第36話「推し活から、人生活へ」

「やば、またRTしちゃった……」


通勤電車の中、スマホ画面には春日駿の最新ライブ告知。沙織の指は無意識に“いいね”と“拡散”の連打をしていた。


「いや、べつにいいんだけどさ……」


電車の窓に映った自分の顔を見て、小さくつぶやく。


「私、まだ“推し”に縛られてる?」


ライブの日程は全部チェック済み。出演番組は録画もリアタイも抜かりなし。ハッシュタグの流行り方も分析済み。


――あれ、なんか、これって。


「仕事より推しの情報のほうが頭に残ってるんじゃ……」


と気づいた瞬間、目の前の広告が目に入る。


《自分の物語、歩いてる?》


健康食品の広告だった。だけど今は、そのコピーがグサッと刺さる。


(私の物語……って、推しが主人公のスピンオフじゃないよね?)


降りる駅が近づき、慌ててスマホをカバンに突っ込む。なんとなく、今日は“推し”の気配を断って過ごしてみよう。そう思った。


***


「……で、ここの資料、もう一回修正お願いできます?」


「はいっ!」


資料の修正を頼まれて素早く対応する沙織。かつてはミスを出しては落ち込み、こっそり涙ぐんでいた彼女が、今や他部署の社員にも「頼りになる派遣さん」として名が知れ始めていた。


「桐谷さん、最近ほんとに安定してるよね。ちょっと前まで、もっとオロオロしてたのに」


「……うっ、否定できない」


思わず笑いがこぼれる。以前の自分と比べて、明らかに変わってきている。


「でもなんか、良い意味で“地味さ”が消えてきたっていうかさ」


「それ褒めてます?!」


「もちろん!桐谷さんって、無理に主張してないのに、自然に人を引き寄せる感じあるよね」


「うわ、それ推しに言われたいワードNo.1かも」


「え、推しって春日駿でしょ?言いそうじゃない?」


「言わないでぇえええ!」


一同爆笑。


けれどその後、沙織はふと真顔になる。


(……言われたい、のか、私)


(もう、推しに救ってもらわなくても、大丈夫になったと思ってたけど……)


(それでも、やっぱり言われたかったんだ)


***


仕事帰り、カフェでひとり、ノートを開いてみた。そこには、昔書き留めていた“推し語録”や、好きなシーンのイラストがぎっしり。


その下に、こんなメモもあった。


「駿くんみたいになりたい」

「駿くんに見合う人になりたい」

「駿くんに気づいてもらえる人になりたい」


「……ぜんぶ、“私がどう見られるか”だ」


そのとき、胸がすうっと冷えた。


(私は、誰かに見つけてもらいたかったんだ。認めてもらいたかったんだ)


(駿くんが“推し”だったのは、たぶん――)


(自分を好きになれなかった、私の代わりだったんだ)


カフェの窓から、街の灯りが静かに瞬いていた。


「でも、今の私は、ちょっとだけ自分を好きになれてるかもしれないな」


ノートの余白に、そっと書き加える。


「これからは、自分の物語を歩こう」

「主役は、私」


***


翌朝。


「おはようございます!」


「お、今日も元気だねー」


「この前の資料、助かりました!また頼っちゃうかも」


「もちろんです!」


沙織の声は、以前よりもよく通っていた。姿勢も、視線も、堂々としていた。


ランチタイム。後輩の原田くんがこっそり耳打ちしてくる。


「先輩、最近なんか……光ってません?」


「え、なにその表現。アイドル目線?」


「いや、前より“主役感”ありますよ。あ、でも推しにはならないんで安心してください!」


「はーいはい、ちゃんとフラれてますよーっと」


みんな笑った。


かつて「誰かに必要とされることでしか、価値を感じられなかった」彼女が、今では自分の言葉で立ち、自分の力で歩き、自分の人生を選びはじめていた。


職場の端末にふと表示されるアラート。


《昼休み明けまで あと5分》


画面の片隅、アプリの通知欄には未読の駿関連のニュースが光っていた。


でも沙織は、今はタップしない。


(もう少しだけ、自分と向き合う時間を大切にしたい)


スマホを伏せて、残り時間でコーヒーをひとくち。心の中で、そっとつぶやいた。


「ありがとう、推し。でもここからは、私のターンでいくよ」


《現在の数値:50/100》


画面には変わらぬ数値が表示されたまま。


けれど沙織の心は、確かにひとつ前へ進んでいた。

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