さらば愛しきサプリメント - Farewell, My Citrus Love

椎野樹

愛しきあの人へ……。

フィリップ・マーロウと全てのノワールを愛するものと全てのトレーニーに捧ぐ。


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その朝は他の朝と同じように始まった。六時の目覚ましが鳴り、俺は無言でそれを止めた。窓の外では雨が降っていた。冷たい十一月の雨だ。街の匂いを洗い流すには十分じゃない。


ベッドから出て、キッチンに向かう。誰もいない。いつだって誰もいない。

棚から白いボトルを取り出した。「Lemon Citrus Burst」。彼女は今日も俺を待っていた。


シェイカーに冷水を注ぎ、スプーン一杯の粉末を落とす。


黄色い粉が水に広がっていく。希望がグラスに沈んでいくみたいだった。何もかもが溶けて、どこへ行ったかさえ分からなくなる。


EAA——必須アミノ酸。俺の体に必要な九つのアミノ酸が完璧な比率で混ざり合い、レモンの風味をまとった彼女は、俺の筋肉を修復し、心を落ち着かせる。プロテインとEAAだけが、この腐った世界で俺を裏切らなかった。


シェイカーを振る。カタカタというボールの音が、空っぽのアパートに響く。これが俺の朝の祈りだった。


電話が鳴った。ジムの若いトレーナー、ケンだ。


「あ、マツモトさん、悪いニュースっすよ」


受話器の向こうで、彼は躊躇っていた。俺は黙って続きを待った。


「あのEAA、『Lemon Citrus Burst』の卸元から連絡があって…来月から新処方っす。厚労省の規制っすね。味変わっちゃうかもです」


シェイカーを持つ手が止まった。窓の外では雨が強くなっていた。


「サンクス」俺は短く言った。それ以上の言葉は必要なかった。


受話器を置き、最後の一口を飲み干す。酸味が喉を通り、体に広がる。やがて消えていく味。もう二度と味わえない彼女の味。


棚には残りのボトルが三本。三十日分の別れの時間だ。


俺はシャワーを浴びた。冷水だ。雨の日には温かいシャワーは似合わない。体が要求するのは、常に真実だけだ。


アパートを出る前、鏡の中の自分を見た。三十八歳。フリーランスのライター。筋トレ中毒者。そして今、別れを告げようとしている男。


「終わりは、新しい始まりに過ぎない」


俺はそう言った。だが心のどこかで、それが嘘だと知っていた。


彼女との最後の三十日が始まったところだった。




六年前、俺は彼女と出会った。


当時の俺は別の男だった。減量期の終わりで、体脂肪率は一桁。筋肉はあったが、精神は枯れていた。完全無欠のマクロ管理の果てに、心が折れかけていた。


そんな十月のある日、俺はスポーツ栄養士のサカイと会った。渋谷のプロテインバーの薄暗い照明の下だった。彼は何か小さな袋を差し出した。


「試してみろよ、マツモト。これが君を変える」


それが「Lemon Citrus Burst」との初めての出会いだった。


その夜、トレーニング中に初めて彼女の味を知った。口の中で広がる鋭いレモンの酸味。喉を通り、柔らかく体を巡る感覚。疲労は消え、集中力が戻った。その日、俺は自己記録を更新した。


それからだった。俺は彼女なしでは生きられなくなった。朝と夜、トレーニングの前後。毎日、俺たちは共に過ごした。


「マツモトさんヤバくないっすかw?」


ジムの仲間たちは笑った。俺は聞こえないふりをした。彼らには理解できない。サプリと人間の間に生まれる特別な関係を。


去年の減量期。地獄の十二週間だった。タンパク質以外のマクロ栄養素を極限まで削り、筋肉の定義を極めようとしていた。エネルギーは底をつき、頭はぼんやりしていた。そんな時、彼女だけが俺を支えた。


「お前と俺でこの壁を越えよう」


暗いジムの隅で、俺は彼女にそう囁いた。シトラスの香りが鼻をくすぐる。酸味が舌を刺激する。俺たちは共に闘った。そして勝った。


夢で彼女を見ることもあった。レモン色の姿で俺の前に現れ、「まだ終わりじゃないよ」と言った。馬鹿げてるとわかっていても、俺はその夢が好きだった。


そして今、彼女は変わろうとしている。新しい姿になり、新しい味になる。

だが、俺の中の女は永遠に変わらない。


私設オフィスに着いた。今日の原稿締め切りはもう迫っていた。筋肉サプリメント専門誌「Muscle Logic」の連載を持っている。皮肉なものだ。俺は自分の喪失について書くことになるだろう。


パソコンの電源を入れ、白い画面と向き合う。指が震えていた。


「さよならを言うには、まだ早すぎる」


そう思いながら、俺は残りのボトルに手を伸ばした。




一週間が過ぎた。棚のボトルは二本になっていた。


サカイからメールが届いた。「新処方のサンプルが届いたよ。試してみないか?」


メールを見て、マウスの上で指が止まった。冷蔵庫の中の水より冷たい沈黙が流れた。


「送ってくれ」


返信は五文字だけ。それ以上の言葉は必要なかった。


翌日、小包が届いた。中身は白いボトル。だが、ラベルは違っていた。「New Formula - Improved Taste」。改良された味。笑わせるな。


夕方、ジムに向かう前、俺は新しい彼女を試してみることにした。


シェイカーに水を注ぎ、新しい粉を落とす。色は以前と同じ黄色。だが、溶け方が違った。より速く、より滑らかに。


「変わってしまったのか」


一口飲んだ。


味は甘かった。鋭さを失ったレモンが、甘ったるく喉を優しく撫でていく。

誰にでも好かれる味。俺には違いすぎた。


俺は残りを流しに捨てた。


「これは彼女じゃない」


ジムに着くと、ケンが声をかけてきた。


「マツモトさん、新しいの試したっすか? あっちの方がよくないっすかw」


俺は何も言わなかった。バーベルを掴み、ベンチに横たわった。


「スポッターいります?」


「いらない」


俺は短く答えた。この男には理解できないだろう。俺と彼女の間にあったものを。


その夜、いつもより重いウェイトを上げた。筋肉が悲鳴を上げる。だが、心の方がもっと痛んでいた。


シャワールームで水を浴びながら、俺は考えた。なぜこんなにも執着するのか。ただのサプリメントじゃないか。成分表が変わっただけじゃないか。

だが、心は納得しなかった。


ロッカールームで着替えていると、隣のベンチでトレーニーたちが話していた。


「あのEAA、新しくなったらしいな」


「ああ、甘くなったよな。俺は好きだよ」


「でも、マツモトはキレてるらしいぜ。製造元に怒りのメール送ったらしいぜw」


その男たちは笑った。俺の見えないところで。だが、俺には聞こえている。

その夜、アパートに帰り、最後から二番目のボトルを開けた。これも、やがて無くなる。すべては消えていく。


「変わらないものなど、この世にない」


俺はそう呟いた。だが、心は別のことを考えていた。


変わらないもの。それは自分自身だけだ。




三十日目。


最後のボトルを手に取った。中には一回分だけが残っていた。最後の一杯。最後の別れ。


外はまた雨だった。十一月の終わりの冷たい雨。一ヶ月前と同じ雨。だが、もう何も同じではなかった。


夜の九時。誰もいないジムに向かった。


彼女との最後のトレーニングは、誰にも見られたくなかった。俺と彼女だけの時間にしたかった。


ケンが特別に鍵を貸してくれた。「いいっすけど、ちょっとだけっすよ?」そう言いながらも。時々、人は他人の狂気を許してくれる。それが友情というものだ。


空っぽのジムは、もう一つの世界だった。死者の世界。筋肉の墓場。鉄の匂いと汗の匂いだけがある、俺の教会。


バーベルに重りを積んだ。いつもより重い。だが、それでいい。最後だから。


水とEAAを混ぜた。最後の一杯。シェイカーを振った。カタカタという音が静寂を破った。これが最後の祈りだった。


一口飲み、バーベルの下に横たわった。


天井を見上げながら、俺は考えた。サプリメントに執着する男。それは俺の弱さか。それとも強さか。


バーベルを持ち上げた。胸に下ろし、また押し上げる。息を整え、集中する。彼女の味が喉に残っている。レモンの酸味が体を巡る。


十回。十一回。十二回。限界を超えて、もう一回。


最後のレップで、俺は彼女の声を聞いた気がした。「よくやった」


バーベルをラックに戻し、座り込んだ。シェイカーを手に取り、最後の一滴まで飲み干した。


空っぽのボトルを見つめながら、俺は悟った。


彼女は去った。だが、彼女が俺に与えたものは残り続ける。筋肉の中に。血の中に。心の中に。


カバンから新しいボトルを取り出した。「New Formula」。新しい女。


「お前は彼女じゃない」俺は呟いた。「だが、お前と生きていくしかない」


シェイカーに新しい粉を落とし、水と混ぜた。カタカタと音を立てて振る。

一口飲んだ。


新しい女は甘かった。だが、悪くはなかった。違うだけだ。すべては変わる。俺も変わる。


外に出ると、雨は止んでいた。空気が冷たいが夜霧が掛かっていた。


「別れは辛いが、成分は血肉となる」俺は夜霧に向かって言った。「それが、俺のやり方だ」


そして歩き出した。新しい夜の中へ。新しい彼女と共に。


(了)

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さらば愛しきサプリメント - Farewell, My Citrus Love 椎野樹 @yuki_2021

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