016
いつだっただろうか、僕が初めて頭と身体で恐怖を感じた時は。あれは確かまだ物心ついて間もないころだったかな。隣の家に引っ越してきた若い夫婦の飼っていた犬に毎日吠えられていて、恐怖を感じただろうか。そんな犬も小学校を通う頃には頭や体を撫でてやるくらいに仲良くなっていたけどね。
恐怖なんてそんなもの。乗り越えればなんたってないんだ。悲しみもそうさ、時が次第に緩和してくれる。深く深く残っているものもあるが、結局は脳が覚えていてくれない。僕はそんな幸せなことを思いながら日々を過ごしてきていた。とても幸せだったんだと思う。
人には現実に向き合わせておいて、僕は逃げていた。現実と向き合っていると思っていたんだ。勘違いも甚だしい、誰か僕に説教をしてくれ、笑ってくれ、殴ってくれ。
だけどそんな行為をしてくれる人物はいない。みんな僕を慰めてくれる。一緒に泣いてくれる。気を落としてくれる。僕と同調してくれるんだ。皆優しくて、いい人だ。
僕はそんなことは望んでいない。
僕は。
僕は。
「咲ちゃん、入るよ」
夕暮れ時の病院のベッドで寝ながらネガティブなことを考えていると、三百五号室、僕が入院している部屋のドアがノックされた。
返事をする前にドアが開き、そこから南霧さんが顔を出す。彼女の服装は今日の昼あった時とは変わって喪服のような服である。まるでアンリが死んだ現実を受け止めるろと言わんばかりの服装。
「どうしたのさ、暗い顔をして、いつも見たいにキープスマイリングはしないの? 咲ちゃんらしくないなー」
南霧さんはワザと元気付けようとしてくれている。だからいつものように接してくれているのだ。
「茶化すなら帰ってもらっても良いですか?」
でも僕にはそんな南霧さんの心遣いも解ることができない程に心が落ち込んでいた。
「まーったく、傷心だねぇ。咲ちゃんはどうしてそんなに傷心なんだい?」
知っている癖に茶化したように質問する。その態度が今の僕は気にいらない。だから声を荒げて答えてやった。叫ぶように言ってやった。
「南霧さんには分からないですか! あいつが死んだんです! アンリが死んだんですよ! それなのにいつもと同じように接してくるなんて、あなたどうかしてる! 夏の暑さで頭でもやられたんですか!」
南霧さんは、ふぅとため息よりの息を吐いてから、僕に答えてくれた。
「そうだねー、私には分からないかもね。でもさ、咲ちゃんは嘘をつく余裕ってものがあるらしいね。お姉さん安心だわー、元気そうで」
「な、何を」
その言葉に僕はたじろぐ、まさか心を読んでくるとは思わなかったからだ。
「自分に嘘つくなって言ってんの、慰めてほしいのかい? 違うだろう? 咲ちゃんが今求めているものは自分を卑下してほしいんだ、攻めてほしいんだ。卑怯な奴だね。自分を貶めて、それを糧にしようとしているんだ。誰かに言ってもらいたい、気付いてもらいたい。そうして気付いてもらったうえで、共に感情を吐露したいんだろう? あぁなんて傲慢な咲ちゃん。その傲慢さで美しさを磨き上げるのかな」
「そんなの、南霧さんが知ったことじゃないでしょ」
「えぇ私の知ったことじゃないよ。でもさ、自分だけが悲しんでいるって思ってないよね? 祭も楽も悲しんでいる。それにバッタだって負い目を感じているさ。無論もちろん私だってだ。それなのに一人咲ちゃんは、閉じこもっているのかい? 見てくれよこの濡れたハンカチ」
そう言って南霧さんはポケットから濡れに濡れたハンカチを取り出す。
「これはね、祭に貸してあげたんだけどさ、こうなって返って来ちゃった。その時祭なんて言ったと思う?」
「知りませんね」
南霧さんが何を伝えたいのは知らないけど、変わらず冷たくあしらう。
「私のせいです。って言って泣きついて来たのよね」
「どういうことです?」
つい食いついてしまった。その食いつきに南霧さんはふふっと笑っていたと思う。だってそうだろう、何故何も関係ない祭ちゃんが負い目を感じているんだ? 責任は僕にある。僕が手を繋いでいなかったからだ。もしかして僕の手を引いてアンリから離したのを負い目と感じているのか? だとしたらそれは違う、僕が悪いんだ。
「言ってなかったけどさ、実はあの二人には違うお仕事を頼んでおいたのさ」
「・・・それは?」
「爆弾の解体さ。バッタ先生のお墨付きで爆弾を解体してもらった。だけどね、間に合わなかったんだよ、三個目の爆弾の解体が。一個目二個目は死傷を与えない程度だろうとバッタがファイリングから予想していてね。それで三発目から死人がでると予測して、解体に回っていたんだけど、この結果さ」
南霧さんから予想外の発言が聞けた。あぁ、だから二人はあんなにもトイレに行きたがっていたのか。それに祭ちゃんは四つ目の爆弾が不発と知った時に胸をなでおろしたのか、楽も遅れて来たのは解体をしていたからだ。納得したよ。
それを僕に教えなかったことは、余計な心配を掛けさせたくなかっただけ。けれども安全とは言わない程のお使いをさせることに恩着せ返しの意味がある。
南霧さんは僕の正体とアンリの正体を知っている。それを見込んでの信頼、その信頼こそが失敗につながった。
「祭の解体爆弾は三と四個目だったんだけど、どうしても三個目が見つからなかったんだってさ。それに咲ちゃんが同じ場所にいなかったから探していて遅れたとも言っていたね。あぁ彼女も、この発言を言い訳がましいと思っているからね」
それで祭ちゃんは自分のせいと言ったのか、何をそんなに負い目に感じているかと思えば、そういうことだったのか。
「祭ちゃんらしいや」
「そう、祭らしい悲しみ方だね。楽も相当落ち込んでいたよ。それで今は自分を罰する為に筋肉トレーニングだってさ。バッタも相当悔しがっていたね、いやー今あいつの所に行くと拳やらなんやらが飛んできそうだ」
「そうですか」
「どうだい? みんな、それぞれ違えど悲しんでいるよ。咲ちゃんも咲ちゃんらしく悲しんでみたら? ほら、私が胸貸すよ?」
バッと手を広げて僕がその胸に飛び込んでくるのを待っている。
「ほら、私、胸には自信があるんだ」
南霧さんと話していて自分の心が揺らぐ。我慢しなくていいのかな、壁を乗り越えなくてもいいのかな。僕はいつも目の前にできた壁を避けたり乗り越えたりしてきた。
ぶつかろうとしたのは力を持っている時だけだ。だって何でもできるから。その気になっている時だけ壁とぶつかって対峙した。だけど今その力を引き出すことはできない。
引き出せる相手がいない。
アンリがいないんだ。
この壁に僕はどうやってぶつかればいいのだろうか。僕は知らない。
だけど南霧さんが教えてくれた。笑われるなんて思ってもいない、殴ってくれなど思ってもいない、自分に嘘をついていた。僕は本当は泣きたかったんだ。
南霧さんの大きく柔らかい胸に顔を預けて、思う存分泣いた。その時南霧さんは僕の耳元で一つを囁いてくれた。
「ごめんね」と。
そう謝罪の言葉を述べて、怪我している背中に手を回して優しくさすってくれた。
芽衣ちゃん失ったあの日もアンリはこうして慰めてくれたっけ。
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