第20話 臆病

 夜の庭は暗闇に沈んで、まるで底なし沼のように見えた。

 この前は光の届かないところまでふたりで行って、天の川を見たのに、と思うと残念な気持ちになる。

 本当につまらないことを言ってしまったせいで、この貴重な時間が、どんどん過ぎていく。


「⋯⋯彼女のこと、すきだった?」

「すきだった」

「なのにどうして別れちゃったの?」

「俺は気の利いたことは言えないから。『つまんない』って」

「あんまりじゃない? 青龍のいいところ、全然見てないよ」


 お前がそんなに怒るなよ、と青龍は笑って、そっとわたしの髪に触れる。

「タオル」

 首にかけていたタオルを渡すと、予想通り、髪をわしわしと拭かれてしまう。みんなしてわたしのこと、子供扱いして、という気になる。


「まぁ、縁がなかったんだよ。仕方ねぇよ」

 それはまだ未練があると言っているようにも見えて、わたしの心は切なくなる。

 失恋の痛みは、嫌って言う程、味わったから。

「青龍、わたしは青龍のそういうところもすきだよ」


 ポロッと口から出てしまって、これは大変なことを口走ったんじゃないかと焦る。

 ちょっと待って。

 いい言い訳も思い付かない。

 しかもわたしたちは見つめ合っていて、ちょっとした拍子に触れ合ってしまう距離にいる。

 青龍はそれに対していつも通り、何かをすぐに言い返してくれる訳でもなく、わたしの目の奥をじっと見つめた。


 不思議と胸が熱くなってくる。

 織姫と彦星が、何か大切なことを囁いている気がするのに、夜空を見上げる余裕がない。

 待っている。何かを言ってくれることを。

 ⋯⋯待っている? 何を期待して?

 その時青龍が動いて、わたしの手を掴んだ。

「真帆子、俺」


 母屋からの影が揺らいで、蚊取り線香の煙たい匂いがぷんとした。

 涼ちゃんが戻ってきたからだ。


「ついでに冷えてるビール、二本持ってきたよ」

 健が目を覚ましちゃって大変でさぁ、と涼ちゃんは話して、大丈夫、何も聞かれてないと安心する。


 心臓は早鐘を打って、すぐには収まりそうもない。手の、掴まれたところがまだ熱を帯びている。その言葉の続きを聞きたかったような、聞くのは怖いような、微妙な気持ちになる。


「あれ? 何か大事な話でもしてた?」

「何でもねぇよ。星座を教えてただけ」

「ああ、ここ、星がキレイだからね」

 涼ちゃんは青龍の方に、アルミ缶を差し出した。

 青龍は残っていたビールを飲み干すと、空き缶を足元に置いて新しいビールを開けた。


「真帆、流れ星、見つけた?」

「ううん、見つからない」

「それは残念だね。願い事が叶うところだったのに」


 流れ星が見つからなくて良かった。

 前のわたしなら高輪くんのことを思って、願い事をしたかもしれない。

 でも今の欲張りなわたしは――何をお願いしたらいいのか、全く分からなかった。


 ◇


『すき』って言ってしまった!

 しかも思いっ切り!

 あれじゃ、そう思われても仕方ないじゃない?

 だって、なんか、そういう流れだったし。

 いやいや、流れなんかでそんなに大切なことを言ったりできるわけがない。


 ⋯⋯すき?

 するりとこぼれてしまった言葉は、元からわたしの心の中に住みついていたのか?

 それともただ、ムードに流されて⋯⋯。


 どっちにしても、言ってしまった言葉は元には戻らない。

 わたしは青龍を『すき』だという可能性を、認めるしかない。

 だって、ずっと、優しくしてくれて。


 小さい頃から知ってる分、言わなくても分かることが多くて、大切にしてくれて、あんなに⋯⋯。

 すきにならない要素がある?


 ない。

 すきになっちゃっても仕方ない。

 でも、青龍もすきでいてくれてるという確証はない。

 大切にしてくれたのは、小さい頃から知ってる『真帆子』で、子供のように過保護に接してくれたのかもしれないじゃない。

 涼ちゃんみたいに、核心的なことは何ひとつ言ってくれないのは分かってる。


 でも、何も言われないで何を分かれと?

 分かんないから、仮にわたしが青龍を本当にすきだとしたら、すきな人のことこそ、分かんないから。

 だからみんな、恋をすると不安になる。


 ⋯⋯不安。

 本当は嫌われてたらどうしよう?

「真帆子、俺」の続きが、「お前のこと、そういう目で見られない」とかだったらどうしよう?

 涼ちゃんがあの時、来てくれたのが良かったような、悪かったような、複雑な気持ちになる。

 嫌われちゃってたらどうしよう? わたし、また泣くのかな? 振り出しに戻るのかな?


 青龍が狡い。

 ずっと、優しくするから⋯⋯。


 ◇


 翌朝は「おはよう」はしたけど、目が合わせられなくて、青龍が盛ってくれた朝食を、黙々と配って歩く。

 この、ほんのり焼き色のついた卵焼き。これに匹敵するものを作る自信はまったくない。ぬか漬けだって、飽きずに続ける自信はない。


 そんなわたしに、青龍は好意を寄せてくれるだろうか?

 ない。

 自信が全然持てない。


「そうやってると、夫婦みたいだな。うらやましい」

 夫婦! 涼ちゃんが余計なことを口にする。

「確かに真帆ちゃんがお嫁さんになってくれると、安心だけどね」なんて、明日香ちゃんと伯母ちゃんはにこにこ話している。

 おばあちゃんまで「田舎で良かったらおいで」なんて言い出して、脳内の処理が追いつかない。


「真帆子、終わったぞ」

「あ、はい」

 お盆を台所に戻して、席に着く。「いただきます」をする。


 すっかり慣れてしまったけど、家にいる時はみんなバラバラに「いただきます」をした。そういうことのひとつひとつに慣れてしまって、今ではここが居心地のいい場所になってしまっているのは事実だ。


 でも、それと、お嫁に来るのとは間にすごい山と谷があるような気がする。

 ワカメと豆腐の味噌汁に、そっと口を付ける。優しい味がする。元カノさんは、青龍のこういうところを知っていて「つまらない」って言ったのかな、と思うと腹立たしい。


 いやだから、わたしは今の青龍のこういうところを含めてすきであって――。

 すき?

 やっぱりすきなの?

 誰か、それに答えてほしい。


 わたしは涼ちゃんの気持ちも考えると言ってしまった。これじゃ二股だ。でも涼ちゃんがあんまりにも本気だったから、突っぱねられなくて――。


 無垢な子供の頃ならこんな悩みはなかった。

 ただ、追いかけっこをして、おままごととかくれんぼをして、四つ葉のクローバーを探して。

 あの日々はどこに行っちゃったんだろう?

 それともあの日々が育んだものが、今の結果なんだろうか?


 問題は、わたしはまだ青龍に、すきだとは言われてないことだ。

 それらしいことは無かったわけじゃないけど、決定的なことも無い。

 こんなに晴れてるのに、心の中はどんより曇り空だ。


 青龍のこと――。

 優しくされて、甘やかされたから、勘違いしちゃったのかもしれない。

 どっちにしても、涼ちゃんには帰るまでに返事を決めなきゃいけない。涼ちゃんはほんとにわたしに本気なのかなぁ?


 この前、男にフラれたばかりのわたしは少し臆病だ。また傷つくのが嫌だった。今度はわたしの気持ちも少しは優遇してくれる人と、付き合いたい。

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