第2話 契約の夜
「貴殿が魔女か」
男がリリアンを訪ねてきた日を思い出す。
その日は
大陸の外れ。獣と魔物ばかりが暮らすはしばみの森の小さなあばら家。リリアンのささやかで唯一の隠れ家に、獣人の男は息を切らして飛び込んできた。
「息子を助けてくれ」
喉の奥にはりつくような絶え絶えの声音で男は言った。
「このままでは死んでしまう」
今まさに紅茶を啜ろうとしていたリリアンは、ティーカップを机に戻すと、目の前に現れた男の瞳をまっすぐに見つめ返した。
見下ろす瞳は焦燥に染まり、瞳は燃えるように赤い。浅黒い頬のあちらこちらに血と泥がこびりつき、髪や耳にもべったりと暗い影を落としていた。
小屋の扉は開け放たれたままだというのに、むせ返る程の血の匂いが満ちている。
リリアンは小さく息を吐いた。
「……それはあなたもじゃないかしら」
「俺はいいんだ。それよりこの子を──!」
血で汚れたボロ布を巻いた腕の中には、小さな赤子が抱かれていた。男の纏うそれに比べればいくばくかは清潔な布で、大切そうに包まれている。
ここまで懸命に守り通したのだろう。リリアンは親子が辿った道中を思いながら、そっと赤子の柔らかな髪をかき分けた。
男によく似た赤い髪と狼のような耳。豊かなまつ毛がふっくらとした頬に淡く影を落としている。
リリアンの指が赤子の頬に触れると、赤子はそっと目を開いた。
静謐な泉に良く似たアイスブルーの瞳が、リリアンを映す。
かわいい子。自分の身に起きたことすら分からず、父の腕の中安心しきった表情を見せている。祝福されるべき
──だが。
「……残念だけれど、すでに彼岸を覗いているわ」
体の中に巣くう何かによって、命を食い荒らされている。このまま放っておけばまもなく常闇の川を渡るだろう。
「契約を」
男は言った。
大きな体躯をかがめて、一見十四、五の少女と見紛うほどの、小柄で華奢な魔女に膝をつく。
男の髪を伝って一筋の血がリリアンの足元に落ちた。
「俺はどうなっても構わない。息子を助けてくれ」
人の家を訪ねる時の礼儀も知らぬのか。どうやってこの場所へたどり着いたのか。そしてなぜ──リリアンを魔女だと知っているのか。聞きたいことは山ほどあったが、男の必死な形相を前に、それらの言葉を飲み込んだ。
「……ごめんなさい。契約はできないわ」
リリアンの静かな言葉に、男は目を見開いた。拒絶の言葉を全く予想していなかったのだろう。驚いたように息を呑むと「なぜだ」と声を絞りだした。
「望むものはなんだって差し出す!金は……今はここにあるだけしか無いが、必ず……!」
震える手で金貨の詰まった袋を差し出す男を、リリアンはまじまじと眺めた。
燃えるような赤毛から伸びる犬型の耳、触れれば火傷してしまいそうな程に鮮やかなルビーの瞳。全身が泥にまみれていても、滲み出る気品は隠しきれていない。
「あなた、フォールートのコヨーテね」
「その名は捨てた。ただの父親であること以外、今の俺には残っていない」
フォールート領の領主、ノーザン・フォールート。リリアンの情報筋によると、情に厚く民たちからも慕われる良侯だと伝え聞く。……数日前、従兄弟に足元を掬われ、討ち取られるまでは。
「あなたもその子も、ケガなら治すわ。だから帰って」
リリアンは肝心なことに気が付かないふりをしながら、そう言った。
「そうではない!……いや、すまない。それは本当にありがたいのだが、違う。貴殿にも見えているのだろう?」
男の腕に大切に抱かれた赤子をから、荊のような煙が立ち上る。
「呪いね」
赤子の命を確実に奪う陰湿な呪い。通常魔法では解呪することはとうてい出来ない術式だ。──リリアンの能力を持ってすれば話は別だが。
でも。とリリアンは思う。
(もう人との関わりを持ちたくない)
それがリリアンの本音だった。
リリアンが望んでいるのは気ままな隠居暮らしだ。
契約をするともなれば、この静寂は失われる。
それ以上に、契約を終えた後の侘しさに、もうホトホト疲れてしまったのだ。
思わず重い息がこぼれる。
「申し訳ないけれど……」
断りの言葉を紡ぎながらも、リリアンの指は僅かに震えていた。
目の前の男の姿が、いつかの記憶と重なる。
どれほどの願いを叶えても、どれほどの人を救っても、最後に残るのはいつも虚しさだった。
思い出したくない名前が、いくつもある。
「あのとき、手を貸さなければ」と悔やむことに疲れた。
だからもう、知らない。関わらない。
それなのに、どうしてこんなにも胸が痛むのか……。
「頼む、頼む!……もう俺にはこの子しか残っていないんだ。俺の命をすべて捧げても構わない」
男の声は震えている。
フォールートの領主には妻も娘もいたはずだ。──少なくとも数日前までは。
命あるものはやがて尽きる。長い時を生きてきたリリアンにとって、喪失とは億劫ではあるが悲しい物ではなかった。虚しさは常につきまとうが、全ては理の中。仕方のないことなのだから。
そう思っているはずなのに。
大きな体躯を丸めてえずくように「頼む」と繰り返すその背中に、リリアンは苦虫を噛み潰すような思いがした。
「……困るわ。頭をあげてちょうだい」
リリアンが声をかけても、男は少しも動かない。その代わりに、男の腕の中できょとんとしていた赤子が、リリアンに手を伸ばした。ふわふわとした微笑を浮かべて、リリアンをじっと見つめている。
赤子の瞳から目を逸らすことすらできず、リリアンは観念したように口にした。
「……あなたの命をその子どもに移すことはできるわ」
きっと、また後悔する。
それでも、目の前の父子を見捨てることはできなかった。
「ならばすぐに頼む!!」
「今すぐには無理よ。契約には代償がいるの。特に命を操る魔法であれば、なおのこと」
「どんな代償だって構わない!何だってする!」
やっと見つけた我が子の命綱を離すまいと、男は小さなリリアンに縋りついた。
「時間よ」
「命ならば惜しくは無い」
「そうじゃない」
男は理解できないという風に、怪訝な顔を浮かべて唸った。
「私と一緒に暮らしてもらうわ。このはしばみ小屋で」
「一緒に暮らす?」
男は呆然とした様子で、リリアンの言葉を繰り返す。
「そうね……あなたとその子、二人合わせて──二年でいいわ」
リリアンは男と自分に言い聞かせるように、わざとゆっくりとした口調で言った。
「この“はしばみ小屋”で、私と共に暮らしてちょうだい」
これから訪れるであろう賑やかな日々に、リリアンは覚悟を決めた。
「そしてその二年間の記憶を、私にちょうだい」
何度後悔を繰り返しても、最後には茨の道を選んでしまう。
──学習しないんだから。
そう胸の内で嘆きながらも、リリアンはそっと目を閉じた。
(……でも、きっとこれが“私”なのだ)
「待ってくれ。意味がわからない」
戸惑いの浮かぶ男の顔を覗き込み、リリアンはふんわりと微笑んだ。
「依頼者の心に残る“私の記憶”──それが、魔法の代償なのよ」
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