第3話
大きく伸びをしてから、でかけてくるよ、とスタッフに声をかけて駐車場のボルボに乗り込んだ。イグニッションを回すと、ブツッ、ブツッという老人の咳みたいな音をたててエンジンが始動する。
僕は夕陽が島なみに沈む海を見ながら、エマがいる「café ros marinus 」に向かった。
江間薫は中学、高校の同級生で、僕たちは四年前に東京のコマーシャルスタジオでばったり再会してから、とても自然な感じで付き合いだした。
エマも僕も三年前まで東京で仕事をしていて、僕は写大をでるとコマーシャルスタジオに就職してアシスタントをやりながら、ご多分にもれず「いつかは篠山紀信みたいになって、アイドルと結婚するんだ」なんていう夢を膨らませてはいたけど、来る日も来る日も機材運びと、露出計を首にかけてボロボロになりながら走り回る日々。疲れ果ててアパートに帰ると、具無しの焼きそばか、コンビニ弁当を食べて寝るだけの毎日だった。
それでも入社してからの四年は頑張ったほうだと思う。やがて篠山紀信になるという夢なんて、女子中学生がアイドル目指すのとおんなじだって事に気づいた。このままここにいても一生篠山紀信にはなれないことを悟ったころ、スタジオでエマと再会したのだ。
その日はよくテレビにでている子役がスタジオの主役で、清涼飲料水の宣材写真撮影だった。子役の拘束時間である午後八時が迫ってきたけれど、なかなか撮影が終わらなかった。
うちの先生が、イライラしはじめた子役に気を使って汗だくでおだてている。その分、僕らアシスタントを怒鳴りまくっていた。
「翔太、ぼっとしてないで早く露出を見ろよ!」
「ハイライト、8・0。シャドウ、5・6です」
「メインもっと右だろ! ったく、何年たってもわかってねえな。はあい春菜ちゃん、いいよお、もっと顔上げてみて、そうそういいよお」子役は待っている間は、ずっと不機嫌そうに貧乏ゆすりをしてたはずなのに、商品の清涼飲料水のペットボトルを受け取り、カメラを向けられた瞬間、思い切りの笑顔をみせた。さすが子供でもプロだ。
時間が押していた撮影が終わり、子役とマネージャーをしている母親が出てゆくと、ようやくスタジオの空気がわずかに弛んできた。その時を待ってたようにエマが声をかけてきたのだ。
「翔太だよね、私! 江間薫、わかる?」
「えっ! エマ?」僕は驚いたふりをしたけど、実はだいぶ前からエマがスタジオの隅で肩からトートバッグを掛けて、バインダーを両手で抱えて立っていることに気づいていたのだ。
スタジオの片付けが終るのを待って、僕らは新橋の居酒屋で再会を祝うことにした。エマは、都内のウエブ制作会社でライター兼デザイナー兼営業として、安い給料でとことんこき使われていた。
僕らは中学、高校時代の思い出とか、今自分がこの東京でどれだけしんどい仕事をしているかを、居酒屋の喧騒に負けないほどの大声で話した。酎ハイをオーダーするたびに、五人ほどいる店員が一斉に「ハイ、喜んで!」と叫ぶ。客の誰かが何かを注文するたびに「ハイ、喜んで!」が繰り返されるから、僕と彼女はお互いの声を聞き取ろうと、テーブルの上にほとんどキスしそうなくらい顔を寄せて叫んでいた。
「ところでさ、翔太あ、あんた実家が写真館でしょ? 帰らないの。どっちもおんなじ写真の仕事じゃない」
「写真っていってもいろいろあるの。俺がなりたいのは最終的にはネイチャーフォトグラファー。差し当たり篠山紀信」
「馬鹿じゃないの」
「ええ、ええ。そんな夢みたいなことじゃ食っていけないのは十分わかっております。でも実家に帰って親父の店継ぐっていうのは、そこで人生の行きどまりになりそうで踏ん切りがつかないんだわ。お袋からはしょっちゅう、いつ帰ってくるのかってLINEくるけど」
「私だってコピーライターになりますって、母親と喧嘩して家を出て来たはいいけど、あまりにも先が見えないっていうか、セクハラ、パワハラなんでもありの会社で、めちゃ給料安いうえに毎日のようにサービス残業だし。このまま年とったらって、毎晩落ち込んでる。そろそろ考え時だよね。お互いあと三年で三十だよ、サンジュウ。しんじられる?」
「もしかして結婚とか考えてんのかよ?」
「かんがえてません! 東京で暮らしていくのに飽きたし疲れたしで、S市に帰ってなんかやりたいなって思うようになってきちゃってさあ、最近」
「だってS市をあれだけ嫌って飛び出したんだろ? 帰ってなにやりたいんだよ?」
「そうだなあ、海の見えるカフェやりながら、コピーライターってできないかな」
「でた! 田舎暮らしと言えばカフェってか? 都会に疲れた女が田舎暮らしって。でもまあ目標があるってことは、少なくても俺よりはまともだよ。俺、今のスタジオやめて写真撮影の旅にでようか――なんて寅さんみたいな事考えてるし」
「いいじゃん、それ! 私も一緒に旅に出ようかな。迷惑? あっ、寅さんはひとり旅だよねえ」
いきなりこめかみに波打つ鼓動。その瞬間から僕はエマを意識しだした。
江間薫とは中学、高校とずっと同級生で、その時分は何人かでつるんで遊ぶ仲間の一人にすぎず、とくに異性として意識したことは、お互いになかった、と思う。たぶん。でもその夜は違った。
お互い東京に疲れた者同士、というか同病相憐れむ、みたいな親近感が僕らの距離を一気に縮めることになったようだ。意識しだすと途端に口数が減ってぎこちなくなる。久しぶりに見るエマが大人じみて、外にカールした髪が大きめの口によく似合っている。
情けないことに、波打つ鼓動と緊張に耐えられなかった僕は話をそらし、意味も無く共通の同級生の消息なんかに話題を戻す。こんなところが駄目だってことは自分でも認識しているけれど――ようするにビビリなのだ。
深夜まで僕たちは、さしあたりのない話の周りをぐるぐるとまわりながらレモン酎ハイを呑み続けた。エマが三杯飲む間に、僕は一杯のペースが延々と続いた。店員がそろそろ嫌な顔をみせ始めた頃、(もう喜んではいないようだった)僕たちはLINEを交換してその日のプチ同級会は終了した。
ほどなく僕らは自然なかたちで付き合い始めた。付き合い始めてしばらくした頃、先に行動を起こしたのはエマだった。
実家のあるこの街に帰って、ライターの仕事をしながらカフェをやることにしたのだ。冗談みたいな展開に驚くと同時に、自分だけ取り残された気がして、焦りがざわざわと下半身から立ち昇ってきた。
一年後、エマは地元の商工会や市役所の支援で、空き家になっていた高台の家を改装して「café ros marinus 」を開店した。ラテン語で、海の雫。
母親を説得して、実家を担保にして銀行から借金までしてきた。僕はと云うとその時はまだ東京でくすぶったまま、旅にも出ることはなかった。優柔不断はもはや僕の骨身にまでしみこんでいる。それからすぐに、エマは最終コーナーを廻った騎手みたいに僕の尻を叩いた。尻を叩かれて、ぶつぶつと言い訳じみたことを言いながらも、なんとなく実家の写真スタジオの三代目に納まることになった。
ボルボをカフェの駐車場にとめると、カメラバックを持って店内に入った。
店の中はそこそこ込み合っていた。海側のテラス席が丁度空いたのを逃さず、籐椅子に座るとアイスコーヒーを注文する。エマはカウンターの中で忙しそうに動き回っている。
このテラス席から見える瀬戸内海の夕暮れはいつも本当に美しい。
沖には逆光のなかに三つの島の黒いシルエットが見える。はるか遠くにもいくつかの大きな島影がぼんやりとした輪郭だけを、朱くなりはじめた空と海の間に浮かべている。沖に沈む夕日に、凪の海面が細かな皺をかき集めたようにきらめいて、ガラス細工がパリンパリンとふれあう音が聞こえるようだった。
カメラバックからキャノンイオスを取り出し、三百ミリの望遠レンズをつけると夕陽に演出された海の情景を何枚か写した。
陽が沈む。青かった空に群青のグラデーションが広がって、慌てたようにたくさんの海猫が目の前を横切るように飛んでいった。沖から戻る漁船が一艘、画面に引き波のアクセントをたしてくれた。
「翔太、山際さんの話聞いたよ。前の晩一緒に呑んでたんだってね」エマがアイスコーヒーをテーブルに置きながら聞いてきた。
「さっき翔太のハハウエから電話があってさ、翔太とやすしさんが山際さんと一緒にカラオケしてた、って言ってたよ」
エマはそこまでいうと、ちょっと待ってて、レジしてくるから、とばたばたカウンターへ戻って行く。エマは僕の親父にもお袋にもずいぶんと気に入られている。でも彼女と母親がLINEでやり取りしてるというのはなんだか面白くない。
陽が海に沈んで暗くなり始めると、三組ほどいたお客が帰り始めた。エマは一人一人のお客と短く会話を交わしながら、お会計を手際よくすませていた。終わるころには店はすいてきた。エマは僕の前に座るとやっぱりあの話をきりだす。
「朝から山際さんの話でもちきりだよね。翔太が前の晩一緒に呑んでたってことも含めて」
その件は、エマにはLINEで伝えてあったけれど、やっぱり僕の口から聞きたいらしい。
「だから違うんだって。やすしさんと(ハナミズキ)で呑んでて、むりやり(夕暮れ)につれていかれたら、たまたまそこに山際さんが一人でいたってだけなんだって。もう朝からそこらじゅうでこの話をさせられて、げんなりだよ」
「そうなんだ。ちょっとなあんだ、って感じ。もっとミステリアスな展開を期待してたんだけどなあ」
「あのね、一応、人ひとり死んでるんだからな。自殺する最期の夜に会ったってだけでも、十分にミステリアスなのに……」
「でも気になるよね。山際さんには、この店出す時に、随分とお世話になったし」
エマがUターンしてこのカフェを出す時、商工会長の山際さんがあちこち走り回って話をまとめてくれたのだ。そのうえライターでもあるエマに商工会のホームページやら市役所の広報の仕事なんかを紹介してくれたのも山際さんだった。いわば恩人だから、気になるのは当たり前のことなのだ。
「葬儀会館の関係で、お通夜は明後日らしいけど、いく?」
「うん、そりゃ行かなきゃならないよね」
カフェの営業時間が終り、二人で駅前にあるラーメン屋で晩飯をすませると、僕らはエマの部屋で、決して激しいとは言えないセックスをしてから、メーカーズマークをロックで二杯づつ飲んだ。僕の顔をエマは猫を慈しむようにやさしく撫でてくれた。手が止まったのに気がついた時、エマは小さく開けた口の奥から、寝息というには少し大きめの音をたてて眠っていた。僕は朝までエマの髪をずっと指でなぞるように撫で続けた。
お通夜は、郊外にある葬祭ホールでいとなまれた。開式前の時間、一般席の後ろの方にエマと並んで座っていると、前の席にどやどやと商工会やパルルの関係者が座った。うちの親父とお袋の姿もあった。やすしさんも汗を拭きながら駆け込んできた。
モーツァルトのレクイエムが流れる会場のあちこちで交わされる故人の噂話が、暗いざわめきとなって、小さくうねりながら広がっている。薄暗いホールには、子音ばかりのツクツクした会話が交わされ、その会話はいやでも最前列に並ぶ遺族の耳まで届いているのだろう。
山際さんの奥さんもお嬢さんも、興味本位の噂話を背中で受けながら、膝においた手をじっと見つめて耐えているようだった。
読経や焼香が終わり喪主の挨拶になった。奥さんは手に持った白いハンカチを握りしめながら、絞り出すように挨拶をしたけれど、故人の死因などはなにも述べられず、ただ会葬者へのお礼の言葉で結ばれた。もっといろいろ聞きたかったはずの参列者は肩透かしを食らい、すこし不満げに一斉に頭をさげる。
山際さんの死は事故死ということで決着がついたけれど、横領に関しての捜査は続けられ、やがて被疑者死亡のまま書類送検という記事が新聞にでた。商工会もパルルも後始末に追われて大変だと親父が言っている。そんな中、山際さんの奥さんとお嬢さんは、奥さんの実家のある山陰の町にひっそりと越していった。
ここでこの話は終わるはずだった。ところがそれは意外な方向へ飛び火し始めたのだ。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます