2-7
診察室入り口まで下がっていた看護師二人と受付嬢が耳打ちしあい、うなずき合う。私の問いに、「でも」と異論を唱えるのは珠貴さんだ。「彼女さん、きついね……恋人なのに、優しくしてあげないの、かわいそう」
「愛理だって心人兄さんに厳しいでしょ、あんなもんだとアタシは思うよ」
「私は恋人じゃありませんからね」
「ああごめん、婚約者だっけ。父も認めているわけだし」
「円花さん……!」
くすくす笑い合う私たちに、与識先生が入院部屋の支度をするように告げてきた。
「蜜緒に頼んで夕飯の出前を取れ。お前ら、アレルギーあるか。ないならなんでもいいな」
「えっと、ぼくは」
「なんでもいいです。頼輝、わがまま言わないの。本当に何もかもすみません」
またもや頭を下げる菜生さんに、与識先生は手を出すだけで制した。目つきは厳しいが、菜生さんはできた人だ。頼輝青年はそんな彼女の服の裾をつまみ、ハンバーグがよかったとつぶやいて、ついに彼女の逆鱗に触れた。
「わがまま言わないの!」
たしかにこれは、けっこう厳しい。私が心人さんに取る態度よりも十倍は厳しい。いや、私は心人さんの恋人ではないけれども。
私と珠貴さんは、二人が泊まる二階の入院部屋の支度に取りかかる。二つ並ぶベッドに布団とシーツを敷いて、足下に掛け布団をまとめておく。空いているスペースにミニテーブルとポット、コップ、茶菓子といった軽食を並べて、まあこんなものかと一段落。診察室で待っていた二人を呼び寄せて、部屋を明け渡した。二階までの車いす患者の移動手段用に、この病院にもれっきとしたエレベーターが階段脇に設置されている。円花さんが車いすを二階まで押して、彼らを連れてきてくれた。
「本当に、何もかも手間をかけていただいて……」
頼輝青年は自力で車いすを押して、さっそく部屋に入っていった。ベッドで眠れるうれしいと喜ぶ彼を、菜生さんはまたにらみつけた。気づいていない彼は車いすを器用に回転させて喜びを爆発させている。それを見て、もういいやとため息をつく菜生さんは私たちに向き直って、何度も何度も頭を下げてくる。
「ごめんなさい、本当に……」
「夕飯はハンバーグとオムライスを注文してきたのでお待ちくださいね」
菜生さんは気をつかわせた申し訳なさでまたため息をついて、頼輝青年を振り返って、またもや息を吐いて、すみませんと何度も繰り返す。
「何かあったら、ベッド脇にナースコールがあるのでいつでも呼んでください」
気づかいに頭を下げる菜生さんを見ていると、そのうち頸椎を痛めそうだ。
三人で診察室に戻ると、待ち構えていた先生が口を開く。
「で、愛理。お前ならもう、なんで逃げてきたのか聞いただろう、話せ」
地獄耳だからあの親父、といつだったか心人さんが言っていたのを思い出す。
奇食倶楽部に追われている、という菜生さんの話をまとめて説明した。奇病患者人権擁護団体に裏の顔があることを私は事前に知っていたので、その組織が架空の存在ではないことに確証はある。
「ふうん……」とまあ、なぜか先生の表情は晴れなかった。
「何か気になりますか」
「その話が本当だとしても、残す三十七人の奇病患者はどこに消えたっていうんだろうな」
「……考えたくはない結論に至ります」
「ならどうしてあの二人だけ逃げられたんだろうな」
「運がよかったんじゃないでしょうか」
「足を切る怪我だけで済んで? 女の方は無傷だろ。まあ女は奇病じゃないからな。無理して拘束する必要もなかったんだろうが、それならなぜあの女もさらわれたのか説明がつかない」
「ねえ」円花さんはあごをさすりながら問う。「あの傷、どうやって負ったか分かってるの」
「見りゃ分かるだろ、切り傷だよ。刃物で切ったんだ」
「なんでまたあんなところ」
「うまいな。ヒレはちりぢりだが、指には致命的な傷がない。誰がやったにしろ手練れだ」
だとすれば、奇食倶楽部にさらわれて捕まり、恐怖を与えられ続けていたということか。
「愛理、威月と水守にはまだ黙っていてくれ。あいつらのことだから、知れたらすぐにでもここに飛び込んでくる。俺はもうしばらくあの二人を手元においておきたい」
何か考えがあるのだろう。先生は電子カルテの画面をじっと見つめていたが、煮詰まらないようだ。やがて立ち上がると白衣を脱いだ。今度こそ診察時間が終了する。白衣を受け取り、私たち三人はお疲れさまでしたと頭を下げた。
少し経って、蜜緒が夕飯を届けに来てくれた。
「へえ、父がめずらしいことするな。そんな傷ほっとけば治る帰れって、オレは玄関まで引きずり出されて怪我を増やして帰ったこともあるのに」
「そこは、まあ、あの二人は患者さんで、息子じゃないから」
「そうかあ。でもなんか、イヤな予感するなあ」
与識先生は患者さんの抱えている問題ごと治療しようとする。その問題をどうするかというと、息子たちに半ば押しつける形で解決させる。私が受付嬢になってからは橋渡し役として、適材適所の息子を選ぶようになって効率性はさらにあがった。以前は誰がどうするかてんやわんやだったという。それでも逃げ出したりしないあたり、父の存在が絶対的であることがうかがえる。
「そういえばこないだジーンとつがる兄さんが店に来て、女の手を借りたいとか言っててな。受付嬢がいたなって結論で落ち着いたみたいだったから、たぶんそのうち呼ばれるぞ」
「それこそイヤな予感しかしないんだけど」
「そう言いなさんな。あと父のナポリタンと円花のアラビアータを取り違えないようにな」
与識先生は辛いものが大の苦手だった。凶悪な見た目に反して、と思ったが見た目は関係ないか。とにかく料理を受け取り、蜜緒を住居スペースにとっての玄関口から帰した。
ナポリタンとアラビアータを取り違えないように、三人で三回ほど味見を繰り返して確認し、先生の目の前に差し出す役割は珠貴さん。円花さんは自分たちの夕食の準備を整えてくれるので、私は二階の客人たちに夕食を運ぶ役目を請け負った。
「えっ、ほんとにハンバーグ……やった!」
ベッドに横たわっていた頼輝青年は、下半身をビニールに包まれながらも喜びではねていた。まな板に乗せられた鮮魚のごとくである。……さばかれる彼の未来が一瞬よぎり、軽く首を振ってすぐにその想像を払拭した。
「食器は取りに来ますから、そのままで。菜生さんはあとでシャワー浴びにいらしてください。タオルと着替えもあるので」
「すみません、本当に……」
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