第2話  背伸び

「真帆子、アンタ、夏休みだからってゴロゴロしてないで

何かしたら? 暑くて出かける気にならないのもわかるけど、部屋の掃除とかさ」

 掃除機をかけながら、ママの叱責が飛ぶ。ママだって、わたしの失恋に気が付かない訳じゃないだろうに。

 ママなりの、優しさなんだろう。気付かないふりをしてくれる。


「いっそ、田舎にでも行ったら? 空気が違って、気持ちも変わるかもよ?」

「田舎かぁ」


 ママの言う田舎は、ママの実家のことだ。小さい頃はよく泊まりに行った。

 家の裏は竹林になっていて、前は全部田んぼだ。

 昼間は蝉の声、夜にはカエルの声に包まれる、正に田舎だった。


「⋯⋯行ってみようかな」

「いいんじゃない。ママが後で電話しておいてあげるから、荷物、作っておきなさいな」

「うん」


 街中は夕方になってもぬるい風しか吹かなかった。

 わたしはユニクロに迷わず行って、デニムの涼感パンツを買った。それからダンガリーでできたウエストゴムの楽なパンツと、八分丈のギンガムチェックのパンツ。

 欲しいなぁと思いつつ、我慢してきたものだ。

 Tシャツを三枚、涼しそうな半袖のブラウスを二枚、UVカットのパーカーはミントグリーン。

 帰りに寄ったビルケンで、踵もストラップもないサンダルを買う。緩い形なのに、パカパカしないで足にしっくりくる。


 ほら、夏だ。

 ぐーんと背伸びをして、サーティワンで甘いアイスを食べる。その甘さはわたしの火照った身体を一瞬、冷やしてくれた。


 ◇


 話し合って、おばあちゃんのとこには電車でひとりで行くことになった。ママはパートで忙しいし、わたしももうすぐハタチなんだから、ひとりでも行けるだろうと。

 数年前に亡くなったおじいちゃんの法事以来だから、ちょっと気恥ずかしくもあったけど、大学生になってまで親同伴も恥ずかしい。

 旅行カバンに荷物を詰めて、特急に乗る。


 都会のビルは車窓から見ると、どんどん疎らになって、遠くに行くことを実感させられる。

 さようなら、高輪くん、と小さい声で呟いたわたしは、スヌーピーのTシャツにデニムのスパッツだった。足元にはビルケン。普段は塗らないオレンジのペディキュア。

 暑苦しい髪もバッサリ切って、襟足が、涼しい。

 東京駅で買った駅弁を頬張る。何故かすごく美味しい。

 田舎に期待する気持ちが、ぐんぐん湧いてくる。


 駅に着くと、見慣れた顔がわたしを迎えた。

「真帆子、よく来たな。こんな田舎で何にもないのに。避暑地にもならねぇよ」

 失礼なこの男は従兄妹の青龍せいりゅうだ。仰々しい名前を付けた伯父さんの気持ちが未だによく分からない。

 駅前のロータリーに停めた車ブルーの軽自動車で、運転席からするりと降りると、彼はわたしの荷物をスライドドアから後部座席に放り込んで、助手席に座るように促した。


「東京は暑そうだなぁ」

「そんなことないよ。来てみたらこっちとそう変わらない」

 実際、気温はそれ程変わらなかった。盆地だからかもしれない。

 威勢よく、蝉が鳴いている。


「都会に住んでるとお洒落になるかと思ったけど、こっちとあんまり変わらねぇな」

「暑くてお洒落とかしてらんないよ」

「それもそうか」

 車の中ではFMラジオが、アメリカのトップチャートを流していた。20位からみんな、悲しいことにラブソングだった。

『悪いことは言わないから、ワタシの男でいなさいよ。そしたら飛びっきりいい思いをさせてあげるから』

 アメリカ人は大胆だ。


 そうして、狭い車の運転席と助手席の間に確かにある空間が、久しぶりに会った青龍とわたしの距離感を表している気がした。

 わたしはラジオに聴き入るふりをして、沈黙を保った。

 窓の外は、寂れた商店街を抜けて、どんどんわたしたちを目的地に運んでいった。


 ◇


「真帆ちゃん、よく来たね!」

 本家の伯母ちゃんが、快く出迎えてくれる。

 挨拶をしている間に青龍が、旅行カバンを車から降ろしてくれた。結構、重いはずなんだけど、軽々と持ち上げて、壊れ物のようにそっと降ろす。

 案外、気をつかってくれてるんだと驚いた。


「とりあえず上がんなさいよ」

「はい、お世話になります」

「あらよぉ、綺麗になっちゃって。田舎の子とはまるで違うわ。この手の白いこと」

 ぺしっと軽く叩かれて、みんなが笑う。

 玄関脇の居間には、おばあちゃんと青龍のお姉ちゃんの明日香あすかちゃんがいるようだった。役所勤めの伯父さんは、まだ帰ってない。


「お父さんね、真帆子ちゃん来るの楽しみにしてたんだけども、休日出勤だって。なかなかないのに運が悪い人だねぇ」

 だよねぇ、と明日香ちゃんが笑う。


 松岡の家ではとっくに農家は辞めてしまって、田んぼはひとに貸しているという。おじいちゃんが亡くなって、やり切れなくなった。今では自分の家用のお米と、野菜だけを作っているらしい。

「本格的にお米やるには大変よぉ。身内の手も借りないと田植えも稲刈りも大変だから」

 わたしたちは食べるばっかりだから、農家さんの裏事情を知って、農家を辞めてしまう家が多いことを納得する。


「でも今日は真帆子ちゃんが来たから、うちの野菜も使ってご馳走だわ」


 ◇


 お風呂を上がってあてがわれた部屋で冷房を浴びていると、控え目なノックが聞こえる。はーい、と答えると、青龍だった。

 青龍ははや風呂らしく、わたしが入った後、すぐにお風呂に入って出てきたようだった。黒い髪がまだ濡れている。

 真っ黒な瞳が、わたしを真っ直ぐ見ている。


「慣れた? 騒がしくない?」

 明日香ちゃんは大学を出て早々に結婚し、たけるくんという二歳の子を連れて来ていた。旦那さんは仕事があるから、お盆まではこっちに来られないとのことだ。

「大丈夫だよ。昔はもっと騒がしかったじゃん。従兄妹のりょうちゃんも来てたし」

「涼平?  アイツなら真帆子が来るならって、こっちに来るって言ってた。会いたい?」

「涼ちゃんも久しぶりだもんなぁ。会いたいな」

 ふと、青龍が目を伏せた気がした。

 首に下げたタオルで髪をわしわし拭く。

仕事バイトがあるから、来るのはお盆だろうな」


 言いたいことだけいって、青龍は部屋を出ていった。

 わたし、なんか悪いこと言ったかなぁと思う。

 お風呂上がりもオシャレなパジャマはやめて、安いTシャツとスパッツに変えてしまった。


 高輪くんと別れてから、いろんなことが変わっていく――。

 それは、少し怖いことだったけど、本当の自分を取り戻していく行為のような気もしていた。

 随分、背伸びしていたんだな、わたし。

 去年、履いていたサンダルの、ストラップの当たったところの踵を指でなぞる。そこはまだ固いままだった。


 高輪くんとは同じ英文科で、たまたま取った授業が被ることが多くて、自然と仲良くなっていった。

 わたしは大学生になって、お洒落に気を付けるようになって、フェミニンな服とナチュラルな化粧を心がけて、髪も長いストレートにしていた。

 わたしの中の『女の子』像が高輪くんの思うところの『女の子』像と合致したらしく、告白されたのは去年の今頃だった。ああ、一年も付き合ったんだなぁと思うとほろりと来る。


 ――いつか、忘れられるんだろうか?


 膝を抱えて冷房の風を背中に感じる。

 あれこれと思い出が頭の中を巡っては消えて、やがて、全てが消えていく。笑顔のわたしも、高輪くんのふとした笑顔も。

 背伸びしてたのが敗因かもしれない。

 大崎さんは無理なく大人に見えた。

 わたしはハイヒールを履いてコケた、笑っちゃうくらい女の子だった。


 ダルい。

 敷かれていた布団の上で天井を見つめていると、青龍が呼ぶ声が聞こえてきた。

「真帆! 花火やるぞ、花火」

「はーい、今行きます」

 健くんを喜ばせるためだろう。近頃は花火が出来る場所も減ったから。明日香ちゃんはマンション住まいだと言っていた。

 ビルケンを履いて外に出た。

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