他愛のないおしゃべりを何時間もしてしまうこともあった。

彼が書く小説も、順調に進んでいるようだった。遊園地での「取材」の成果は絶大だったらしく、「弥生さんのおかげで、すごくリアルなシーンが書けました! 主人公が、ヒロインの意外な一面に本気で惹かれ始めているのが、自分でも驚くくらい書けたんです!」と、興奮気味に報告してくれた。その原稿を読むのが、私の新たな楽しみになっていた。彼の描く弥生(仮)が、主人公との距離を縮めていく様子に、自分のことのようにドキドキし、そして、その描写の裏にある、彼自身の気持ちを想像しては、一人で胸を高鳴らせていた。

もちろん、全てが順風満帆というわけではない。

相変わらず、彼の鈍感さに、やきもきさせられることもあったし、年の差や将来のことを考えると、ふと不安になる瞬間もあった。それに、美咲からは「あんたたち、まだ付き合ってないんでしょ? いつまでそんな中途半端な関係続ける気? さっさと告っちゃいなさいよ!」と、鋭いツッコミを受けることもあった。

それでも、全体的に見れば、私の日常は、確実に、良い方向へと向かっているように思えた。

航くんという存在が、私の単調だった日々に、彩りと、ときめきと、そして、未来への希望を与えてくれている。それは、間違いのない事実だった。

このまま、穏やかで幸せな時間が続いていく。

そう、信じていた。信じたかった。

だが、物語の神様は、やはり、少しだけ意地悪らしい。

先日、大学の構内を歩いている時、ふと見かけた覚えのある制服の集団。その中に、航くんとよく似た後ろ姿を見つけたような気がしたのだ。まさか、とは思ったけれど、その日から、私の心には小さな棘が刺さったままだった。

この、輝き始めた日常の中に、小さな、しかし無視できない影が、静かに忍び寄ってきていることに、この時の私は、まだ気づかずにいたのだ。

それは、これから訪れるであろう、新たな波乱の、ほんの始まりに過ぎなかったのかもしれない。

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