02. 空軍士官ヴィヴィアーナ・カンタレッリ(後)
ヴィヴィアーナが自身の母の仕事が何であるかを知ったのは、5歳の時だった。
彼女の知る限り、母は
好奇心旺盛な彼女は、母が奥の部屋で男と何をしているのか、気になってしまった。
もしかしたら、もっと面白い遊びをしているのではないか。
そんな幼い好奇心によって、ある日彼女は母が入っていった奥の部屋に忍び込んだ。いつも決まった部屋に入っていくので、簡単だった。
だが、そこで目にしたのは、男に組み伏せられて
恐ろしくて悲鳴を上げそうになったが、何故か目を離すことが出来なかったヴィヴィアーナは、翌朝部屋を掃除しに来た使用人に見つかるまで、声を上げることもなく静かに涙を流していた。
店の主人からは、こっ酷く叱られたが、母の同僚達――母と同じように煌びやかな服を着て、煌びやかな壁と天井の下で、男達と遊ぶ仕事をする女達は、大笑いしながら教えてくれた。
あれが
言葉の半分以上は理解の外ではあったが、それが半ば本心ではないことを、ヴィヴィアーナは幼心に察した。
笑顔の仮面を被ること。客に
初等学校に通った6歳から10歳の4年間で、彼女はその意味を悟った。
同時に、その道を自身が歩むことは拒絶した。
客に夢を見させる為に愛嬌を振り撒き、悪意を隠し、媚びを売り、何より笑顔の仮面を被ることが、彼女には耐え難いことに感ぜられたのだ。
意外なことに、店の主人も、母の同僚達も、そして母も、それを認めた。
母の同僚の1人で、破産した商家の娘だったという娼婦は、ヴィヴィアーナに勉学のコツを教えてくれたし、店の主人は時々参考書を貸してくれた。母も、娼婦という仕事以外でも使えるからと盤上遊戯と弦楽器を教えてくれた。
また、客の中には使用人の手伝いをしながら参考書を読むヴィヴィアーナを面白がって、様々な知識を授けてくれる者も居た。店を訪れる客の大半が当時創設されて間もない帝国空軍の軍人で、ヴィヴィアーナの父親も時々店を訪れる空軍将校の1人であると知ったのも、この頃である。
お陰で彼女の成績は非常に優秀で、初等学校の教師からは中等学校か初等学校高等科への進学と、その為の奨学金の取得を勧められた。
そうして、ヴィヴィアーナは奨学金を得て中等学校へ通うことが出来た。
だが、その中等学校の4年間で、今度は自分が少々面倒な立場の人間であることを思い知らされた。
初等学校は義務教育なのでどんな貧民の子供でも通うことになるのだが、中等学校はそうではないのだ。そして、軍の将校向けの高級
また、ヴィヴィアーナ自身の容姿や性格が
豊満とは言い難いが長身で整った肢体と柔和な印象ながら
そんな彼女には、大小様々な嫌がらせがあったが、幾人かの友人にも恵まれ、良い思い出も悪い思い出も作りながら、その4年間を乗り切ったのであった。
そうして中等学校を卒業してから1年。
生家でもある娼館の使用人の手伝いをしながらの猛勉強の成果は、空軍士官学校合格という結果に成就した。
この士官学校は帝国首都カエルレウムの北方、カエルム州コレコダにあり、飛行士官課程に進んだ候補生の操縦訓練を行う飛行練習隊はコレコダ空軍基地――ヴィヴィアーナが産まれた高級娼館のある街である。
つまり、住み慣れた故郷で、空軍士官としての教育を受けることになったのであった。
そして、この空軍士官学校で、彼女はその才能とそれまでの努力の結果を、存分に発揮したのである。
* * *
唐突に受けた振動によって、ヴィヴィアーナは「ふぁっ」という間抜けな声を上げながら目を覚ました。向かい側に腰掛けていた憲兵の
護送車が走行する振動は止んでおり、どうやら停止しているらしいことが分かった。車外は静かだが、微かに他の自動車が走行する音――聞き慣れた雑役自動車の発動機の音が聞こえていた。
「麗しの故郷に到着……ってわけじゃなさそうだな」
どれ程眠っていたのかは定かではないが、それでも感覚的に帝国本土に着くには早過ぎる。戦争が始まって大公国に派遣された際は自分の手で戦闘機を操縦してきたので、同じ距離を自動車でどのくらいかかるのか正確には分からないとはいえ、そのくらいは察しがつく。
ヴィヴィアーナの所属する第109戦闘航空団の本来の根拠地はアズロマルカ州にあるが、その上位司令部である中央方面航空軍の司令部があるのはカエルム州コレコダのコレコダ空軍基地だ。
軍法会議は方面航空軍級の司令部でなければ開かれない為、彼女はその為にコレコダへと移送されていることになる。
して、この街は、「空軍の街」と呼ばれる程に帝国空軍と所縁がある街だ。
基本的には中央方面航空軍の管轄範囲で第106夜間戦闘航空団や第300爆撃航空団といった中央方面航空軍所属部隊が根拠地としているが、参謀本部直轄の第1戦闘航空団や空軍士官学校飛行練習隊といった部隊も多数駐留している為、空から見ると空軍基地の敷地の方が街の面積より広いくらいだった。
そして何より、ヴィヴィアーナにとってコレコダは生まれ育った故郷の街なのである。
それで、軍法会議を受けに里帰りとは、などと考えながら皮肉を吹いたのであるが、目の前の憲兵は呆れた表情のまま、黙っていた。
暫しの沈黙の後、ヴィヴィアーナの大きな
「ただの休憩ってか? それならそれでそこ開けてくれよ。逃げやしねぇからさ。ンなとこであんたのツラ見てると息が詰まって仕方がねぇ」
この分からず屋には何を言っても無駄らしい。階級は中尉で、年齢もヴィヴィアーナと同じくらいに見えるが、上官に対する敬意だとか畏怖だとか、そういったものは欠片も見えない。
しかしそうすると、護送車は何故停止しているのだろうか。
周囲の物音からして、何かしらの施設に停車しているのは間違いなさそうだが、交通整理等の為に停まっているとは少し考えにくい。
どうせ暇なのでその理由をあれこれ推測するのも面白いだろうか、などと考えた時である。
護送車の後部扉が、外から
腰掛けていた憲兵がすぐに立ち上がり、外に向かって誰何する。
「参謀本部情報隊、セッラ中尉です。ヴィヴィアーナ・カンタレッリ大尉をお迎えに上がりました」
女の声だった。
憲兵にとっても承知していないことだったのか、彼は一瞬ヴィヴィアーナの方を見た後、「確認する」と一言返して運転席の方へと向かった。
幾つかの言葉でのやり取りの後、憲兵は戻ってきて後部扉を開く。
「ヴィヴィアーナ・カンタレッリ大尉ですか」
「いかにも。貴官は?」
「参謀本部情報隊のセッラです」
扉の外に立っていたのは、空軍の制服に身を包んだ女だった。階級章は中尉。左腕には参謀本部の袖章も見える。
声に違わぬ美人だ、とヴィヴィアーナは思った。
セッラと名乗った中尉は、憲兵に書類を渡すと、ヴィヴィアーナの手錠を手摺から外し、そのまま引っ張って彼女を車外へと連れ出す。
随分長いこと浴びていなかったような気すらする陽光に少し顔を
周囲の景色を見る限り、ここは陸軍と共用している物資集積場らしい。近くの鉄道駅には「ヴェルネコ」という看板があるが、彼女にとってその地名は覚えがなかった。少なくとも、まだ大公国内なのではないか、と予想がついた程度だ。
「こちらへ」
セッラ中尉に連れて来られたのは、軍が雑役用に採用している乗用車だった。車体側面には帝国空軍の標識の塗装がある。
後部座席の扉を開いて乗車を促されたので素直に従う。貴族にするように、他人が恭しく扉を開いてくれたのはヴィヴィアーナにとって初めての体験だった。
後部座席には既に先客が居た。空軍少佐の男。軍規上は敬礼を省略して良い状況なので、小さく会釈をして隣に腰掛ける。
セッラ中尉は運転席に乗り込み、少佐の指示で自動車を発進させる。
「『勢子』と呼んでくれ」
少佐の第一声はそれだった。それが姓か
「勢子」は手元の資料に目を落とす。
「ヴィヴィアーナ・カンタレッリ。1625年、カエルム州コレコダ生まれ。1640年に空軍士官学校入学、飛行士官課程で1644年卒業。席次は14番目。教官らからの評価は『空戦機動中にも果断かつ冷静に決心、実行する能力を持つ』とされ、座学も実技も非常に優秀であったが、同時に3年次と4年次の頃の素行の悪さでも知られる。1644年、第109戦闘航空団に配属。1650年12月18日、フェルブールでの航空戦で初陣、その際に連邦軍機3機を撃墜。それ以降、今日に至るまでの10か月間で連邦機64機撃墜。今年の1月に軍功によって少尉から中尉に、8月にはまた軍功によって中尉から大尉に昇進し、現在は飛行中隊を指揮……正に英雄だな、カンタレッリ大尉?」
彼が読み上げたのは、ヴィヴィアーナの経歴だった。
最後の一言には皮肉が大いに込められているようではあったが、査問会で査問委員達が口にしたそれよりは随分と無感情で、寧ろ実は手元の資料にその台詞まで書かれているのではないかと思える程の棒読みだった。
「そりゃどうも。あたしのことをそこまでご存知なら、お貴族様のような華麗な切り返しは期待しておられないと思うのですが、『勢子』少佐?」
帝国語――言語学的には東アズーリア語というのだが、帝国の公用語とされていて帝国内ならばどこでも通じるといわれているこの言語は、実は地域差ではなく話者の社会階層で発音等の差異が大きい言語だ。
ヴィヴィアーナは典型的な下町帝国語ともいうべき言葉をよく使い、発音や言葉選びも庶民のそれだ。
一方、「勢子」の話し方は、どうにも軍人や役人が使うような硬い言葉を敢えて使っている様子で、発音の節々からは貴族のような典雅さを感じられた。つまり、恐らく貴族かそれに準じた階級の出身者だ。
それを踏まえて、ヴィヴィアーナは敢えて嫌味を言ったのだが、「勢子」の表情は少しも変わらない。ニベル大佐等であれば、これだけで幾分顔色を変えただろうが、と若干つまらなく思う程だった。
そして、彼女のそんな心情をこれまた知ったことかと言わんばかりに、「勢子」は無表情のまま言った。
「我々と取引しないか、大尉」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます