あなたのためのレモンパイ
あかいあとり
レモンをきかせておきました
他人の顔にパイを投げつけてやることを、子どものころからひそかに夢見てきた。
酒を飲むたび父が振るう下品な暴力と違って、親友の
被害者は顔面を真っ白に染めた滑稽な姿を晒す一方で、周囲に生まれるのは涙ではなく笑顔。拳が痛むこともなければ、私のように腹や頬に傷跡が残ることもない。そのくせ仕掛け人たちは妬ましくなるほど晴れやかな顔をするのだから、憧れない理由がなかった。
せっかくぶちまけるなら、クリームたっぷりのレモンパイがいい。食べてももちろんおいしいし、メレンゲのふわふわ感は潰れたときにも見栄えが良い。何よりレモンの効いたクリームは、目に入ったときに最高に刺激的になるはずだ。
食べ物を無駄にするのは良心が咎めるけれど、投げつける相手にクズを選べばトントンだろう。
「アサ、メレンゲってこんな感じでいい?」
鼻歌を歌いながらレモンを搾っていると、恋人の
「ばっちりだよ~。ありがとう」
きっちりツノの立ったメレンゲは、まさに理想の泡立ち具合だ。うんうんと頷きながら、私は千秋に笑顔を向けた。
「やっぱりハンドミキサーがいいとメレンゲもきれいにできるんだねぇ」
「ミキサーじゃなくて俺を褒めてよ」
四苦八苦しながらメレンゲを泡立てていた千秋は不満そうだが、残念ながらメレンゲの細かさを決めるのはやはり機械の性能だ。製菓店でも使われているというパワフルなハンドミキサーは、それだけ質が良いのだろう。
さすが小夜、と私は心の中で親友を称賛した。
パティシエをしているだけあって、親友の見立てはやはり間違いない。誕生日に彼女がくれたハンドミキサーは、今日もばっちり活躍している。
「肉の仕込みは終わったよ。サラダもオッケー。そっちは?」
「ケーキは今から焼くところだよ~。前菜はまだ。野菜は切ったよぉ」
「のんびりしすぎ。あと一時間で皆来ちゃうぞ。ほら、俺も手伝うから頑張ろう、アサ」
ごめんねぇ、と口先だけで謝って、私は千秋の横顔をじっと見つめた。
半年交際してきたけれど、やはり千秋は美しい。清潔感のある見た目といい、行き届いた気遣いといい、ちょっと純粋な子なら誰でもきっと彼に落ちるだろう。目元の泣きぼくろが陰のある色気を醸し出しているのもまた、魅力的なポイントだ。
でも、私は千秋の泣きぼくろを見ていると微妙な気持ちになる。アル中だった父を思い出すからだ。困った男は顔に印がついているのではないかと、偏見にも程があることを思ってしまう。
何はともあれ、泣きぼくろがチャーミングな彼とは、二週間前に結婚の約束を交わしたばかりだった。今日はお互いの友人を呼んで、内々に婚約のお披露目ホームパーティーをすることになっている。
参加者は十人に満たない、ささやかなパーティー。はじめての共同作業なんて言うとこそばゆいけれど、とっておきのレシピでゲストをもてなそうと決めていた。
「うふふ」
「楽しそうだね、アサ」
「うん。だって私、今日をとっても楽しみにしてたの。嬉しくて眠れないくらい、楽しみだったんだぁ」
「なんでもいいけど、手は動かしてくれよ。せっかく頑張って作ったケーキがパーティーに間に合わなかったら悲しいだろ」
「もちろんだよ~」
言われずとも。
メレンゲたっぷりのレモンパイは、今日のパーティーの準主役である。千秋のためにも完璧に仕上げなければ。
「パティシエのお友達が、今日のために材料を分けてくれたんだよぉ。準備はばっちり! 任せてよ~」
無害ににこにこ笑いながら、私は力こぶを作ってみせた。
そう。今日のための準備はばっちりなのだ。
カプレーゼにブルスケッタ。トマトのファルシにポテトグラタン。華やかなイタリアンで揃えたパーティー料理は、ゲストたちにも好評だった。
千秋の大学時代の友人たちは、皆千秋と似たり寄ったりの雰囲気で、何かにつけておしゃれで洗練されていた。仲もかなり良さそうで、千秋が私を紹介したときには、仲間内で意味深な視線を交わし合っていたくらいだ。
「彼女さん。お友達、大丈夫?」
千秋の友人のひとりが、時計を見ながら聞いてくる。
千秋側の友人は全部で四人。一方で私のゲストは、まだひとりも姿を見せていなかった。待たせるのも悪いからと先に料理を食べていてもらったけれど、さすがに変に思ったのかもしれない。憐れみ半分見下し半分、彼らは「今日はもう間に合わないかもしれないね」なんて声を掛けてきた。
「もう近くにいるみたいですから、大丈夫ですよ〜」
噂をすれば影。インターホンが鳴る。千秋が立つより先に、私は素早く席を立つ。
モニターの中に映っているのは、親友の小夜と、同年代の女がもうひとり。素早く開錠のボタンを押した私は、ついでに玄関のカギを開け、その足でいそいそと冷蔵庫へ向かった。
さあ、本日の主役のお目見えだ。
「おっ、ケーキ?」
「俺たちで作ったんだ」
「上手じゃん」
大皿に乗ったレモンパイを見て、ゲストたちが囃し立てるように騒ぎ出す。
誇らしさとほんの少しの緊張で、どくどくと脈が早まっていく。
この日のために何度も練習した。小夜にも何度もケーキ作りを教わって、何度も手順を確かめた。
「わ、ちょ、ちょっと重いかも」
わざとらしいかとも思ったけれど、千秋にそばに来てほしくて、私は足元がおぼつかないふりをした。話し方のせいか、なぜだか私は抜けていると思われがちなので、演技の効果は抜群だ。苦笑しながら千秋が近づいてくる。
「手伝うよ」
「ありがとう」
本当に。
微笑みながら、私はレモンパイの乗った皿を素早く片手へ持ち替え、そのままノータイムで千秋の顔面に向けて叩きつけた。
「えっ?」
間抜けな声を漏らしたのは千秋だったか、それともゲストの皆さんだったか。
「既婚者の結婚詐欺師に、私からのプレゼントだよぉ」
ケーキの残骸がべしゃりと地面に落ちる。
「味わって食べてね~」
白いメレンゲと黄色いレモンクリームで顔面を汚した千秋が呆然と私を見つめる。ぽかんと口を開けたゲストが、弾けるように笑いだす。そして、玄関から最高のタイミングで、小夜ともうひとりの女性が入ってくる。
「お邪魔します」
「……ど、どうしてここに……」
うろたえきった声で千秋が呻く。
当然だろう。恋人との婚約パーティーに
ぐちゃぐちゃに汚れた千秋の顔を見て、小夜は声を上げて笑いだす。
「やだ、最高! アサったら、本当にやっちゃったんだ!」
軽い足取りで近づいてきた小夜は、私が持つ皿からクリームを掬うと、ぺろりと舐めて破顔した。
「おいしいね」
「小夜が教えてくれたおかげだよぉ」
小夜と視線を交わしている間にも、後ろからは笑い混じりに「自慢の顔が台無しね」と呟く女の声が聞こえてくる。
「……何回不倫してきたの、千秋くん」
疲れたように笑う千秋の妻には、あらかじめ事情を話してあった。そしてもちろん、千秋の元婚約者こと小夜にも。
千秋が既婚者であると知らされずに婚約し、結婚式の直前で捨てられ泣いた、誰より大事な私の親友。そんな彼女を泣かせたクズは、今目の前で顔面を真っ白に染めている。
ざまあみろだ。
「知っていたのか。このクソ女ども……!」
レモンが目に沁みるのか、潤んだ目を何度も瞬かせながら、千秋は私たちに指を突き付ける。
私は小夜と顔を見合わせ、同時に笑ってピースを作った。
「クズの顔にパイを投げつけるのが夢だったんだよね~」
「私の二の舞なんて、誰にも踏ませるわけがないでしょ」
共同作業、大成功だ。
あなたのためのレモンパイ あかいあとり @atori_akai
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