一生、この差は埋まらない。

千田伊織

『白米』な彼女との出会い

 地響きのような足音の群が、道行く人々を振り返らせる。その中に私もいた。


 両手では到底間に合わない数の男性という男性に追いかけられている美女。額に汗を浮かばせて、今にも泣きそうな表情を顔いっぱいにこちらへ向かって走ってくる。

 この世界において、まるでアニメのような光景は稀にみる。わたしはモブの一人。背景で街を行く一人である。


 しかしその時は違った。


 彼女の悲痛な叫びがこもった瞳と、目がかち合ってしまったのだ。


 つややかな髪が目の前をよぎろうとする。

 助けを求めるすがめられた目に、大軍を避けようとする足が無意識のうちに止まっていた。薄く柔らかな唇が微かに震えている。


 た、す、け、て。


 そう読めた。


 ふと彼女を追いかけている大群に意識が引き寄せられた。

 血走った目、肉食獣の如く口から滴り落ちているよだれ、我を忘れている乱れたフォーム。


 背筋に電流が走り、わたしは考える間もなく彼女の腕をつかんでいた。


──助けないと。


 しがらみのないわたしにしかできないこと。

 気づけば裏路地の方へ連れ込んでいた。


「ついてきてくださいっ!」


 高いヒールの地面を穿うがつ音が不規則に耳に入ってくる。乱れた吐息がやけに響く。

 できるだけ人のいないところへ。

 腕をつかむ手に、じんわりと汗がにじむ。


(なにやってんだろ……)


 わたしは彼女を助けるためだけに、誰もいない場所を目指して駆け続けた。







「これを羽織って、ここに隠れていてください」


 お気に入りの上着を彼女に手渡して、私は大きな通りの方へ顔を出した。ここから最も近いコンビニの位置を確認して振り返る。黒髪の長髪にクールな目元の美女は、視線を落としたままわたしの上着に鼻を寄せていた。


 早めに戻ってこないと。


 コンビニへ駈け込んで、ペットボトルの水を購入する。それから小瓶に詰まった香水を。

 袋を購入して帰ってくると、彼女は怯えた目でわたしの様子をうかがっていた。しかしすぐに表情を安堵のものになったかと思うと、目つきは困惑に変わる。


 わたしは敵意がないことを示すように腕を伸ばして袋を渡す。彼女ははっと目を瞠って、わたしの上着で口元を隠した。


「貴女……『お茶碗』よね」

「そういうあなたは『白米』ですね?」


 この世界の人口の二割を占める特殊体質。政府はこれを『白米』と名付けた。体液に至るまでの体の組織に『お箸』が『美味しい』と感じる特徴を有する、いわゆる非捕食者である。つまり人口の十五パーセントである『お箸』は捕食者であり、先ほどはただの追いかけっこではなく命を懸けた鬼ごっこであったのだ。


 そしてわたしは世界の大多数である『お茶碗』。持たざる者、だった。


 彼女はわたしが買ってきた香水の瓶を軽く目の前にかざすと、ためらいなく全身に振りかけ始めた。『お茶碗』のわたしは彼女から発せられる『美味しい』味や匂いがわからない。おそらくは彼女自身も。

 この対策が本当に功を奏しているのかわからないが、やらないに越したことはない。


 瓶の中身が半分ほどまでに減ったころ、彼女はやっとスプレーする手を止めた。胸元に貸していた上着が押し付けてくるので、わたしは彼女を案じながら受け取る。


「もう、大丈夫ですか?」


 薄い唇の隙間から吐息が漏れている。短い呼吸を繰り返しているが、彼女は何でもないようにふるまった。

 ぎゅ、と胸が締め付けられる。


「……どうして私を助けたの?」


 感謝の言葉が告げられると思っていた口からは、予想外の言葉が飛び出してきた。わたしは間抜けな声を漏らしながら顔を上げる。


「へ?」

「普通、大多数の『お茶碗』は傍観しているじゃない。……『私たち』の問題に首を突っ込む『お茶碗』はいない」


 彼女はそわそわと周囲を気にする様子を見せながら言う。


「どうして関わろうと思ったのかを、聞いているのよ」


 不安に彩られているきれいなとび色の瞳が小平をじっと見つめてくる。

 きっと彼女は『白米』の中でも一等美味しく、そして美人なのだろうと思う。まとうはかなげ、かつ孤高の存在を匂わせるオーラ。持たざる者でも目を引き付けられる。


──わたしがずっと見ていたい、と思うほどなのだ


「……あの状況の『白米』を助けられるのは、わたしたちしかいない、って思ったからです」


 本心を押し殺して告げた。

 嘘ではない。しかしもっと根底にある感情とは違う。けれど彼女を安堵させるにはこれが最も正しい答えだ。

 案の定、彼女は表情から緊張を解いて、脱力した。長い髪を耳にかけて、ぱっぱっとスカートの砂埃を払う。彼女が初めてわたしから視線を外したことに気が付いた。ぎゅう、と胸をより締め付けられるような感覚に苦しくなる。


「あ、あの」


 意を決して、わたしは口を開いた。


「と……友達になってくれませんか?」


 美人な彼女はひどく驚いて目を剥いた。

 彼女の名前は、米倉よねくら美白みしろと言った。

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