2-10
菜生さんは口をぎゅっと締めると、視線を落とす。床にあるのは私たちの足だ。人の足、二本の脚。人魚病患者はこの二つの脚がくっついた下半身となり、水中での生活に適した進化を遂げている。進化。ならばやはり、あの症状は病気とは呼べないのではないか。
「わたしがやったんじゃないんです」
菜生さんはつぶやいた。頬から一滴、あごの先へと伝わせていく。涙を、その両目から産み落としていく。
「わたしが、いじめたとか、傷つけたとか、思われているかもしれません……わたしキツいから、頼輝に……」
可能性としては頭にあった。あの傷は、彼女によってつけられたもの。だから頼輝青年本人も、案外けろっとして地味に痛いと口にするだけで原因を明らかにしない。治療に必要なことだからと医師に訊ねられても、彼は口を割らなかっただろう。恋人から傷つけられました、など。
「わたしだって本当は、頼輝に優しくしたい」
静寂の待合室に、彼女の悲痛な叫びが鳴る。二階の恋人には届かせないよう、建物がすべてを聞き吸い込む。おかげでまた、ここは静かな空間へ戻っていく。
「頼輝は、人に優しくされるのがだめなんです」
「……原因はあっちなんですか」
「わたしだと思いましたか」
ちょっとだけ笑ってくれた菜生さんに、すいませんと謝った。でも、笑ってくれてよかった。すぐにまた、砂を噛んだような表情に戻ってしまうのも見えていたから。
「人魚病は先天性でしょう。ふつうの子よりずっと育てづらいから、頼輝は虐げられて育ったんです。両親もたぶん、普段は優しかったんだと思います。でも自分たちの生活もあるし、やりたいこともある。ふつうの子より手間のかかる頼輝に対して八つ当たりしてしまうことが多かったんだと思います。優しいと怒るっていう、二つの感情の落差に驚くでしょう。頼輝はそれで、優しい人が苦手なんです」
ハンバーグが好きな子ども。頼輝青年の心は、まだ幼いまま。誰かの愛情を求めてはいるけれど、愛情の裏に潜む存在に怯えている。愛情をかけてもらいたいのに、その愛情の裏には恐怖が潜んでいるのだと教えられた幼少期の記憶は、きっと一生抜けない。
「菜生さんはどうやって、頼輝さんと仲良くなったんですか」
「腕の怪我を見つけて、手当てをしてあげたことがあったんです。そのときはわたしも忙しくて、手当ても適当だったんですけど、頼輝にはむしろそれがよかったみたいなんです」
車いすで部屋中を駆けまわる少年のような姿を思えば、膝小僧をすりむいて泣いている子どものようなものだ。何度繰り返すのかと怒っても、本人は遊びのおまけとしかとらえていない。
「明日からどうするとか、どうしたいとか、何か考えているんですか」
「なにも」菜生さんは首を振った。「何も考えてません」
「会社に戻るつもりはないんですか」
「蘭堂社長は優しいから、戻ると言ったら受け入れてくれるでしょうね。あそこは頼輝にもいい職場環境だったと思います。借り上げマンションで過ごせて、お給料もそれなりにいただけて、申し分なかった」
突き放したような、それとも、距離をおくような口調に首をかしげる。
「水守……社長は、何か問題があったら改善してくれますよ。誘拐とはいえ、無断欠勤してしまったことに罪悪感があるのかもしれませんが、水守はそんなこと気にしませんよ」
「誘拐じゃないですよ。頼輝が同僚にいじめられて、私が彼を連れて散歩していたときに、奇食倶楽部に追われて、帰ろうにも寮のそばに奇食倶楽部がいて戻れなくて、連絡もできずに二人で無断欠勤続けてしまったんです」
これは、待て待て待て、どういうことだ。
「蘭堂代行サービス勤めの三十七人が行方不明になったことと、菜生さんと頼輝さんは関係ないんですか」
「なんですか、行方不明って。三十七人も?」
きょとんとする菜生さんに、私は携帯端末にニュースアプリを立ち上げて見せようとして、止まった。トップニュースは、東都高速道路で若者が速度超過により高級車を大破させた事故だった。ほかのニュースサイトをつぶさに探しても、大手代行サービス会社社員の行方不明は記事になっていない。
脳裏をよぎるのは、心人さんの警告だ。かつて世間の奇病患者たちを恐怖の渦にたたき落とした、過激派奇病テロリストの犯行声明。警察はその情報を知っているからこそ、公にしないでいる。そうか、威月は本腰を入れて捜査していないんじゃない。本腰を入れると決めた組織にいるからこそ、外部に情報を漏らさぬように努めているのだ。
「いったん眠りましょう。菜生さん。それからにしましょう」
「待ってください、誘拐って本当ですか」
詰め寄ってくる菜生さんの両肩を押さえて、私は声を低くして答える。
「もしかすると、菜生さんと頼輝さんは関与しているかもしれません。犯人を知っているかもしれません。二人を襲ったのも、本当はその連中かもしれません。でも全部、かもしれないの範囲です。だから今はまだ、考えるのはよしましょう。眠くて頭がまわらないし、今ここで行動できることもありません。よく寝て、朝になったらちゃんと、考えましょう」
「頼輝もさらわれていたかもしれないんですか」
「頼輝さんを大切に思うなら、菜生さん、眠りましょう。そして明日考えましょう」
菜生さんは不安げな表情を、最後まで消してくれなかった。階段を登る彼女を見送り、私も部屋に戻る。心人さんがくれたコーヒーの香りが、まだ室内に漂っている。結局飲まずじまい。さみしさをくすぐる香りをかき消すために、ベッドに潜って布団をかぶる。
どうするか。起きてから考えよう。私はもう一人じゃない。与識先生や珠貴さんや円花さん、心人さんにだって頼れる。一人じゃない。全部、もう一人で抱え込まない。
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