009
声の主はこのズォーダに乗っ取られた母親の娘だ。その娘がゆっくりとピッチャーマウンドの方へ僕に訴えながら歩いて来ていた。
「お母さんを殺さないで」
「やめて」
「私からお母さんを奪わないで」
確かにそうだ。何も知らない彼女からしたら、僕は気が狂った殺人鬼。現実は受け止めがたい。僕だってこの事実を受け止めるのに成り行きに身を任せているに近い。それでも、僕は覚悟なんて大層な言葉で飾るのではなく、彼女の母を救うために決めたのだ。
「殺さないさ、僕は君のお母さんを弔うだけ」
そう、殺すのはズォーダ。この人は既に亡くなっている。だから、だから後はきっちりと弔わなければいけない。
「駄目! まだお母さんを救う手段があるかもしれない!」
「ないさ」
「わからない!」
彼女は根拠もなく叫ぶ。
「分かるさ、こうすれば」
このままじゃ何も進展しないと思う。僕は非情にもズォーダ本体を引き抜いた。
「だめええええええ!」
引き抜いたズォーダを天に掲げる。ズォーダの本体には発声器官もないので、力なく長細い本体をへたれさせてから塵になり、風に吹かれて消えていった。
塵を見送りながら、彼女をそっとおろして地面に寝かせると、胸の傷がゆっくりと治っていく。おかしい、どうして胸の傷が治ったのだろうか。真っ赤に染まった手を見つつ、疑問に思っていると。
「お母さん!」
女子高生は化け猫の姿から元に戻っり安らかに眠っている母に駆けより、心臓の鼓動を確かめるために胸に顔をつける。それは現実を確かめる行為。それは母の死を受け入れる行為だ。
この人の心臓は動いてない。そもそも貫かれた直後に心臓自体が無くなっていたんだろう。手を突っ込んだ時にそこにあるはずの心臓が無かった。体の中に手を突っ込むこと自体が僕にしては初めてだったのだけど、医学に長けていない僕でも、同じ人間である。あるはずのものがないのはわかる。
「ごめんね」
僕は謝っていた。誰に対して? この娘? 母親? 罪悪感を抱いた自分? 答えは全員だ。全てを裏切る形でズォーダを殺した。非情にも、彼女達の期待を裏切りながら殺害した。
「ごめんじゃ済まない! あなたを私は許さない! この人殺し!」
彼女は泣きながら鬼の形相で僕を睨みつけた。あぁどうして僕は人を助けてなお、罵声を浴びせられないといけないのだろうか。
でもこれは自分が招いた行為。こんな力が無ければと一瞬思ったが、この力を授けたアンリを恨むのはお門違いだ。力を持った者には責任が課される。ノブレスオブリージュだ。だから、罪悪感を抱いてはいけないし、謝礼を期待してもいけない。すべては僕の行動の結果なのだから。
「うっ」
その時だ、倒れている母親が唸ったのは。
「芽衣ちゃん・・・」
そして喋った。
「こんなことが起きるなぞ・・・」
アンリも驚いていた、どうやら規格外の事が起きているらしい。これが奇跡ってやつか。
「お母さん、生きてるの? 本当に? 本当に生きてるの?」
受け止めがたい現実が右往左往し、芽衣と呼ばれた彼女は困惑する。
「芽衣ちゃん、ごめんね」
母親はゆっくりと右腕を彼女の首に回して抱き寄せる。そうして頭を優しく撫で始める。
見ているだけで自然と頬から涙が流れていることに気がついた。慌てて親指で涙を拭う。
「芽衣ちゃん、良く聞いて。芽衣ちゃんはこれからお父さんの所へ行くのよ。それとしっかりと感謝の気持ちを伝えなさい。その人達は芽衣ちゃんを助けてくれたんだから」
どうやらこの人は記憶があったらしい。この人の最後の娘に対しての説教であり教育だろう。
彼女に優しく諭し、そして慈愛に満ちた目で撫でる。理解しているんだ、自分の体の変化に。
「喋らないで! 今すぐ病院に電話するから!」
芽衣さんは慌てて携帯電話を取り出そうとするが、彼女は撫でていない手で携帯電話を探している手を止める。そして軽く首を振る。
「なんで? 駄目だよ、やだよ! お母さん死なないでよ!」
「そんなことより、早くお礼を言いなさい」
「そんなことって!」
「言いなさい、感謝の言葉はその時に言わないと意味はなさないの」
母は強し。その言葉が最も似合う母親だと僕は思う。僕の母さんもこんなのだったのだろうかな。
強い眼差しと、もう時間がないのだと察した芽衣さんは立ちあがった。そしてこちらを向いて頭を下げ。
「私達を助けてくれてありがとうございます! あと、人殺しとか言ってごめんなさい!」
僕達に感謝と謝礼の言葉を述べてくれた。その言葉を聞いて、なにか心の中にあった澱みが落ちるようだった。
「いいよ、傍から見れば人殺しだし」
僕は謙遜とかじゃなく、そう思うのであるがままの言葉を言う。
「どこの誰だか知らないけど、ありがとうございますね。もしもこの子に何かあればまた、助けていただけますか?」
「はい、僕は人間の味方ですから」
「ありがとうございます」
どうしてか心がほっとしていた。とても暖かいものに包まれたようだ、これは母の愛か。僕が感じたことが無い愛だ。
良かった。この人のおかげで僕が僕でいられたような気がする。
彼女は再び芽衣さんの方へ視線を戻す。
「芽衣ちゃん。お父さんに会うまで、あの人達と一緒にいなさい。そしてお父さんに伝えてね。ごめんなさいって、愛しているって。芽衣ちゃん・・・生まれてきてくれて、ありがとう」
彼女はそう言って手を伸ばす。その手を芽衣さんが掴もうとするけど、儚く、その手は地面に落ちてしまった。
一時の夢が終わったのだ、奇跡は起きても継続はしない。
「お母さん?」
一度母に呼び掛ける。
「ねぇお母さん?」
もう一度。
「お母さん!」
だけど彼女はもう起きない。死んだのだ。亡くなったのだ。僕が殺した訳じゃないが、どうしても罪悪感が戒めない。ありがとうと、彼女は言ってくれたけど、それでも僕はこの見えない罪を背負って生きていくのだろう。
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