12. 暗く静かな海にて(中)

「来たな」


 散開しつつ接近してくる侵犯機に対して、ロマキン大尉は口角を上げた。

 今日は気象予報が派手に外れ、西からの強風によって低層雲が垂れ込めてきて日没前から雨が降ってきていたが、高度6,000メートルの世界は晴れ渡っている。地上に雨を降らせる雨雲よりも天に近い場所なのだ。

 しかし彼の関心事はそのような飛び慣れたこの蒼穹そうきゅうの環境などに今更強く向かない。

 遠く数キロメートル先に見える侵入機の存在こそが、今の彼の最大の関心事だ。

 それは大公国の戦場で最早見飽きたといっても過言ではない機影――帝国空軍のルーチェ1646「旋風」。

 航続性能的に暗静海の東に位置するこの地域に飛来することは本来有り得ないはずだが、実際に目にしているのだからその存在を今更否定のしようもない。

 そして「旋風」は連邦軍戦闘機搭乗員にとって、敵手として非常に強力な相手だ。

 だがしかし、今彼の操るアブロシキン8号軽戦闘機は、大公国の空で「旋風」を相手に散々な目に遭っている6号軽戦闘機とは全く異なる機種である。


 元々、連邦空軍は6号軽戦闘機の性能と戦術に絶大な自信を持っていた。

 帝国を含む諸外国では戦闘機の性能は速力と火力で決まると考えられていたが、連邦空軍は寧ろ速力はそこまで重要な要素ではないと考えていたのだ。

 その思想を元に設計されたのが、6号軽戦闘機であった。

 6号軽戦闘機の特徴は、6メートル強の全長と9メートル前後の全幅という幅広な形状、胴体中頃から伸びる直線的で幅広な主翼、それらによって実現される高い格闘性能だ。速力は時速480キロメートル程度と同世代の戦闘機に比べて低速で、上昇性能も貧弱だが、格闘戦の能力は世界一高いと言えた。これより小回りの利く戦闘機は旧式の複葉機だけだ。

 この戦闘機ならば3機で1個小隊を組み、複数の小隊で連携して敵機をたたけば必ず勝てる――と、連邦空軍は自信を持っていたのだ。

 しかし、連邦空軍のこの目論見は、此度こたびのアーテリア戦争にて無残に崩れ去った。

 帝国空軍のルーチェ1646「旋風」は時速600キロメートル以上、公称性能では時速720キロメートルを発揮する世界最速の戦闘機であり、更に全機が機上無線通信機を装備している為に、現場で組まれた即席飛行隊ですら連邦空軍を翻弄する連携が可能だったのだ。

 6号軽戦闘機の飛行隊は目視と手信号で連携を取り合いながら帝国空軍を格闘戦に誘い込む筈だったのだが、無線通信機で会話をしながら戦闘に臨む帝国空軍を相手には、そもそも有利な位置から接敵することすら出来なかった。

 そしていざ接敵しても、各々連携しながらの一撃離脱戦術を駆使する「旋風」に、6号軽戦闘機はすがることすら出来ないことが多かったのだ。唯一戦果を挙げることが出来る状況といえば爆撃機の護衛や対地攻撃を行っている「旋風」を襲撃する場合だが、爆撃機や輸送機を護衛している戦闘機を狙うことは戦術的に意味が薄く、またそれらの状況でも逆襲されて6号軽戦闘機が撃墜されるということは数多かった。

 当然ながら、大公国の空は常に帝国空軍と大公国空軍の支配下となった。

 そうして業を煮やした連邦空軍とアブロシキン設計局が生み出したのが、アブロシキン8号軽戦闘機であった。

 発動機は第三国経由で入手した帝国製発動機を元に、連邦の工業力でも製造可能なように設計したという。その出力は帝国製に匹敵し、機体構造と併せて、8号軽戦闘機は「旋風」に勝るとも劣らない性能を持っている。

 格闘戦性能は元々連邦側の方が上だ。6号軽戦闘機が「旋風」と対峙たいじした際は、必ず格闘戦に持ち込むべきであると、連邦空軍飛行学校でも結論されている。実際にロマキンは大公国の戦場において、この方法で6機の「旋風」を撃墜していた。

 そして何より、8号軽戦闘機は機上無線通信機を装備している。これも第三国から輸入しているそうだが、使う側のロマキンにはあまり関係のない話だ。

 当然、欠点もある。発動機は連邦でも製造可能なように設計されているが、余程繊細な設計なのか頻繁に不調となる。整備兵らは部品の精度が低いからだと言い、製造工場は整備兵らの練度が低いからだと言っているらしいが、実際に操縦して命のやり取りをする搭乗員達からしてみれば堪ったものではない。

 また、発動機に内蔵されている発動機始動用の起動発電機も非常に信頼性が低く、始動に数回失敗すると焼き切れてしまう程に脆弱ぜいじゃくだ。この為、ロマキン達はこの試験飛行に当たって毎度電源車によって発動機を始動させていた。

 だがそれでも、ロマキンはこの試験飛行の結果で把握した8号軽戦闘機の性能に満足感を覚えていた。


「『教授』、本当に退避する気はないのか?」

「『教授』1より防空司令部、愚問だな。我々はこの機の性能に満足している。あとこいつに必要なのは、実際に『旋風』を墜とすことだ。それに、ここはもう連邦の大地の上だ。これ以上帝国人に踏み入れさせるわけにはいかん」


 この日の試験飛行は飛行環境を実戦と同じものとする為に、機関銃には実包を装填していた。

 8号軽戦闘機は8ミリ機関銃を4門備えていた6号軽戦闘機が威力不足で苦戦した経験から、8ミリ機関銃2門と13ミリ機関砲2門を標準装備としている。奇しくもその配置は「旋風」の7.8ミリ機関銃と15ミリ機関砲の配置とほぼ同じ――否、アブロシキン設計局とてただ見栄だけで航空機を作っているわけではないのだから、敵の方が効率的だというのならそれを模倣するのも当然のことであった。


「スラクシン、ジェグロフ、左に散開した機を狙え。私はもう片方をやる」

「了解!」


 スラクシン少尉とジェグロフ軍曹の機がロマキン機から離れ、向かって左の「旋風」――ヴィヴィアーナ機へと向かっていく。ロマキンが相手をするのはアリーチェ機だ。


「試験飛行の総仕上げだ。あの帝国機を撃墜して最終試験とするぞ」



        *        *        *



 散開し、白い帯を中空にきながらも厚く立ち込めた雲の中へ消えていくヴィヴィアーナ機を見送りながら、アリーチェは自身へと向かってくる敵機と向き合った。

 ヴィヴィアーナはアーテリアの空で散々6号軽戦闘機と戦ってきたが、アリーチェは交戦した経験がない。それどころか先程人間が乗っている飛行機を実弾で撃ち落とすという初体験をしたばかりだ。


「『ウミウ』2、そっちに1機向かってる。今しがた処女は切ったし、相手は連邦のド素人1人だ。今更神に祈ったりしないだろう? まぁ女神アズーリアがそっぽ向いたらあたしが代わりに微笑んでやっからさ」

「私はウィリデの信徒です」

「ああ、だからそんなに堅物なのか」


 無線から聞こえるヴィヴィアーナの軽口に、アリーチェは頬を緩めると同時に、気を引き締める。

 アリーチェとて空軍将校として兵らの緊張を解す方法くらい学んでいる。その軽口が彼女の気を楽にする為のものであることはすぐに察しがついた。

 逆に言えば、接近してきている敵機はそれ相応の腕前であることを、あの撃墜王は感じ取ったのだ。

 大きく息を吸い、大きく息を吐く。


「『ウミウ』2、交戦」


 敵機との距離が詰まる中、双方の高度はほぼ同じ。高度6,100メートル。

 接近中の敵機――8号軽戦闘機の性能の程は分からないが、仮に「旋風」と大差ない性能だったとして、彼我の条件はほぼ同じだ。ヴィヴィアーナはそれを2機同時に相手にしなければならない一方で、アリーチェの相手は1機だ。常識で考えればアリーチェの方が楽だといえる。

 だがしかし、航空機の性能に差がない場合は搭乗員自身の腕前に勝負が左右されるというのもまた常識だ。ヴィヴィアーナとの日々の模擬空戦で、アリーチェはそれを散々思い知らされている。

 発動機の出力を上げ、回転羽の角度を調整して速度を上げる。

 高度を取った方が有利だというのは空戦の基本だが、基本だからこそ敵機も高度を上げてきており、結局ほとんど同じ高度で空戦は始まった。

 双方の距離が2キロメートルを切り、やや機首を下げて降下に入った敵機を照準器に捉える。

 実戦経験者か、とアリーチェは直感した。連邦空軍とて無脳症の集まりではないのだから、アーテリアの戦場で交戦している帝国空軍の癖を研究していることは疑いようがない。

 帝国軍機と相対した連邦軍機が真っ先に取るべき行動は、帝国軍機が仕掛けてくる最初の一撃をかわすことだ。基本的に速度性能と火力で劣る連邦軍機が帝国軍機に勝利するには格闘戦に持ち込むしかなく、その為には最初の一撃離脱を成立させるわけにはいかない。

 そういう意味では、この敵機は定石通りの回避を見せた。

 かといって、離脱に入ったアリーチェ側に何か有用な手立てがあるわけでもない。定石は有効だからこそ定石なのだ。アリーチェの弾丸は6号軽戦闘機程ではないが寸胴な8号軽戦闘機の胴体に幾つかの穴を開けたが、全く致命的ではない。戦闘機の操縦席より後ろの胴体の中身というのは人々の想像より遥かに空虚くうきょだ。

 首を捻って後方を確認したアリーチェの視界の中で8号軽戦闘機が旋回を始める。あの戦闘機の性能は未知数だが、連邦軍機という時点で格闘戦に力を入れているのは間違いないとアリーチェは判断していた。

 実際その推測は当たっていたが、だからといって直ちにその対処法があるわけでもない。機体性能自体はどうしようもないものなのだ。

 だが、それならばアリーチェも「旋風」の性能的優位を活かすまでだ。

 緩やかな上昇に入った「旋風」にまともに追い付くことの出来る単発戦闘機など存在しない。

 しかし。


「離れないッ……!?」


 風防の枠に取り付けられた後方確認用の鏡に映り込んだ8号軽戦闘機の姿に、アリーチェは息をんだ。

 急速に大きくなってくるわけではない。しかし、着実に追い上げてきている。

 実際には、ロマキン機はアリーチェ機より速い速度で接近・交差し、ある程度の速度を維持したまま旋回に入っていた。旋回時の失速が小さいのが8号軽戦闘機の強みであることを理解していたのだ。

 それを知る由もないアリーチェは、6号軽戦闘機には有り得なかったその挙動に狼狽ろうばいした。その焦りは、彼女の手に操縦桿そうじゅうかんを引き起こさせてしまった。

 アリーチェ機の機首が少しずつ上がり、比例して速力が徐々に失われていく。


 ――しまった!


 気付いた時には遅かった。

 ロマキン機の機首と右翼が瞬く。



        *        *       *



「むっ……凍結か?」


 アリーチェ機を完全に照準器に捉え、引き金を引いたロマキンは、しかし自身の機体から放たれた弾丸の違和感に気付く。

 アリーチェ機にはロマキン機の機首から放たれた数発の8ミリ機銃弾が命中したが、肝腎の13ミリ弾は1発も当たっていない。それどころか、13ミリ機関砲を発砲した衝撃で8号軽戦闘機の機体自体が振動して照準器がブレてしまった。

 ロマキンは思わず自機の左主翼に目を遣る。左主翼、丁度曲折している辺りから突き出ている13ミリ機関砲が火を噴いていない。

 考えられる要因は2つ。装填不良等で弾丸が詰まっているか、機関砲の潤滑油が凍結して機関砲自体が動作しなくなってしまっているかだ。この日、この空域の高度6,000メートルの気温は氷点下30度まで下がっている上に約4時間に渡る試験飛行の後である為、ロマキンは後者であると踏んだ。

 いずれにせよ、右側にだけ13ミリ機関砲を発砲した反動が掛かった為、機体の均衡が崩れてしまった。

 照準器の外に外れたアリーチェ機を再び捉えようと操縦桿を操作するが、アリーチェ機は旋回に入っており、照準器とアリーチェ機の距離は中々縮まらない。

 それどころか――


「クソッ、スラクシン少尉がやられました!」


 無線通信機に飛び込んできた悪い報せ。

 1機の「旋風」に2機の8号軽戦闘機でかかって、スラクシン少尉が撃墜されてしまったというのだ。

 ロマキンはアリーチェ機を追いながら周囲に目を見遣るが、雲が厚く、もう1機の「旋風」もジェグロフ軍曹の8号軽戦闘機も見えない。


「ジェグロフ、状況を報告しろ」

「雲の中です! 今、奴を捉えました! こいつ……!」

「あまり熱くなるな、ジェグロフ。冷静にな」

「分かってます、分かってます」


 ジェグロフともう1機の「旋風」の空戦はロマキンからは見えないが、ジェグロフの声音から随分白熱していることは分かった。

 自分達が思っていたより「旋風」は格闘戦が出来るらしい、ということにロマキンは今更ながら気付いた。

 これまで6号軽戦闘機は圧倒的な格闘能力を発揮していたが、8号軽戦闘機になって少しばかりその格闘能力が「旋風」に近付いてしまったのも原因だろうが、何よりは目の前の「旋風」――アリーチェ自身の腕前である。

 ロマキン機が後ろを取ってはいるのだが、一向にその照準器にアリーチェ機を捉えることが出来ないのだ。不規則に傾転、旋回を挟み、ロマキンはその都度それに追随する動きを強いられる。

 何度か照準器とアリーチェ機が交錯した瞬間に発砲してみたが、やはり8ミリ弾も13ミリ弾もアリーチェ機には当たらず、また13ミリ機関砲を発砲する度に照準がブレてしまう。

 そして徐々に、ロマキンも息が上がってきていた。

 格闘戦は長時間続けられるものではない。人間の身体には負荷に耐える限界があるし、その限界までの時間が長い方が格闘戦の勝者となるのだ。

 恐らくは、「旋風」の操縦者も同じ筈だ、と思いながら、ロマキンは引き金を引いた。

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