第19話 嫉妬

 暑くて何処にも行けない、という話になって、朝ご飯の後、みんなで映画でも観ようかという話になる。

 伯母ちゃんが「たけちゃんは見ててあげるから、何でもすきなの観なさいよ」と言ってくれる。

 だったらあの流行った映画が観たいなぁ、と明日香ちゃんが言って、青龍がタイトルを訊く。


「じゃあレンタル行ってくるか」と青龍が立ち上がって、明日香ちゃんが「こんなに大きなテレビがあるのに、サブスクのひとつも入ってないの?」と大きな声を上げた。


「だって俺しか観ないしなぁ」

「信じらんない。何処まで借りに行くのよ」

「ほら、駅向こうの」

「あんなところまで!? 健が大人しく見終わるまで待っててくれるとは思えない」

 明日香ちゃんは急にやる気をなくし、シュンとした。


「アンタたちで映画館でも行ってくればいいじゃない」

「明日香ちゃんも行こうよ! たまにはたけちゃんは伯母ちゃんに見ててもらって、息抜きに、ね!」

 それはいい案のように思えた。

 だけど明日香ちゃんはテーブルにぐったりと突っ伏して、「健は二歳のイヤイヤ期だからさ、置いていけないよ。母親としての悲しい性よね」と言った。


 何処にも行きたくない、から始まった話は意外な方向に向かった。

「アマプラをタブレットかPCで観る?」と青龍が言ったけど、涼ちゃんが「三人で観るのに画面が小さすぎるでしょ」と却下した。


 それより何を観るかだよなぁ、と涼ちゃんは思案顔になって、スマホを取り出した。

「上映時間が丁度良くて、真帆も楽しめるヤツじゃないとな」

「わたしは別に何でもいいよ」

「まぁ、探してみよう」


 ◇


「⋯⋯まぁ、いい映画だったな」

「思ってたよりずっと良かった」

 うん、とふたりは頷きあった。ふたりはそれ以上、何も言えずに、わたしはひとりでハンカチで目を押さえていた。


 映画館からすぐ出ずに、ロビーのソファに涼ちゃんが腰を下ろし、「真帆も座りなよ」と促してくれる。

 うん、と頷いてわたしは座り、涼ちゃんは子供をあやすように、よしよしとわたしの頭を撫でた。


「真帆、観に来て良かった?」

「うん。でもふたりにはつまらなかったんじゃない?」

「そんなことないよ、俺、ラスト泣くかと思ったし」

「そう?」

「青龍もだと思うよ」と涼ちゃんはにっこり微笑んだ。それは魅力的な美しい微笑みだった。


「俺も面白かったよ」と青龍がやって来て、わたしにカップを渡す。アイスティーだった。

 カップをわたしから取り上げると、涼ちゃんはガムシロを入れてよく混ぜてから返してくれる。


「やっぱりさ、泣かされるよね、夫婦ものって謎に」

「謎にって何だよ」

「だって俺たちまだ結婚してないのに、共感しちゃうんだからさぁ」

 わたしたちは遠い目をしていたんだと思う。

 見えない未来を見ていた。


「さて、真帆も落ち着いたみたいだし、少しブラッとして帰るか」

「あ、お土産に美味しいお菓子でも買っていかない?」

「この前のところのケーキにでもするか」と涼ちゃんと盛り上がる。

 青龍は、後ろからゆっくりついてきた。


 ケーキを買って、立体駐車場に停めていた車に戻ると、涼ちゃんが「ちょっと待ってて。やっぱトイレ行ってくる」と乗りかけていた車を降りた。

 車のエンジン音が鈍く響く。

 青龍が手にスマホを持って、プレイリストを探してる間、何か言わないといけない気がして、焦る。

 音楽が、かかる前に、何か。


「今日はありがとう。映画、わたしの好みに合わせてくれて」

「面白かったから、別にそれはいいって」

「あと、えっと⋯⋯アイスティー、ありがとう。すごくうれしかった」

「それくらいのことで」

「違うの。好みを覚えててくれたから。そういうのってうれしいでしょう?」


 青龍は何とも言えない顔をした。わたしが次の言葉を待っていると、「お前、涼平と」と言いかけたところで涼ちゃんが「ごめん」と戻ってきた。

 カーステレオがプレイリストを歌い始めて、涼ちゃんは車に乗り込んだ。


「サザンじゃん、すきなの?」

「まぁ」

「いいよなぁ、サザン。海に行きたくなる。三人で行く?」

「ちょっと遠いよ」

「なんだよ、ちょっと言ってみただけだよ。そんなにマジにならなくたって」


 カーステレオからはその後ずっとサザンが流れていて、わたしたちを波音で揺らした。

 来年の夏はきっと、三人で海に行ったりしないだろうと、何となく思っていた。


 ◇


 お風呂を上がってふと窓の外を見ると、ふたりが縁台に並んで座っていて、わたしもビルケンを履いて外に出る。

 喧嘩ばかりしてるふたりだけど、何かを穏やかに話してるようで、そこにはいい空気が漂っていた。

「誰?」

 涼ちゃんがこっちを振り向いて、見つかってしまう。わたしはえへへと笑って誤魔化した。


「あ! 話してるのかと思ったら、ふたりでビール飲んでたんだ! いつ買ってきたの?」

「真帆子が風呂に入ってる間。涼平と行ってきた。冷凍庫にアイス入ってるぞ」

「子供扱いして!」

 わたしはプンプン怒って冷蔵庫を開けて、この前飲み損ねたピンクの缶を見つけた。


「真帆、それ飲めるの? また酔いつぶれるの、勘弁な」と涼ちゃんが言うと、青龍がわたしの手から缶を取り上げてごくごく飲んでしまう。

「あ!」

「半分だけだよ。まぁ、残り半分くらいなら、真帆子にも飲めるんじゃないの?」と軽くなった缶を渡してくれた。


 静かな夜だった。

 母屋からの光以外は真っ暗で、いつも通り、夜の庭はひっそりしていた。わたしは甘いお酒を飲みながら、そっと夜空を見上げた。

 はくちょう座は今夜も天の川を飛んでいる。


「ふたりで何を話してたの?」

「たわいもないこと。男ふたりで話すことなんて、たかが知れてるでしょ」

「あ、わたしには内緒の話なんだ!」


 涼ちゃんが、しーっと言う。

 たけちゃんはもう寝る時間だ。


「すきなもののこと。ビールの銘柄とか、今日の映画で良かったところとか、そういうの」

「良かったよねぇ」

「あんなに泣いたのに、ケロッとしてる。そういうところは真帆も女だよなぁ」


 ムッとして「そういうもの?」と訊くと、「そういうもの」と返される。「女は切り替えが早い」

 そうかなぁ、と思いつつ、ちびり、飲む。


「あっ、蚊に刺された! 蚊取り線香持ってくるよ」

「早く戻ってこないと飲み終わるぞ」

「ちょっとくらい待ってろよ」

 涼ちゃんは明るい母屋の中に吸い込まれていった。


 涼ちゃんがいなくなると、急に青龍の質量がどんと増して、この前までふたりきりだったのに、何故かすごく青龍を近く感じる。

 動いたら触れてしまいそうな距離に、わたしの心はビクビクした。触れてしまいそう――。


「真帆子」

「はい」

 考えが読まれてしまったんじゃないかと、バカなことを考える。名前を呼ばれただけなのに、心臓が口から飛び出そうだ。この動悸を抑えるにはどうしたらいいのか、考える。深呼吸、する。


「涼平とは付き合うことに、もう決めた?」

 ギョッとして隣を見ると、青龍は銀色のアルミ缶からグイッとビールを飲んだ。

「⋯⋯ううん」

「アイツ、いいヤツだよ」

「うん⋯⋯」


 そんなことは言われなくてもわかってる。

 だけど急にこんなことになって、戸惑う気持ちもわかってほしい。


「青龍は、⋯⋯この前出かけた時にあそこで会った女の人と会ってたの?」

 のっそり、こっちを向いた。

「なんで?」

「なんでって⋯⋯その、抱き上げられた時に、女の人の香りがしたから」

 ああ、と一言こぼした。


「あれは高校の時に少し付き合った彼女で」

「会ってたんだ」

「あの後、LINEが来て、帰省してるから会わないかって誘われて。⋯⋯ランチだけだよ」

「⋯⋯会ったんだね」

「まぁ、そう」


 暑さのせいか虫の声も疎らで、わたしたちの間に空いてしまった隙間を埋めてくれるものは何もなかった。

 夏の大三角も、天の川の話ももうしてしまったあとで、話題もない。

 青龍は黙ってビールをもう一口飲んだ。

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