風と帽子とリフレイン
*
「……そして、こちらが厩番のヒューゴです」
「よろしく。シンシア・フローレスです」
白い帽子を胸元へ降ろし、丁寧に礼をするシンシアに対し、ヒューゴ少年は形通りの、どこか他人行儀な仕草で頭を下げる。
褐色の肌に赤い瞳、固く結んだ薄い唇。年は十を二つか三つ過ぎたくらいだろうか。大きな瞳を見開いてじいっとシンシアを見つめているが、その頬にはいくら待っても笑みの欠片も浮かぶ様子はない。
新しい主を前にして単に緊張しているのか、それとももっと別の感情が愛嬌を阻害しているのか。……愛想笑いに疲れた頬を若干引きつらせながら、シンシアは少しだけ寂しそうにまつ毛を伏せる。
(仕方ないこと……なのかな)
このヒューゴだけではない。メイドも、コックも、みんなそうだ。
彼らのこのよそよそしさは、閉鎖社会の習性だろうか。王都を出てきたばかりの年若い新領主なんて、最初は値踏みされるのも当然だろうとは思っていたが。
(正直なところ、こんなにみんな親しみにくいとは思わなかった。年嵩の使用人だけじゃない、わりと若いメイドたちまで、あんなに冷たい瞳で私を見てくるなんて)
疲れを感じる。
体力ではなく気力の方だ。
だが、今のシンシアにできることといえば、領主として認められるよう日々仕事に励むことくらい。あとはせいぜい一日でも早く使用人の顔と名前を覚え、少しずつ信頼を重ねていくしかないだろう。
彼らと談笑できるようになるまで一体どのくらいかかるだろうか。気の遠くなる話だな、と軽く自嘲していると、
「シンシア様。よろしければ、このまま少し庭を歩きませんか」
と、案内役として随行していたセオラスが声をかけてきた。
「え? ええと、わかった」
シンシアは戸惑いながらも頷き、セオラスに先導されるまま馬小屋を後にする。そして庭園の奥へと連れられていくと、そこにはホワイトウッドで造られた小さな東屋があった。
「どうぞ」
促されるまま中に入ると、甘い香りが鼻をくすぐった。東屋のすぐ脇にある低木から、花の香りが漂ってきているのだ。
遠くには広い草原と湖が見渡せて、そのまま視線を巡らせていけばミストムーア城の質素な、しかし品のある佇まいが自然と視界に入ってくる。
ここなら日陰で涼しいし、小休憩にはちょうどいい。シンシアは一番景色がよく見える席に腰掛けると、ほうっと小さくため息をついた。
「一息つけそうですか?」
「ええ。……ありがとう、気を遣ってくれて」
「とんでもない。使用人一人一人の仕事を自ら見て回っているのです、お疲れになるも当然でしょう。特に皆、仕事中は……とても集中しておりましたから」
集中、ねえ。背もたれに寄りかかり涼しい風を感じながら、シンシアは遠くを眺めたままその瞳をわずかに細める。
城の裏からほうきを片手に、メイドが一人近づいてきた。彼女は東屋で休憩するシンシアに気付いたようだが、ちらと視線をセオラスへ移すと、それきりこちらを見ることもなく、黙々と落ち葉の掃き掃除を開始してしまう。
(……真面目なこと)
皮肉っぽい自分の心に若干うんざりしながらも、シンシアはメイドから顔を背けると二度目のため息を吐いた。
「シンシア様、喉は乾いていませんか? よろしければこの東屋でティータイムなどいかがでしょう」
セオラスはにこにこと、シンシアにも愛想を振り撒いてくれる。
その気持ち自体は嬉しいが、心がささくれ立っている今は、彼のその優しさすらなんだかひどく億劫だ。
「お願いしようかな」
さして喉も乾いていないのにそう頼んだのは、少しでいいから一人きりになりたかったからだ。この城の人と一緒に過ごしていると、なんだか少し肩が凝る――いっそ一人きりの方が、気楽に過ごせるものである。
セオラスは恭しく頭を下げ、城の中へと引き返していく。彼の姿が見えなくなると、なんだか急に気が抜けてしまい、シンシアは両手で顔を覆って「ああ」とくたびれた声を漏らした。
そのときふいに森の方から、髪が舞うほどの風が吹いた。あっ、と思ったのも束の間、シンシアが被っていた白い帽子が、風に誘われて青い空へとふんわり高く飛んでいく。
「待って」
それで止まるはずないのはわかるが、思わず呼びかけ立ち上がる。
掃き掃除をしていたメイドは空飛ぶ帽子を一瞥し、しかし無視を決め込むみたいにうつむき掃除を続けている。
(ああそうですか。別にいいわ)
シンシアは立ち上がり、両手でスカートを持ち上げると、自らの足で芝生を駆け帽子を追いかけ始めた。
ちょうどよく風に煽られ、上がったり下がったりを繰り返しつつ、白い帽子はゆるゆると地面に向かって落ちていく。かと思うと、また空へ高く舞い上がり、足を止めかけたシンシアをあざ笑うかのようにどんどん遠ざかっていく。
「ああもう、待ちなさい!」
どれだけ本気になって走ろうとも、シンシアは風に敵わない。
帽子は軽やかに庭を駆け回り、やがてようやく追い風を失い徐々に速度を落とし始めた。緩やかに地面へ落下する、その先にはちょうど落ち窪んだ、雨水と泥の混ざったような茶色い水たまりがある。
(ああ――)
最悪。一番お気に入りの帽子だったのに。
だがここまで距離が離れたら、どんなに頑張って走り続けてもきっと手は届かないだろう。シンシアは疲労のままその場で足を止めると、ただただぬかるみへ吸い込まれていく帽子を呆然と見送った。
けれどそのとき、ふいに後ろから一陣の突風が吹き抜けた。風はシンシアのすぐ隣を音を立てて走り抜け、唖然とする間もないままにまっすぐ帽子へと距離を縮める。
大地を蹴る力強さ。そしてそのまま、彼は落ちゆく帽子へ手を伸ばすと、
バシャン!
と、自らの左足を水たまりに思い切り突っ込み、泥水を跳ねさせながら振り返った。
「セーフ!」
シンシアはただ、呆然と――夢でも見ているかのように彼を見る。
あまりにも爽やかなセオラスの笑顔。彼の綺麗なスラックスの左足は泥に汚れ、靴も靴下も茶色い泥水がこびりついている。
だがセオラスはそんなことなど少しも気にする様子はなく、いつもどおりの足取りでシンシアの元まで戻ってくると、
「間に合いましたよ、シンシア様」
と言い、真っ白な帽子を差し出した。
シンシアはまだ唖然としてセオラスを見上げていたが、やがてはっと我に返り、おずおずと帽子を受け取る。
「あ……ありがとう」
「いえ」
セオラスはにこと微笑み、それからようやく思い出したように、左足を軽く持ち上げ恥ずかしそうに苦笑した。
「さすがにこのままではいられないので、一度戻って着替えてきますね。お茶の用意はその後になってしまうので、お待たせしてしまうかもしれませんが」
「あっ、ええ。大丈夫」
「ありがとうございます。では、失礼します」
セオラスは小さく頭を下げ、再び城の中へと戻っていく。風になびく濃紺の髪、小さくなっていくその背中。
こんなところで立ち止まったまま見送る必要なんてないのに、ぎゅっと帽子を握りしめたまま、その背中から目を離せない。
シンシアの頭の中では、セオラスの笑顔が狂ったようにリフレインしていた。
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