第29話 キス
「分かってないよなぁ、みんな。俺には今日しか残されてないのに」
「帰るのは明日でしょう!?」
驚いて涼ちゃんの方を、バッと見る。涼ちゃんは笑って「そんなに帰ってほしくない?」と言った。
わたしは涼ちゃんのTシャツの裾を引っ張る。気持ちが、分からないまま。
「困ったな、そんな顔されたら帰れない。いっそ、連れて帰るか」
冗談にならない。今、ひとりにしてほしくない。
「あー、涼ちゃんも帰りたくないんだよね。バイト、辞めちゃおうかな。代わりのヤツ探して」
「ええっ? それはダメだよ」
「だって帰ってほしくないんでしょ? それしかない⋯⋯またそんなかわいい膨れっ面して」
涼ちゃんの手がわたしの頬に伸びる。わたしはその手を捕まえて、キスされるのをかわした。
「キスくらいいいじゃん」
「くらいっていうのは気に入らないなぁ」
「初めてじゃないんだし。今日しなかったら、当分お預けなんだよ」
「他の女の子とすればいいじゃない」
「相手に意味があるんだろう?」
両手をガシッと掴まれて、強引気味にキス、されてしまう。始めはついばむように、次第に深く、深くなって。
「狡い!」
息も切れ切れにわたしは抗議した。涼ちゃんは笑って「感じた?」と訊いた。わたしは彼の胸をドンドン殴ったけど、薄っぺらそうに見える彼の身体はビクともしなかった。⋯⋯男の人なんだ。
「ごめんね、答えが出ないよ。ふたりとも、昔と同じく優しいんだもん」
「あの朴念仁がいいの?」
「⋯⋯青龍は優しいよ?」
「俺の前で他の男を褒めるなよ」
チッと、涼ちゃんは苛立ちを見せた。
「逃がさない。俺、本気だから! 本気じゃなかったら、昨日、マジでヤッてるし」
帰ろう、と何故か涼ちゃんは傷付いた顔をして、背中を向けて歩き出した。手も繋いでくれなくて、不安になる。
いつまでも答えの出せないわたしを、嫌いになったのかもしれないと、不安になる⋯⋯。
「待って」と呼びかけると、寂しそうな顔をして涼ちゃんは振り向いて手を伸ばす。
その手を頼りにしていいのかわからないけど、わたしは縋った。握り返してくれるその手が、昨日とはちょっと違う気がして不安になる。――彼も不安なのかもしれない。
◇
「明日は法事だけど、簡単に済ませるから。仕出し弁当も頼んじゃったしね。じゃあ、真帆ちゃん、青龍と買い物に行ってきて。ほら、飲み物とかお茶受けが足りないのよ。お願い!」
おばあちゃんも出てきて「暑い中、悪いね」と一万円札を渡してくる。逃げ場がない。
涼ちゃんは昼寝に入ってしまっているし、これはもう青龍とふたりきりから逃げられそうにない。
昨日から一言も口をきいてない⋯⋯。
「先に車に乗ってるから、冷房効いた頃に来いよ」
「うん⋯⋯」
今までは助手気取りでルンルンしてたのに、その時のわたしはバカみたいだ。何も考えてなくて、青龍、優しいなぁなんて思ってた。
青龍にだって⋯⋯恋、とかあるのに。
でもわたしたちの仲はその辺、かなり曖昧だったから、特別扱いされていい気になってたというか。
⋯⋯まだ高輪くんのことも吹っ切れてなかったしなぁ。
ここに来て忘れられそうになったけど、新たな難題が降りかかるとは思ってもみなかった。
恋って、厄介だ。
気まずいなぁ、と思いながらビルケンを履く。いってきます、と玄関を出る。
青龍が運転席に座っていた。ハンドルを両手で持って、項垂れて。
「⋯⋯お待たせしました」
「シートベルト」
「はい」
ベルトを閉めたと同時に、車は走り出した。昨日の涼ちゃんの運転とは、何かが違う。涼ちゃんの運転はなめらかに滑るような運転だったけど、青龍の運転は車に優しい感じ。
どっちが悪いという訳ではないんだけども。
そんなことで男を比べたりもしないんだけども。
一通り買い物をして、その間、事務的な言葉のやり取りしかなくて、しんどい。
何か、もっと、話すことがあるはずなのに――。
「真帆子、何か買うものある?」
「あ、ドラッグストアかコンビニに寄ってほしいんだけど!」
いつもと違う方向に車は走る。
ドラッグストアに連れていってくれるんだな、と分かる。
実はマニキュアを塗ってきたのはいいものの、
ピンクのネイル、剥がれかけてる。
これもこの夏の思い出だ。
除光液を買うついでに、飲み物を買っていく。定期的に水分を摂らないとバテてしまう。
「お待たせ。青龍、コーラでよかった?」
青龍はまた自分の世界にこもっていたようで、わたしの声に驚いた。
「ああ、さっき自分たちの分、買い忘れたな。具合、大丈夫?」
「だから水分補給」
はい、と手渡しする。手が触れそうになって、青龍がコーラを落とす。ボトルは厄介なことに助手席の下に転がって、ふたり、慌てて下を向く。頭がぶつかりそうになって、前を向く。
「⋯⋯」
青龍にしては、決断が早かった。
青龍はそういうことは大切にしていて、勢いでしたりしないのかと思っていた。
ここ、ドラッグストアの駐車場だし。
周りの車は殆どいないと言ったって、だだっ広い郊外の駐車場だ。
わたしたちは、初めてキスをした。
触れるだけのキスだったのに、青龍はきつく、わたしを抱きしめた。昨日の、足首を掴まれた時の力を思い出すくらい、きつく――。
「悪い」と言いつつ、その腕は解けなかった。わたしは突然のことにビックリしてしまい、声が出ない。何も返事が出来ない。
「昨日の夜は悪い事をした」
「⋯⋯覚えてたんだ?」
「自分のした事だからな。まぁ、何となく」
「何となく、なんだ?」
「今みたいにしたいって、本当は思ってたよ」
その声は不器用に優しくわたしの身体に響いた。
青龍はわたしの身体を離すと、その長い腕でコーラのボトルを拾う。
蓋を捻ると、プシュッと炭酸が弾ける音がした。
喉仏が上下して、ゴクゴクとコーラを飲んだ。
わたしはその間、呆然として、ただアイスティーの蓋を捻った。今日に限ってそれはすぐに開いて、不思議な気持ちになる。
開けてもらうために、蓋がある訳じゃない。
口を付ける。
何だか恥ずかしい。
唇が、敏感になってる。
「嫌だったなら、ごめん」
「⋯⋯してから謝らないでよ」
何故か泣きたい気持ちになる。
涼ちゃんと青龍のスピードは違う。でも、順番というのはある訳で、触れるだけのキスは何だか悲しかった。
わたし、欲張りになった。
青龍は背中を丸めて項垂れて、それから「帰ろう」と言った。
すごく裏切られた気がする。
返事はしなかった。
◇
家に着くと涼ちゃんが起きていて、荷降ろしを手伝ってくれる。
わたしと青龍は相変わらず口をきかず、わたしは伯母ちゃんの指示で、買い物をあちこちにしまう。
青龍はお茶のペットボトルの箱を、玄関に降ろしていた。
「真帆」
涼ちゃんがわたしの手を引いて、その場から連れ出した。後ろで伯母ちゃんの「涼平はまったく」という声が聞こえた。
暑い中、手を引かれて緩い坂道を走って息を切らす。
「涼ちゃん、待って」という声は届かないのか、スピードは緩まない。
はぁ、はぁ、と呼吸は整わず、だらだらと汗をかく。帽子を置いてきたことに気付く。
猛暑の昼間の公園には誰もいなくて、蝉の声だけが場を満たしていた。
「寝てるうちに青龍と買い物になんか行って」
「伯母ちゃんとおばあちゃんに頼まれたから」
「だからって! 青龍ひとりで行けばいいんだよ、そんなもん」
「涼ちゃんが来る前は、一緒に行ってたんだよ」
汗だくなのに、抱きしめられる。涼ちゃんも汗だくで、ふたりして何してんだか、という感じがする。
今更だけど、涼ちゃんはわたしのことが余程すきなんだなぁと実感する。
そんなに嫉妬するなんて、と思いつつ、その勘は当たってるから怖い。
「真帆、目が腫れてる⋯⋯。青龍と何かあった?」
何も、と言うべきだと思いつつ、唇が動かない。ちょっとした嘘をつけばそれで全てが上手くいくのに、と思いつつ、身体が動かない。
ただ、呼吸が荒い。
「『すきだ』って言われたんだよ。ただ、それだけ」
小さな嘘をつく。じゃないと、涼ちゃんが何をするか分からなかった。
「相変わらず根性なしだな。折角ふたりきりだったのに」
キスはもうやめて、とは言えなかった。あっさり涼ちゃんに上書きされてしまう。キス、すきなんだな、とぼんやり考えたのは暑さのせいかもしれない。
キスしたら心が繋がるというのなら、ふたりと同じ回数、キスをしてそれを測るのに。
木漏れ日がキラキラ眩しい。
目がつぶれてしまいそう。
わたしの欲しいものはなんだろう?
高輪くんを失って、よく分からなくなってしまった。
「涼ちゃんと一緒にわたしも帰ろうかな、なんてね」
へへ、と笑う。半分本気。
涼ちゃんが帰ったあと、どんな風に青龍と接していいのか分からない。
「ダメだ、わたし」
へにゃっと座り込む。涼ちゃんが腰を折って、わたしを覗き込む。
「青龍にいざ告白されたら、真っ直ぐに向き合えない」
「だから、難しいことは考えないで俺にしておけばいいじゃん」
「贅沢なのは分かってるんだけど、ふたりともダメなところが見つからないもん」
「いいよ、心の中の何分の一か、青龍のことを想ってても。全部、俺でいっぱいになるまで待つから」
「そんないい加減なことできないよ」
「泣くなよ。泣くなら⋯⋯涼ちゃんの胸で泣きなさい。ほら」
優しくされると余計に辛い。
涼ちゃんのこと、すきなのかもしれない。だってこんなに自分をさらけ出して甘えてる。
でもどうしてか、青龍のことが切り捨てられない。心のどこかに青龍がいる――。
「俺も早くこっちに来てれば良かったな。そしたら、真帆をこんなに泣かせなくて済んだのに。バイトなんか引き受けなきゃ良かった」
「⋯⋯サンダル、買えなくなってたかもよ」
「あのサンダル、そんなに気に入ってくれた?」
「大ヒットだよ」
「それなら良かった」
わたしたちはしばらくそうして、誰も来ない公園でしゃがみ込んでいた。
蝉の声だけが、変わらず響いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます