2-3

 水守の来訪以外、滞りなく日常が終わろうとしていた。診療時間終了の六時、私は玄関にぶら下げてある診察中のプレートを診察終了へと裏返しに外に出た。


「あの、終わりですか」


 声をかけてきた女性に思い当たるふしがあった。やや厳しい、つり目。彼女が押す車いすに乗っている男性がうつむいていようとも、顔ではなくて下半身に目を奪われる。


「大丈夫ですよ、どうぞ」


 表情を取り繕って、二人を院内に招いた。もちろん、玄関のプレートは裏返す。車いすの男性はうつむいた顔のまま、かすかに頭を揺らした。会釈のつもりだろう。腰から下はタオルで包まれていて、靴さえ見えない。隠し過ぎも逆効果だ。

 二人を待合室に残し、先生に最後の患者さんですと伝える。カルテを書いていた先生は顔もあげず、おうと返事をくれた。その脇で私は診療記録をまとめる病院の端末を操作する。新着情報――アラートが表示されていた。防犯カメラ映像を解析した人工知能のお知らせだった。やはり二人は行方不明の奇病患者と女性職員に違いない。


「どうした、愛理」


 水守が病院を訪ねてきたおおまかな理由はすでに伝えてある。似た人物がやってきた場合、防犯カメラにアラート設定したことも報告済みだ。それをふまえた上で、今日の夕方に、まさか二人もやってくるとは思わなかった。


「なるほど。まあ本人だろうと偽物だろうと患者は患者だ。俺は診察する。あとは任せる」

「分かりました」


 待合室へ顔を出し、二人を招く。患者さんは受付横の扉から診察室前の廊下でいったん待つことになり、それから改めて診察室へと入れられる。廊下の奥は処置室、手術室、リネン室といった物置になっている。さらにその奥は住居となり、与識先生に円花さん、珠貴さんと私のすみかとなっていた。

 診察室に入ろうというとき、男性はうなだれていた頭を持ち上げる。ニット帽をかぶった頭は抗ガン剤患者に見えなくもないが、目立つ金色の髪を隠しているようだ。


菜生なおちゃんは待ってていいよ」

「分かった」あっさりと別れを認めた女性は「待合室にいます」と私に告げて、廊下からも出て行った。

 介添人があまりにもすばやく身を引くのが意外で、私はちょっと動けずにいた。こういった場合、患者が同行を拒否しても、その身を案じる者は食らいついて離れないのがよくある話。心配が募れば募るほど、その思いに比例して、保護を与える身はわずかな別離さえも心が引き裂かれそうなほど動揺するはずなのだが……あんまり心配じゃないのかな。

男性に声をかけ、診察室へと連れていく。入ったら真正面に与識先生のデスクがあり、本人がそこにいる。ちょうど患者さん用のいすがあるところの右脇に分厚いカーテンがあり、私が呼ばれて顔を出すところだ。


「初診で無保険ってことは金かかるぞ、いいのか」


 与識先生はカルテを書きながらまず告げた。男性は一人で診察室にやってきた決意があったはずなのに、いきなりうろたえ始めた。その目は診察室の扉を振り向き、それからカーテンを透視しようと目に力を込める。受付奥のカーテンが待合室につながっているのは、誰でも一目で分かる。が、透けるはずもないので無駄な努力だ。

 彼が、さきほどの女性――菜生さんを探しているのも、一目瞭然だった。


「お連れの人、お呼びしましょうか」

「えっ、と……大丈夫、です……たぶん、でもあの、あんまり持ち合わせとかなくて……」


 上目遣いに、彼は与識先生を見上げた。片足を組んでいすに座っても、その上背は圧倒的な悪人オーラもあいまって、かなり大きく感じられる。そういえば兄弟は誰もみんな大きかった。父譲りか。水守以外は。


「保険証持ってりゃ三割負担、奇病患者なら一割負担での診療も可能なのにな。出せないか。まあ詳しくは聞かないがな。全額負担ってことでいいか」

「あっ、ま、待ってください……」


 男性はついに根負けし、下半身を巻いていたタオルの隙間に手を突っ込み、カードを取り出した。蘭の花と水面が美しく描かれただけの名刺サイズのカードは、蘭堂らんどう代行サービスの社員が持つ保険証だった。

 先生の指示で保険証読み込みリーダーにカードをかざし、端末にデータを表示させる。顔写真は間違いなく本人であり、名前は頼輝らいきとあった。男性で、二十歳。奇病には奇病難易度というランク分けがあり、自立して日常生活を送れる者を一とした場合、その難易度があがるにつれ生活困難者となり数字が増える。最高は五になるが、彼の場合は四。これは日常生活を送る鮮明な意思表示があり精神も安定、しかし他者の手を借りなければ生活が送れないということになる。症状名も保険証に記されていた。


「ふうん、蘭堂代行サービスの人間ね……俺はあそこの社長と知り合いでな」

「あ、そうなんですか」

「父親に似たイイ男だと思わないか」

「社長のお父さんは分かりませんけど、社長は愛嬌があって優しくて、すごくイイ人です。いいお父さんに育てられたんですかね」

「いや、あいつの子育てには関与してない」

「はい?」

「別な息子の子育てに忙しくて、あいつとは二十歳になるまで面識がなかった」


 なぜ社長の人生に詳しいのか。頼輝青年は首をかしげつつも、与識先生にそれよりと話を打ち切られたことに体をびくつかせる。反応がいちいち大げさだ。


「それで、どうした」

「あ、はい……ヒレが」


 ヒレ。

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