2-5
私が心人さんに好感を抱いている前提で話を進められても困る。否定できないから。
「だからこいつの下半身は人魚病の中じゃ、かなり好感が高い部類だ。患ってなくて二本の脚を持っていた場合でも、人目を引く男で間違いない。……もしやお前、俺の息子か」
あごに手を添えて本気で心当たりを脳裏で探す与識先生に、違うねと円花さんは言い放った。まあそうだなと与識先生も返す。心当たりがまったくない、という不確かな記憶で。
「ああ、悪いな。身内で盛り上がって。で、ヒレね。……見づらいな。愛理、いす」
先生の指示を受け、私はいすを彼の下半身が乗るように調整する。L字型の体勢になった頼輝青年の尾ヒレに、サングラスを外した先生が裸眼で目を凝らした。
「人魚病患者の尾ヒレはいわば収斂化された人の足だが、水掻きは爪や髪と同じで傷ついても痛まない。が、指が傷つけば痛む」
収斂化とは、別々な生物グループでも育つ環境が同一ならば似た特徴を持つようになる進化のことだ。たとえば鯨は本来ほ乳類であるため、人同様に四肢があった。しかし海で泳ぐ環境を選んだばかりに四肢は失われ、代わりに泳いで生活するに適した――魚に似たヒレを手に入れた。そのヒレの先端には、ほ乳類の名残の指もある。
人魚病患者の尾ヒレは、よく観察すると十本の指がきちんと確認できる。ただし長さは人の指よりも遙かに長い。親指にあたる部分は直径五センチにもなり、中指の長さは三十センチにも到達する。指同士をつなぐ水掻きも元々は皮膚だった。海での生活に適応するため、水掻きへと進化した。痛覚神経がない皮膚のため、傷ついても痛くない。ただし、回復もしない。
頼輝青年の尾ヒレは、びりびりに破れ、その延長上にある指にも傷がついている。出血は止まっていたが、水に濡れて白みがかった血肉がのぞいている。私が持っていた袋の底に溜まっている赤い水の正体だ。
「痛くて、こういう小さい怪我って地味ですけど、けっこう痛いじゃないですか……ふつうの病院じゃ診てもらえないので、奇病科のある病院を探してここを見つけたんです」
与識先生の指示で、私は物置から直径一メートルほどのたらいを持ってくる。円花さんは熱湯を注ぎ、さらにアルコールで消毒する。支度を終えると、精製水をたっぷりと入れ、エメラルドグリーン色の消毒液を入れて珠貴さんが混ぜる。
「魚の感染症対策の消毒液だ。しばらく浸してから、骨や関節に異常がないか診よう」
頼輝青年はたらいに尾ヒレを入れた。人の消毒液とは違い、しみることもないらしい。
「少し時間がかかるから、愛理、介添えの女に伝えてこい」
受付後ろのカーテンから待合室に出ると、女性はばっと立ち上がった。胸に手を当て、長いこと同じ表情をしていたのだろう、眉間に寄ったシワが直らない。
「頼輝は大丈夫ですか」
なぜか小声だった。
頼輝青年が消毒の処置を受けている、ということを彼女に近づいて伝える。じゃないとこの小声とは会話ができない。
「ヒレの指部分も少し傷ついているので、消毒後にそれは診ます」
「大丈夫ですか」
「すみません、私は受付なのでなんとも言えませんが」
なんといっても主治医は与識先生だ。先生は自分の病院に来た患者を決して見捨てない。絶対に。
「私もお世話になった経験があるので、それだけは大丈夫って伝えられます」
重荷をため息として吐き出して、彼女は全身を弛緩させる。ソファにもたれこみ、目を伏せて天井を仰いだ。
隣に座り、彼女の挙動をうかがう。本当なら今すぐ水守と威月に連絡をしていいかどうか、与識先生に意見を尋ねたい。でも先生はお医者さんだから、まずは患者さんの身が第一。とりあえず頼輝青年の消毒が終わり、ヒレの指に異常がないかどうかを確認してからになる。患者さんの手前、もし会社が追っているなんて教えたら逃げられかねない。逃走されたら、治療も終わっていないのに逃げられたらどうしようもない。自力で連れ帰る以外は。
「あの傷、切り傷ですよね。どうしたんでしょう」
与識先生は警察に身内がいる手前、依頼で検視作業を行うときもある。それに同伴させられる私もある程度、前職の影響もあり、人の傷や怪我や死体を見慣れていた。あの頼輝青年の傷が、切り傷であることくらいは見抜ける。
「彼は話しましたか」
「いいえ」
地味に痛いとか、そういうことしか聞いていない。なぜその怪我を負ったのか、については言及しなかった。
菜生さんは診察室をまっすぐ見据えたまま動かない。ときおり、胸に当てた拳をぎゅっと握りしめて、はっとして、息をつく。やがてうつむく。
どうしたものか。悩みあぐねる私のもとへやってくるのは、最上医院の聖女だった。
「あのう、追われているって本当なんですか」
いきなり核心をつく珠貴さんに、私の方が挙動不審になってしまう。
だが他人の心配をよそに、珠貴さんが目の前のソファにおもむろに座った。
「大丈夫です、通報とかしません。……もしされても、与識先生は警察官の息子さんがいるんです。なんとかしてくれます。蘭堂代行サービスにも顔が利くので大丈夫です」
「顔が利くなんて言ったら、よけい心配になりませんか……?」
「えっ、そういうものかな」
珠貴さんはしまったと、今さら口に手をあてて慌てた。後悔は先に立たない。あわあわと動じる受付嬢と看護師を前にした菜生さんは、ところがまったく動じなかった。
「追われているのは、本当です」
きっぱり、彼女は答えた。
目を合わせる私たちだが、聖女は思いついたようにまくし立てた。
「よかったら理由を教えてください。与識先生のご子息には凄腕のガードマンって人もいるので、その人に協力を仰げばなんとかなるかもしれません」
「いつ襲われるか分かったものじゃないんです。……いつまで続くかも」
「大丈夫です。だって与識先生の息子さんなんですから。ねっ、愛理ちゃん」
ガードマン。頼まれればどんな人物でも守り抜く、二つの意味での人の盾。ときにはわが身を挺し、ときにはこちらから牙をむく。冷酷無比な人間を想像されがちだが、本人はとても優しい家族思いの人である。心人さんなら人魚病の患者さんくらい守れるはずだ。あいにく父譲りで請求費用が半端ではないが。
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