黄昏坂
こたろうくん
黄昏坂
「当主になるということは、わたしがわたしでなくなるということです」
長い坂の途中、街を眼下に身に纏う着物と同じ茜色の空を見ながら
「代々の当主たちを受け入れ、その一部になるということです」
少し強い風が吹いて、斜面に耕された畑に育つ野菜の葉や実が揺れる。風に黒髪を遊ばれながら、並び立ち同じ景色を共有する
「物心ついた頃から、父と母に言われてきました。だからわたしも、わたしは“そういうもの”なのだと思ってきました。ほんとうならわたしには名前も与えられません。けれど父と母はわたしに、密かに名付けて呼んでくださいました」
いつも通りの淡々とした抑揚のない声により紡がれてゆく言葉たち。
しかし鎮間はどこかそれに違和感を覚える。なにか自分に訴えかけているような、切実な何かが彼女の言葉から、声からは感じられるようなそうでないようなはっきりとはしない感覚。
鎮間はヒグラシたちの鳴き声を他所に彼女の言葉をただ聞き続けた。
「家の者は誰も“
それまで正面で重ねていた両手を解いて、それぞれを脇に下ろした華。その仕草が何を求めたのことかは、彼女自身も知り得ない。
彼女の目には茜空を飛ぶムクドリの影が映っていた。
「だからシズマは、父と母以外でわたしを知っている特別な人。シズマはシズマのことを“ふつう”と言いますが、わたしにとってシズマは――」
華の口が動きを止める。ただ下ろしていた左手を鎮間の右手が優しく包んでいた。
子供の手にしてはごつごつとした、
直に今日が終わる。そうなればこの瞬間に感じた全てはただの情報として数百年に及ぶ蓄積の中に埋もれることになる。それを思うと華の胸は苦痛を訴え、息は吐き出すものと吸うものがぶつかりあったようになり喉が張り裂けそうだった。
「シズマにおねがいがあります」
なんとか絞り出した声。紡いだ言葉は果たして当の鎮間にはどう聞こえただろう。これまでのこと、鎮間とのこと。この瞬間のこと。すべてが記憶に焼き付く感覚は目眩を伴った。
どんなことでも良い。もっと
それまでまるで解らなかった想いが此処に来て明白となる。
故に彼女はこれまで誰にもしたことのなかった“わがまま”を、唯一の鎮間に願う。
もっと早くにこの想いに気付けたなら、もっと早くにこの言葉を言い出すことができていたなら――たくさんの後悔が次から次へと溢れ出し、アレもコレもと願いが生まれてやってくる。
けれど、もう遅いのだ。だからこれだけにしよう。華が告げる。
「いつかまたシズマがこの場所に来ることがあったらそのときは……“
それを告げ終え、初めて華は鎮間の顔を見た。見て、彼女の胸がこれまでにない程の痛みを訴える。
「ありがとう、シズマ」
彼女の目には自分を見つめ、いつもの仏頂面で双眸から涙を流す鎮間がいた。これまで見たことのない、そして“泣き顔知らず”だった鎮間の目から溢れた涙を。
華しか見たことのない鎮間の涙。
華は自然と彼にお礼を言っていた。
1
――後にも先にも、
より正確には、驚鬼になってからはまだ泣いたことはない。
「……」
夕暮れ時、長い坂の途中で、朽ちかけたガードレールに手を突きながら驚鬼は茜空を眺めていた。ヒグラシが鳴き、ムクドリたちの影が飛んでいる。
「……今日も終わるなぁ」
早いものだと呟く。
禍々や歪の駆除に、近頃は“新入り”の修行。
これまでになく多忙だと驚鬼は空に向かって、誰かに話して聞かせるように言う。
「ま、存外悪かねえ。なんのかんのみんなダレてたとこがあったから、良い刺激になったたんだろ。どいつもこいつも
仏頂面に笑みを浮かべる。
いつの頃だったか出来るようになった下手くそな笑顔。
しかしそれを見せたかった相手はもういない。
「――ぅおーい、キョウキィ! そんなところでなにサボっとるだあ! ススムのヤツめ、カタツムリのほうがまだいくらか速いぞ。なんとかせえっ」
茜色の空と同じ着物の
驚鬼はガードレールを離れ、坂を下り始めようとして一度、茜空に振り返る。
「じゃ、また来らァ」
黄昏坂 こたろうくん @kotaro
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