第4話 魔女の涙
その日は朝から雨だった。
薄雲の合間からパタパタと静かに落ちる滴が、森の葉を優しく奏でている。
リリアンの小屋の窓辺では、水飛沫が弾けるリズムに合わせて、妖精たちが踊っていた。
水の妖精たちはいつでも気まぐれ。倒れた旅人を癒す日もあれば、手のつけられないほどに怒り狂う日もある。
そうして今日のような優しい雨の朝には、かろやかなダンスを見せに来てくれるのだ。
「みんなおはよう。今日は良い雨ね」
リリアンは軋む古いガラス窓を開いて、そこに小さな皿を置いた。
蒼く透き通る鉱石の皿の上には、砂糖を絡めた小さな花弁。
リリアンの作る色とりどりの花菓子は、妖精たちのお気に入りだ。
「やった! 花菓子だ」
小さな子供のようなはしゃぎ声を上げて、妖精たちが小屋の中へ入ってくる。
軽やかな妖精たちの足取りと一緒に、少しだけひんやりとした清浄な森の空気が、小屋の中へ流れ込んだ。
「まだまだ作ったから、いっぱい食べてね」
暖かい紅茶をすすりながらそう言うと、妖精たちは思い思いの花弁を手に頷いた。
まだ日も上りきらない早朝のお茶会。
森から出ることの少ないリリアンに、妖精たちは色々なことを教えてくれる。森の中で起きたことも、近くの村で起こったことも、遠い王都で起こったことも。どれだけ離れている場所のことでも、妖精たちには関係が無い。一人が知れば、みんなが知る。意識の根幹を一つにする妖精たちは、素晴らしい知識の泉そのものだった。
「森の外れにリラが芽吹いたよ。リリアンの好きな花だろ。咲くのはまだ先だけど」
「そうなのね。楽しみだわ」
「王はまもなく病に伏すよ。呪われている」
「王が?」
「あれは西の国のまじないだね。それほど強いものではないけれど、王都の魔法師たちはまだ気づいていない。」
「……そうなの」
妖精たちはその知識を一方的に喋っていく。
何が聞けるかはわからない。何を聞いてしまうかはわからない。
そして、例え望んで聞いた訳でなくても、対価が必要だった。
「リリアン。おかわり!」
妖精の一人が、空になった皿の上で声を上げる。
リリアンは戸棚から花菓子を取り出すと、祈りと魔力を込めた。花弁の周りについた砂糖の粒が宝石のようにキラキラと輝きだす。
「どうぞ」
リリアンが初めて妖精の来訪を受けた日、森のルールなど知らずに、彼らのお喋りを聞いてしまった。対価が必要だと言うことを知らなかったのだ。
その日からリリアンは口が聞けなくなった。声を出そうにも喉が切り取られたように、空気が漏れるばかりで、一切の音が出なくなってしまったのだ。
それが妖精の仕業だと気がつくまでに、7日もかかった。幸か不幸か、リリアンには話し相手もいなかったので、それ程困る事はなかったが。
対価の花菓子を食べながら、妖精が思い出したように声をあげる。
「あ、そうだ」
妖精は小さな翅はねでふわりと飛ぶと、リリアンの鼻先でピタリと止まった。
「終わりが来るよ。もうすぐそこまで来てる」
唐突に言われた言葉に、リリアンは首を傾げる。
「血のように赤いたてがみと、氷のように冷たい目の獣だよ。リリアンを探している」
「私……を?」
赤い髪と青い目。その容貌には痛いほど心あたりがある。
リリアンの脳裏に温もりの溢れた優しい日々が
思わず顔がほころぶような幼子の笑顔も、最後に握った手の柔らかさも。
「残念。僕たち、リリアンが大好きだったのに」
「リリアン居なくならないで」
さっきまで楽しそうにしていた妖精たちが、一斉にシクシクと泣き始めた。
その泣き声に合わせて、外では雨の勢いが増している。バタバタと屋根を叩く雨音が、リリアンの不安を煽った。
「困ったわ。泣かないで、妖精さんたち。私はここにいるじゃない」
泣く子をあやすように、リリアンは妖精たちの涙を拭った。
けれども、それが一層妖精たちの悲しみに火をつけたようで、森はすっかり雷雨に見舞われてしまった。
(私がいなくなるってどういうことかしら。どんなに、どんなに願っても死ぬことなどできなかったのに)
「ねえ、妖精さん。その獣って──」
妖精たちにもう少し詳しく話を聞こうとリリアンが声を上げた刹那。
ドンッ──!
空を裂くような轟音とともに、窓の外に稲光が走った。
どうやら近くに雷が落ちたらしい。
ミシミシと樹木の裂ける音が響き、次いで何かが倒れるような大きな振動があった。
リリアンは慌てて窓から身を乗り出した。
「大変だわ」
庭の外れでひときわ大きい大樹が、見事に裂けて火を上げている。稲妻に焼かれた木肌が霧のように煙を昇らせ、火が揺らめくたびにパチパチと爆ぜる音が響く。
「このままじゃ、森ごと燃えてしまう──!」
リリアンは棚に置いてあった魔法の込められた小瓶をさっと掴むと、慌てて小屋を飛び出した。
「リリアン、行かないで!」
背後で妖精たちの悲鳴が聞こえた。
まるで駄々っ子のそれのように、ダメだ嫌だと口々に叫んでいる。
「大丈夫よ。火を鎮めに行くだけだから!」
リリアンは一度だけ振り返ると、庭の片隅に置いてあった木桶を掴んだ。
汲み置きの水瓶から、たっぷりと水を掬う。
ずっしりと重くなった木桶を両手でしっかりと掴むと、服が濡れるのも構わずに、大樹の元へ走った。
雨はいつのまにか一層強くなり、リリアンの頬に髪に容赦なく叩きつけている。
(妖精たちがここまで荒ぶるのは久しぶりだわ。……一体何が起こっているというの)
リリアンの魔力の特性上、己の魔力で察知できる未来は限られている。
自らの為に使える魔法は一つも知らない。
それでも、今日の妖精の様子は何か大変な出来事の前触れを感じさせるには充分だった。
──何かが変わる。
不変を揺るがすその予感に、森も妖精も、リリアンの心もざわめいていた。
渦巻く焦燥に足をとられそうになりながら、リリアンは走った。
──赤い髪に氷の目。
妖精たちの言葉が、リリアンの心を激しく揺さぶる。
そんなことがある訳ない。けれどもどこかで期待してしまう。
あの時の子供が、自分を探しに来てくれた、などと。
子供の記憶を奪ったのは自分だというのに、もしかしたら覚えていてくれたのかもしれない。そんな勝手な希望が清水のごとく胸に湧き出でた。
たった一人でいい。
誰かの記憶に残れたのなら……。
──他には何もいらないわ。
それがあの子どもだというのなら、もう全てを差し出しても良い。
リリアンは不安と期待に高まる胸を、どうにかなだめて一歩一歩を踏みしめた。
大樹へ近づくと、リリアンの足はピタリと止まった。
立ち上る程に大きくなった炎は、降り注ぐ雨などものともせず大樹の幹を舐める様に這いずり回っている。
濡れた髪も乾くほどの熱風が、炎の揺らめきと共に駆け巡る。
その熱さに思わず眉根が寄った。
感傷に浸っている暇はない。
リリアンは水の入った木桶を草地に置くと、懐から取り出した小瓶の中身を数滴落とした。
妖精の祝福と魔法を込めた特別な薬だ。
夢幻蝶の鱗粉の様な煌めきが、波紋となって木桶の中の水に拡がっていく。この水を燃え盛る大樹にかければ、炎はたちどころに消えるだろう。
もう少し近くへ寄らなくては。
そう思った、まさにその時だった。
炎の踊る大樹の根元で、何かが──動いた。
──人だ。
遠目にもわかる堂々とした体躯。所々焼け焦げた簡素な上着からは、しなやかで逞しい腕が伸びている。
どこか怪我をしているのか、大剣に体重を預けながら、足を引きずるようにして歩いている。
荒い息遣いと共に、獣のような唸り声が響く。
「こんなところで、死んで……たまるかっ!」
その懐かしさの滲む声音に、リリアンは思わず息を飲んだ。
火を消し、男を助けなくてはと思うのに、体は痺れた様に動かない。
「どうして……」
意味のない問いだけが喉をつく。
(──私のもとへ再び訪れる人間が居るなんて)
熱風に揺れる髪は、炎を背にしてもなお赤い。
人の形の中に閉じ込められた、獰猛な獣。
優しかったあの男と見まごうほどに似ているのに、たった一目で違うとわかる。
(そしてそれが、他でもない『あなた』だなんて)
リリアンは本能的に一歩、後ずさった。
──パキリ。
乾いた小枝が、足元で鳴る。
それが合図だったかのように、男が顔を上げた。
アイスブルーの瞳。
鋭く、迷いなく、まっすぐにリリアンを射抜く。
まるで野生の狼が、獲物を見定めるような視線だった。
「……お前が、魔女なのか」
炎を巻き上げた風がごうっと二人の間を駆け抜ける。
燃え立つ森の中、リリアンの視界には──もう彼しか映っていなかった。
記憶の中のあの子とはまるで違うのに、何もかもが懐かしい。
呼吸することすら忘れて立ち尽くしていると、男が訝しむように距離を詰めた。
青い炎を宿した眼差しが、リリアンの新緑の瞳を捉える。
それだけで、リリアンの思考は完全に止まってしまったようだった。
まるで夢の中にいるように、ただ呆然と男を見上げる。
「お前……」
目の前の少女の真意を探ろうとでもいうように、リリアンの瞳を見つめていた男はたじろいだように息を飲んだ。
思わずと言った風に、その無骨な手を少女に伸ばす。
切り傷と火傷だらけの手が、その柔らかな頬に触れた。
「どうして泣いている」
男の指が幾度か躊躇うように揺れ、そっとリリアンの涙を拭った。
そこでようやく、リリアンは自分の瞳から零れる涙に気がついた。
リリアンは返す言葉を失っていた。
声にならない想いが、胸の奥で音もなく渦を巻く。
──どうして泣いているのか、自分でもわからなかった。
ただ、抑えようとしても涙が勝手に零れ落ちる。
どうにもならない衝動が、胸の中で暴れ回っている。
そしてついに、困り果てたように、リリアンは男に笑いかけた。
頬に添えられた男の手に、自分の手をそっと重ねる。
男の手が、驚いたようにピクリと動いた。
それを宥めるように撫でながら、リリアンはその大きな掌にそっと頬を擦りつけた。
懐かしい匂いを探すように。
「……何でもないの」
ポロポロと零れる雫もそのままに、男を見上げる。
──私、魔女でよかった。
こうしてもう一度、この子に会えた。
たとえどんな理由でも構わない。
だって、こんなにも……幸せなんだもの。
涙を湛えたまま、リリアンはそっと微笑んだ。
豊かな金の巻き毛が、風にそよいで揺れる。
その髪が、男の手にかすかに触れた。
男の瞳はどこか遠くを見るように揺れ動いている。
──私のことを覚えている?
そう聞きたくてたまらないのに、答えを知るのが怖かった。
雨の音と、木の爆ぜる音だけが森にこだまする。
まるでそこだけ世界から切り取られてしまったように、二人はただ見つめ合っていた。
はしばみ小屋の魔女 ほしのかな @kanahoshino
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