時空の栞―文字の力で紡ぐ不思議な旅
辛島
第1話 不思議な栞
春の陽光が、古びた木造家屋の縁側をじんわりと温めていた。高校入学を間近に控えた十五歳の少年、七瀬 詩緒理(ななせ しおり)は、一人静かに溜息をつく。幼い頃に両親を亡くし、彼を育ててくれたのは、童話作家である祖父だった。どこか世間離れした人ではあったが、詩緒理にとって祖父は唯一の家族であり、何よりも大切な存在だった。
祖父が物語を綴る万年筆の、カリカリという優しい音。幼い詩緒理の傍らで響くその音は、まるで物語に命が吹き込まれる瞬間の囁きのように、彼の小さな胸にそっと染み込んでいた。
しかし、そのかけがえのない祖父は、もういない。
祖父が息を引き取る数日前、弱々しい手が、一つの鍵を詩緒理に差し出した。ずっしりとした重みのある、真鍮製の古びた鍵。
「詩緒理、お前にこの鍵を託す」と、掠れた声が耳元で囁いた。
「じいちゃん、これって……」
何の鍵なのかと問い返しても、祖父はただ穏やかに微笑むだけで、何も教えてはくれなかった。そして、沈黙のまま、永遠の眠りについた。
祖父が遺した家には、数々の思い出が染み付いている。詩緒理はなかなか整理する気になれなかったが、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。少しずつ、祖父が大切にしていた品々を片付け始めた。
だが、どうしても見つからないものがあった。祖父がいつも肌身離さず持っていた、愛用の万年筆だ。家中を探し回るうち、書斎の隅に置かれた年代物のアンティーク棚が、ふと詩緒理の目に留まった。
祖父が特に大切にしていたその棚を、何気なく撫でていた時だった。指先に、微かな引っ掛かりを感じた。何だろうと注意深く触っていくと、一つの引き出しがほんのわずかに傾いていることに気づいた。好奇心に駆られ、その引き出しをゆっくりと引いてみる。しかし、途中で何かに引っかかって止まってしまう。力を入れても開かない。諦めずに、引き出しの側面や底を丁寧に探っていくと、小さな突起を見つけた。それをそっと押してみると、カチッという小さな音が響き、引き出しの奥にもう一つ、隠された空間が現れた。
その奥から現れたのは、息をのむほどに美しい化粧箱だった。黒漆塗りの表面には、繊細な螺鈿細工で、今にも羽ばたき出しそうな蝶が鮮やかに描かれている。恐る恐るその箱を開けてみると、中には一枚の美しい栞が入っていた。
藤の花のような淡い紫色を基調とし、繊細な金色の蝶の模様が優雅に舞っている。それは単なる栞というよりも、まるで小さな芸術品のようだ。そっと手に取ると、その瞬間、栞が柔らかな光を放ち始めた。驚いて手を離そうとしたが、それはまるで生きているかのように、吸い込まれるように詩緒理の体の中に消えていった。
何が起こったのか理解できず、詩緒理は自分の手を見つめた。心臓が、ドクンドクンと激しく鼓動している。すると、頭の中に不思議な感覚が流れ込んできた。それは、まるで言葉にならない知識のような、曖昧だけれど確かに存在する何かだった。
「これは何……? じいちゃんの鍵と、あの不思議な栞……何か深い繋がりがあるのかな?」
詩緒理は、自らの胸に宿ったばかりの不思議な力に戸惑いながら、小さく呟いた。祖父は、この力を自分に託したかったのだろうか。一体、この力は何のために、どのように使うものなのだろうか。
その時、ふと、書斎の本棚の一角が、差し込む春の陽光を反射してキラリと光ったように見えた。
「あれ? 何だろう?」
何気なく手を伸ばし、光った場所に触れてみる。すると、指先にほんのわずかな引っ掛かりを感じた。まさか、と思いながらも、その部分をそっと押してみると、ギギ、という鈍い音と共に、本棚の一部がゆっくりと横にスライドした。
「えええ、何これ? こんな隠し扉、全然気付かなかった!」
詩緒理は、思わず声を上げた。この家で十年以上も暮らしていながら、こんな隠し扉があったなんて、全く知らなかった。それもそのはずだ。祖父が許してくれた時以外、詩緒理が書斎に入ることはほとんどなかったからだ。
現れたのは、小さな隠し部屋の入り口だった。扉の隙間からは、埃っぽい空気の中に、古びた木の独特の香りが漂ってくる。入り口の木製の扉には鍵穴があった。
「これって、もしかして……」
詩緒理は、祖父が最期に託してくれた、ずっしりとした重みのある真鍮の鍵を手に取った。少し躊躇いながらも、その鍵を鍵穴にゆっくりと差し込み、静かに回してみる。カチリ、という小さな音が、静かな部屋に響いた。重厚な扉が、ゆっくりと内側に開いていく。
薄暗い部屋に足を踏み入れると、正面の机の上に、古びた装丁の一冊の本と、見慣れた万年筆が目に飛び込んできた。それは、いつの時も祖父の傍らに寄り添っていたものだ。使い込まれた漆黒の軸は、祖父の手の温もりを吸い込み、深みを増した光沢を湛えている。
導かれるように、詩緒理はその万年筆をそっと手に取った。ひんやりとした金属の感触が指先に伝わると同時に、懐かしい祖父の温もりが、じんわりと蘇ってくるようだった。その瞬間、万年筆はまるで生きているかのように、かすかに、けれど確かに震え始めた。
すると、どこからともなく、一枚の栞が現れ、古びた本の上空へと止まる。その栞から、金色の蝶がふわりと抜け出した。蝶はきらめく翅を優雅に羽ばたかせ、本の周りを舞い、そして、そっと表紙に触れたかと思うと、まるで溶け込むように消え去った。
その刹那、静かに眠っていた本が、微かな息を吹き返したかのように、ゆっくりと開き始めた。乾いた紙が擦れる、古めかしい音を立てながら、頁はまるで意志を持つかのように、次々とめくれていく。お目当ての頁を探し当てたのだろう、とある頁が開かれた。
その直後、信じられないような眩い光が、内側から溢れ出した。光はまるで生き物のように、脈を打ち、周囲の空気をビリビリと震わせる。その中心に立つ詩緒理の体は、抵抗する間もなく、その強烈な光に優しく包み込まれていく。足元からじんわりと光が染み込み始め、まるで温かい水にゆっくりと沈んでいくように、確実に、光の中に溶けていく。
意識が遠のき、視界は白一色に染まっていく。栞に導かれるように、詩緒理の全身は、本の中に広がる無限の物語の海へと、深く、深く、吸い込まれていった。それは、現実世界との境界線が曖昧になり、物語と一体化する、まるで夢のような、不思議な体験だった。
眩い光が消えた後には、ただ静かに開かれたままの本と、そこに確かにいたはずの詩緒理の姿だけが、忽然と消え去っていた。
――――――――――――――――――――――――
新作の投稿を開始いたしました。ゆったりとした感じで投稿を続けます。
物語をより多くの方に楽しんでいただけるよう、精一杯執筆しております。もし、続きが少しでも気になった、読んでみたいと感じていただけましたら、ぜひ本作のフォローと、★での応援をいただけますと、作者にとって大きな喜びとなり、執筆の励みになります。
どうかよろしくお願いいたします。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます