2-9
この件はすべて、忘れるんだ。
その一言を告げるためだけに、心人さんはこんな時間にわざわざやってきた。
「いいね。親父にも伝えるんだよ。俺が言ってもいいけど、愛理から伝えられる方があの人も冷静に物事を見極められる。家族を犠牲にするなんて、あの人は絶対に許さない」
「泣いた水守はもう犠牲になったも同然じゃない」
「そこは俺がなんとかするよ」
長男だからね、と半ばあきらめたように心人さんは笑う。たかが生まれ順といえども、その責任感の強さには参る。全部投げ捨ててしまえば楽なのに、捨てた責任を誰かが拾うかもしれない――弟が拾うかもしれない。そんなことになるくらいなら、自分が見捨てずに最後まですべて背負う道を選ぶ。背負いすぎて、いつの日か倒れてしまうんじゃないかと不安になる私の気持ちを、この人は知っているだろうか。
「私が心配だからやめてって言ったら、心人さんも関わらないって決めてくれる?」
「愛理に言われちゃうと、そこは揺らぐね」
もっと揺れて、もっと揺らいで。これ以上誰かが目の前で死ぬなんてごめんよ。
「まあ、胡蝶が生きていたという可能性は限りなく低い。この血液からはわずかな不一致点も見つかっている。それになんせ手を下したのは俺なんだから、断言したいくらいだ」
「断言できないのはなんなの」
「んー、生き返ったとか」
「バカ言わないでよ」
死へ導く奇病や、高度延命治療が叶う世の中でも、それだけは決してありえない。
生き返るなんて、夢幻もいいところだ。
「そんなことが本当にあったら、私はここにいない。心人さんにも先生にも会ってない」
「俺は愛理に会えてうれしいよ」
悲しみの海に沈み、体を濡らしたまま歩き続けた先でこの人たちに出会った。優しいから、その家族たちはみんなで私の体を拭いてくれた。自分自身、体が完全に乾ききったかどうかは分からないけれど、心にぬくもりが生まれたことは事実だ。おかげで今はもう、少しも寒いと思わない。
「そういうわけで、この話はおしまい。いいね」
私がまた、自分で降らす悲しみの雨に濡れないように、心人さんは明るく終わらせた。感傷に浸る余裕も後ろ髪を引く猶予もくれずに、さっさと窓から出て行ってしまう。
男の人って本当に勝手。自分の周囲には自分を大事にしろと言いつけるくせに、自分自身を大事にする気はない。そんな矛盾をいつまでも女が許すと思っているの。
完全に目が覚めてしまった。部屋を出て、住居スペースから診療所の廊下につながる扉を開く。物置やリネン室、診察室前を通り抜けて、待合室につながる扉に手をかけた。
ソファには先客がいた。
「眠れないんですか?」
菜生さんは、体調を崩して診察順を待つ患者さんのように、ぼーっとしていた。とてもはかなげだった。なんだか、とてもふわふわしていて、それこそ幻のように消えてしまいかねない雰囲気を漂わせていた。あの厳しい目つきで頼輝青年を叱咤していた彼女と同一人物とは、思うが、オーラがあまりにも変わってしまっている。それこそ別人のように。
部屋の隅においてある膝掛けを二枚持って、そろそろと彼女に近づく。折りたたまれていた布を膝にかけると、彼女はゆっくりとお辞儀をした。
「眠れないわけじゃないんですけど、どこかで物音が聞こえた気がして、目が覚めて。もしかするとどこかで、恋人たちが会ったりしているんでしょうかね」
「……菜生さんは、頼輝さんとはどういう関係ですか」
「見て分かりませんか、って聞くのはずるいですよね。分からないでしょう? わたし、彼にけっこうキツいから」
「恋人、なんですよね」
「そう見えるって言ってもらえたら、うれしいです」
女の勘はあてになる。円花さんも例に漏れず、女であるがゆえに働く勘だ。
「そうは見えますよ、もちろん」
「でもキツい」
「……まあ」
「わたしだって、本当はもう少し優しくしてあげたいんですけどね」
素直になれない人なのか。だとすればかわいい悩みだ。こういうアドバイスに私は向いていないので、円花さんならどう言うか考えてみる。素直になれとびしっと決める姿が浮かんだ。だめだ。珠貴さんはそもそも素直な人だから、もっと分からないだろう。
「頼輝の傷、深くはないんですよね。化膿とか、雑菌入ったりしてないですよね」
「それは大丈夫だと思います。与識先生がちゃんと診てくれましたから。明日は消毒を終えたら、防水絆創膏で傷口を保護した上で、余分なヒレのカットも考えているようなことを言っていました」
一度傷ついたヒレは治らないので、びらびらとじゃまになってしまう余分な箇所はカットしてしまうのが一般的らしい。泳ぐ動作に対しては多少なりとも支障を来してしまうけれど、日常生活を陸地で過ごす奇病患者ならたいした問題ではない。
「あの傷、どうしたんですか」
もし本当に恋人なら、彼がどうしてその傷を負ったか知っているだろう。与識先生は深く追求せずに、明日もまた同じ治療を施すというだけで診察を終わらせた。その原因をたどっていかなかったのは、なぜか。腑に落ちないのは、私の勝手か。
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