2-15

 吊るされた、逆さまの心人さんに向かって。


「息子を逆さ吊りにする親の行いが正しいかどうかは俺も疑問だ」

「お前があと一分でもはやく着いていれば、そのクソ野郎は今ここで俺の制裁に巡り会えたんだ。絶好の機会を逃してくれた息子に対する愛情だよ」

「愛理が無事なだけで俺はもう文句を言う気力もない」

「笑止だな、いい男気取りやがって」

「父親に似たんだ」

「いいだろう。円花、こいつ下ろせ」


 カーテンレールに縄をひっかけて吊るされていた心人さんは、ようやく解放された。うなじを手で押さえながら立ち上がろうとするが、俺より頭を高くするなという与識先生のにらみで床に座り直す。


「それで、愛理。あの男は胡蝶本人と模倣犯、どっちだと思ってる?」


 過激派奇病テロリストの胡蝶は、女だった。

 ただ、胡蝶本人は自分が女であることを認めなかった。自分の体にある臓器がたとえ女性しか持ち得ない子宮と呼ばれるもので、男性しか持ち得ない精巣や陰茎といった臓器がなかったとしても、胡蝶は自らを男であると主張していた。


あの男胡蝶の言葉を借りて言えば、正しい人間の自分に生まれ変わった本人でしょう」

「本来持って生まれてくるはずだった、男の体か」

「人格の過去の記憶データを移行し、生まれ変わったんです」


 頼輝青年の頬に描いた胡蝶のシンボルマークは、人血だった。与識先生の解析の結果、それは前科者データに残されている胡蝶のDNAとほぼ同一であることが証明された。心人さんが元職場から聞いた通り、わずかな不一致点も同様。胡蝶は自らのDNAの性別に関する部分のコードを改変し、男性の肉体として新たな体を作り直したのだろう。


「生まれ変わるなんて言うのは簡単だが、一人で成し遂げるのは不可能だ。協力者が必ずいる」

「拝み屋だとすれば、つがるが知らないわけないな」

「だが死んだ人間を現世に呼び出すなんて、それこそ鷹丘たかおか家の限られた人間しか成し得ない。あの家で現在いまそれができるのは、それこそつがるくらいなもんだ」

「ただまあ、つがるがそんなことをするかどうかだな」

「するわけあるか。俺の息子でお前の弟だ。あいつも俺に似て頑固だからな、金をいくら積まれてもやらないもんはやらない」

「もしそんな話があったら、一言相談しに来るな」

「ああ、だから俺たちの知らないところで、何か起きてるんだろうよ」


 そしてそれは、私に深く関わるところで動いている。


「怖い顔するなよ、愛理」


 与識先生の一言で、眉の緊張を解いて、がちがちにこわばっていた表情筋に今さら気づいた。痛む手のひらには、爪の痕が深く残っている。


「お前の元夫がなんであろうと、どうもさせない。何が正しくて何が悪いかは人それぞれだ。だからお前も、自分が正しいと思った生き方をしろよ」


 生き続けろ――と。元夫は私に、死に際に、その言葉を残してくれた。


 夫が死ぬときは妻も死ぬとき。夜光学園の卒業生に与えられるその校訓を知っていた天明あの人は、だからこそ言い残してくれた。


 生き続けろ。自分とともに、死ぬことはない。君は自分の人生を生きろ。


「お前が正しいと思って選んだ道なら、俺たちは応援するよ」


 鼻がつまるせいで、耳が少し遠い。まぶたを伏せると、頬に熱い滴が伝っていく。


「愛理」


 父の命令を破って、立ち上がっていた心人さんが近づいてくる。その腕に招かれて、両手で覆っていた額を胸にぶつけた。背中に、とても冷たい手が触れた。心人さんの体温だ。


「俺たちみんな家族だから、困ったことがあったら頼っていいんだ」


 自分の手で殺してしまった元夫にして唯一の家族だった人。

 あの人は今、どうしているのだろう。

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